迷子
クラウス卿の屋敷を出る。
クラウスの屋敷は王都の中心地にあるから、そこから王都郊外に出るのはそれなりに時間が掛かった。
王都はそれくらいに広大なのである。
「このような大きな街はそうそうないだろうな」
感慨深げに言うとルナマリアは同意する。
「ミッドニアではこのアレクシスが最大の都となっています」
「でもこの大陸にはアレクシスよりも大きな街があるんだよね」
「左様でございます。――ウィル様は博学ですね」
「ヴァンダル父さんの座学で教わったからね」
「英雄たるもの、知識も大切です」
「いつかそれらの街にも行ってみたいな」
「ウィル様が望むのならば」
ルナマリアはにこりと微笑む。
王都の城壁を越え、人の数が減ると彼女の表情が穏やかになったような気がした。
そのことを指摘するとルナマリアは言う。
「王都は人の熱気がすごいです。人が多すぎて疲れます」
「たしかに。田舎者の僕にはきつかったかも」
「私も田舎出身なのですが、それ以上に耳を頼りに生活しているので困ってしまいます」
なるほど、と改めて彼女の顔を見る。彼女を目を閉じていた。
地母神の巫女ルナマリアは盲目なのだ。幼き頃に視力を神に捧げ、それと引き換えに神の声を聞けるようになったのである。
以来、彼女は聴覚を頼りに生きてきたのだ。普段の生活ではまったく不便を感じさせない彼女であるが、騒音だけは苦手なようで、王都にやってきてからはときどき物憂げな表情をさせていた。
筋肉の軋みまで聴き分ける彼女の耳では、雑踏鳴り響く王都は心地よい場所ではなかったようである。
「……巫女様も大変だ」
月並みの感想を漏らすと、なるべく静かな道を選びながら北へ進んだ。
王都アレクシスは四方八方に街道が繋がっている。この国の街道はすべてアレクシスに繋がっている、といっても過言ではなかった。
なので神々の住む山の近くまではなんの苦もなく向かうことができた。
問題なのは神々の山へ続く森であった。
さすがに森の中までは街道が整備されてはいない。
基本テーブル・マウンテンにおもむく旅人はいないのである。
テーブル・マウンテンは神域でみだりに立ち寄ってはいけない場所になっているし、その周辺の森には凶悪なモンスターがいるから、狩人もあまり近づかない場所になっているのだ。
街道から少し離れた森の入り口を見る。
「これからこの森を通り抜けなければいけません」
「だね」
「この森には獣道しかありません。モンスターのほうはウィル様がいる限り心配はないでしょうが」
「まあ、子供の頃から戦っているから、今さら負ける気はしない」
「問題なのは道のほうでしょうか」
ルナマリアは懐から方位磁石を取り出す。磁石はくるくると回っていた。北を示すことはない。
「この付近の森は強力な磁場に包まれているようです」
「なるほど」
「――ウィル様がなるほどと言うことはそのことを知らなかったのですね」
「まあね。僕はテーブル・マウンテンには詳しいけど、その外周部はほとんど知らないよ」
「ですよね。となると自力でこの森を抜けないといけません」
「そうだね。ところでルナマリアはどうやってこの森を抜けたの?」
「私は西方からテーブル・マウンテンに登りました。西側にはこのような森はありません」
「なるほど、降りるときは北側だったしね」
「北側も西側と同じくらい楽でした」
「じゃあ、西まで迂回しようか」
「そこまですると一週間ほど時間が掛かってしまいます」
「急ぐ旅じゃないけど、そこまでするのもなあ」
というわけで満場一致でこの森を抜けることが決まる。
「幸いと神々の山の裾野の森はそこまで広くありません。迷うことはないかと」
「だね。僕は山で育った野生児だし、ルナマリアは神様に守護された巫女様だ。さくっと抜けられるはず」
そのようにまとめる僕であるが、それは安易な決断だったのかもしれない。
余裕綽々で森の中に入ると、速攻で迷う。
まるで芸人のような振りである、と苦笑いを浮かべる僕たちであるが、笑ってばかりもいられなかった。
森で遭難してそのまま死ぬ冒険者も珍しくないのだ。
僕は大きな木の横にある白骨化した死体を見る。おそらく草食動物のものであろうが、僕たちはこうならない、と断言することはできない。
なので手早く森を抜けようとするが、神々の山の裾野の森はなかなかに手ごわかった。
――一刻後。
僕とルナマリアは視線を合わせると、大きな溜め息を付く。普段、溜め息の数だけ幸せが逃げてしまう、と公言しているルナマリアが溜め息を漏らすのが、現在の状況を如実に表していた。
ただルナマリアはなかなか強情というか、『僕』の失敗を認めたくないようだ。
僕が「ごめん」と謝ると、彼女は「なぜ、謝るのですか?」と尋ね返してきた。
「いや、僕が最短距離で抜けようと言ったから」
「それに同意したのですから、私も同罪です。――いえ、わたしたちはただ『ちょっと』道に迷っっただけですから、後悔する必要もありません」
「でも僕たちは遭難してしまったよ」
「遭難ではありません。ちょっと迷子なだけです」
「獣道すら外れてしまって、北も南もわからない。これは遭難っていうんじゃ……」
「ちょっとルート選択を誤ってしまっただけですよ」
「さっきから同じルートをぐるぐると回っているような気がするけど」
「気のせいです」
「目印を刻み込んだ木を何回も見ているよ?」
「それこそまさに『木』のせいです」
「…………」
「…………」
互いに顔を見合わせる。
しばし沈黙する。
ルナマリアは「……こほん」と咳払いをするとこう言った。
「たしかに我々は限りなく遭難に近い状況ですが、問題はありません。食料は潤沢ですし、それにそのうちこの森を抜けることもできましょう」
「やけに自信満々だね」
「ウィル様の隣は世界一の安全地帯です。神の子ですから常に正しい道も選んでくれましょう」
「神の子でも遭難はするよ」
文句を言おうと思ったが、それよりも先に状況に変化が訪れる。
僕の鼓膜に風切り音が飛び込んでくる。
弓を絞る音と、矢を放つ音だ。
数十メートルほど離れた場所で戦闘が行われているようだ。
僕の耳に入っているということはルナマリアならばもっと鮮明な音が聞こえているに違いない。彼女に詳細を尋ねる。
「数十メートル先で戦闘が行われているようだけど、間違いないかな?」
「ご明察