異界のユニコーン
ルナマリアが異界の門に飲み込まれたことを確認した僕はなんの躊躇もなく崖から飛び降りようとした。そんな僕の肩を掴むのは狩人のジンガだった。
「おい、ウィル、まさかおまえも異界の門に飛び込むって言うんじゃないだろうな」
「飛び込む」
なんの躊躇も迷いもなく即答する。
「おまえはうちの村のババ様に聞かなかったのか。あの門に入ると二度と戻ってこられないんだぞ。うちの母親もそうだった」
「知っている。でも、そんなの関係ない、ルナマリアを助けないと」
僕の目を見て説得するのは不可能と悟ったのだろう。ジンガは大きな溜め息をつく。
やれやれ、というポーズをした上で、彼は懐からなにか取り出す。
「……それは?」
「これは『結界打破の護符』だ」
「結界打破?」
「読んで字の如くだ。これは異界の門を破壊できる護符だ」
「そんなものを持っていたんだ」
村でババ様が「ジンガのやつはなにかしらの方法を見つけたのだろう」と言っていた、きっとこのことを指していたのだろう。
「手に入れるの大変じゃなかった?」
「まあな。商人に大枚をはたいてやっと手に入れた。なんでも徳の高い坊様の即身仏のキモを煎じて作ったインクで作ったそうな」
「御利益がありそうだね」
「ありありだよ。これを使えば異界から現世に戻ってこられる。――ただし、異界の内側からしか効果がない」
「それでジンガさんは異界の門を探していたんですね」
「そういうこと。おまえたちがいたからここまでこれたんだ。だからこれはおまえたちが使え」
「いいんですか? お母さんを救う最後の手段なんでしょう?」
「そうだ。しかし、この護符はみっつある。つまりおまえとあのお嬢ちゃん、それに母さんを連れ戻すには十分ってことだ」
「ジンガさんは迎えに行けないってことですね」
「かまいはしない。結果的に母さんを連れ戻せるならば。それに最強の神の子と聖女様がいったほうがなにかとやりやすいだろう」
俺の代わりに頼むわ、と軽口を叩くジンガであるが、僕は知っていた。自分の力でお母さんを救えない悔しさを。大好きな人の命運を他人に委ねる心細さを。それを知っているだけに逡巡することはできなかった。
僕はジンガから護符を受け取ると、彼の右手を力強く握り絞めた。
「どんなことがあってもルナマリアとジンガさんのお母さんを連れて帰ります」
決意に満ちた言葉にジンガは微笑む。
「おまえを信じている」
その言葉を耳に焼き付けると、僕は崖から飛び降りた。
ぽっかりと口を開け、雄牛と聖女を飲み込んだ異界の門へ僕も飛び込んだ。
カコン……
カコン…………
カコン………………
気が付けば僕は薄もやの掛かった場所にいた。
霧のようなものに包まれた森にいた。
そこが異界であると理解するのに時間がいった。なぜならば霧があることと、太陽がないこと以外、普通の森となんら変わりがないからだ。
「……ここは異界なのか」
ぽつりとつぶやくと、見慣れた顔がにゅっと出てくる。
「正解でございます。ウィル様」
僕が慌てなかったのはその人物に敵意がないと分かったからだ。彼女はこの世界で一番優しい巫女様。ルナマリアだった。
どうやら彼女は気を失った僕を膝枕していたようだ。
「ルナマリア。さっそく再会できて嬉しいよ」
「私はその10倍嬉しいです。まさかこのような場所まで追ってきてくださるなんて」
にこりと微笑む聖女様。その笑顔にすべてが癒されていくような気がする。
「当然だよ。君を救うためならば地獄の底でも行くよ」
「ならば徳を積んで天国に行きとうございます」
「君ならばいけるさ」
にこりと微笑むと、ルナマリアも同じように微笑み、僕の目を見つめる。
しばし彼女と見つめ合うが、その時間は永遠に続かなかった。
くしゃり、と落ち葉を踏む音が聞こえる。
「――気が付いた? ルナマリア」
「――ええ、もちろん、この世界には我々以外にも誰かがいるようですね」
うなずき合うふたり。
「敵ではないといいけど」
「少なくともベルセル・ブルではないようですが」
そのようなやりとりをしていると、闊達な女性の声が聞こえる。
「お、その様子じゃ、このあとチュッチュには発展しないようだね。異界じゃ娯楽はないからデバガメしてやろうと思ったのに」
「…………」
「…………」
あまりもな場所であまりもな台詞を聞いてしまったので、一瞬、言葉を忘れてしまったが、僕はすぐにその女性が誰であるか気が付いた。
それを確かめる。
「あなたはもしかしてシズクさんではないですか?」
その言葉を聞いた女性はきょとんとする。
「たしかにそうだけど、あんたと出会ったことあったかい? 見たところ街の子に見えるが、街に行ったときにでも逆ナンでもしたかねえ」
うーん、となるシズクさん。悩んでいる姿はジンガにそっくりだ。容姿ではなく仕草などがそっくりなのだ。シズクさんの容姿はどちらかといえば美人に分類される。
「違います。シズクさんとは会ったことはありません。しかしあなたの息子であるジンガさんとは知り合いです」
その言葉にシズクさんは前のめりになる。
「ほんとかい!? てゆうか、あの子、生きてたんだね」
心底ほっとし、涙目になるシズクさん。たしかに彼女の認識だとジンガは緑熱病に伏せている子供なのだ。
僕は現状を報告する。
「シズクさん、驚かないでくださいね。実はあれから二〇年近くの時が流れています」
「ま、まじかい!?」
驚愕の表情を浮かべるシズク。
「おそらく、こちらの世界では時間がゆっくり流れているようです。シズクさんの容姿が若々しいお母さんなのがその証拠」
「当たり前だろう。あたいはまだ一〇代だ」
「やっぱりそうなんですね。異界とあっちの世界では時の流れ方が違うようです」
「そんなの信じられないね、――と言いたいところだが、ここは異界だからね。あっちの世界とはなにもかもが違う。そういう伝承も聞いたことはある」
「その伝承は真実だったようですね」
「つまりこっちではあっという間に時間が流れてしまう、ってことか」
「そうです」
「それじゃあ、早くここからでないとジンガのやつが老衰で死んじまうね」
「ですね。ささっと脱出しましょう」
僕は懐にある『結界打破の護符』の護符に手を伸ばすが、その動きが止まる。
視界の先に見慣れぬものが飛び込んでしまったからだ。
透き通るような蒼い獣皮を持った美しい馬が目の前をよぎった。
真っ白な雄々しい角も持っている。
「あれはユニコーン!?」
ルナマリアも驚いている。
ユニコーンはなかなか見られない幻獣だからだ。
ただシズクさんは驚く様子がない。
「ああ、ユニコーンね。この森ではときたま見かける」
「もしかしたら幻獣は普段は異界で生活し、時折、我々の世界にやってくるのかもしれませんね」
「そうだね。そう考えるとレアなのが説明つくね。――って、あんたたち、物欲しそうな目をしているね」
シズクさんの言葉に僕たちはどきりとしてしまう。
実は今、あの一角獣の角がほしいのだ。
あの角を持って帰れば村の子が救われる。
マイルという名の少年の命が助かるのだ。
そう思うと見逃すことはできなかった。
僕はルナマリアのほうへ振り向くが、彼女は当然のように微笑む。
「ウィル様ならば必ずユニコーンを狩るとおっしゃると思っていました。無論、このルナマリアも一緒です。ふたりでユニコーンの角を手に入れ、緑熱病で苦しむマイルを救いましょう」
なんの躊躇いも戸惑いもない答えだった。僕とルナマリアのやりとりを見てシズクさんもうなずく。
「あんたらのやり取りを見て分かったよ。あんたらがとても優しい人間だってことが。マイルっていうのはバルカ村の子なんだろ? ならあたいも手伝うよ」
「それは駄目です。シズクさんの帰りを待っている人がいますから」
「なあに今さら数日待たせてもジジイにはならないだろう。それにあんたらを見捨てて息子の顔を見に行ってしまったらシズクの名は恥知らずの代名詞になってしまう」
真剣な瞳で言うシズク。そのような表情をされては断ることなどできない。それにこの森は時間の流れが普通とは違う。議論すればするほど現実で時間が経ってしまうのだ。
マイル少年は今この瞬間、高熱に苦しんでいる。一刻も早くユニコーンの角を持ち帰らなければならないのだ。
そう判断した僕はシズクさんに『結界打破の護符』を渡すと走り出す。
彼女も一緒に走りながら尋ねてくる。
「これは?」
「結界打破の護符です。これを使えばここから抜け出せる」
「へえ、ありがたいね。息子からの母の日のプレゼントってわけか」
大事に使おう、と首から掛ける。
僕たちはそのままユニコーンを追う。
ユニコーンは僕の追跡にすぐに気が付き、速度を早める。距離こそ離されないが、なかなか攻撃が届く範囲まで詰め寄れなかった。
「くそッ……」
自分の鈍重さが腹立たしいが、反省会を開いている暇はない。愚直にユニコーンを追いかける。途中、ルナマリアも手伝ってくれるが焼け石に水だった。
ユニコーンは駿馬のような強靭さと山羊のような瞬発力を持っていた。
僕とルナマリアは汗を滲ませる。
「……これはなかなか捕らえられそうにありませんね」
「……だね」
互いに顔を見合わせると苦笑いをする。
僕はヴァンダル父さんの書斎にあった『ウラシマタロウ』という童話を思い出す。
ここではない世界の童話だ。ウラシマタロウは助けた亀に竜宮城という場所に連れて行かれる話だが、そこは海の上とは時間の流れ方が違うのだ。ウラシマタロウは竜宮城に留まったせいで地上に換算して数十年の時間を過ごしてしまった。無論、そうなると家族や縁者は皆、死んでいる……。
この話の教訓は時間の流れを甘く見てはいけないということだ。
ウラシマタロウは反面教師にしなければならない。
そう思った僕はさらにスピードを速めた。
ユニコーンはそれでも捕まえることはできないが、僕は正面からユニコーンを捕まえることをすでに諦めていた。
無論、諦めたのは『正面』から捕まえることだけだけど。
正面から捕まえることができないのであれば、『搦め手』を使え。それが魔術師ヴァンダルの教えだった。
ユニコーンをとある一角に追い込むと、そこに一筋の矢が向かう。
打ち合わせをしたわけでもないのに、シズクさんはユニコーンの後方に回り込み、退路を塞いでいたのだ。
彼女ならば必ずそうしてくれる。そう思いながら行動を積み重ねていたのだ。
シズクさんは矢をユニコーンの足に命中させると、そのまま距離を詰める。
その姿を見てルナマリアは賞賛する。
「シズクさんの機転も凄いですが、なにも言わずに連携を図ったウィル様もすごいです」
「事前にジンガさんと一緒に何度も戦ったからね。やっぱり親子は呼吸が似ている」
「性格も少し似ています。豪放なところとか」
「だね」
そのように余裕の笑みを浮かべる僕たちだが、それは即座に崩れ去る。
――シズクさんがユニコーン捕縛に失敗したからではない。彼女は足を射貫かれたユニコーンの目前まで迫り、なかばユニコーン捕縛を成功させていた。しかし、最後の最後で邪魔をする存在が現れたのだ。
森の中から突然現れた化け物によってユニコーンの首はむんずと掴まれ、そのまま頭ごと囓られる。ユニコーンは当然、絶命するが、化け物は馬肉だけでは満足しなかったようだ。真っ赤に血走った目で僕たちを睨み付けてきた。
ルナマリアはその化け物の名を叫ぶ。
「ベルセル・ブル!」
ここ数日、その化け物の名前を何度聞いたことだろうか。いい加減、耳にたこができるが、やつとはここで決着を着けねばならなそうだった。




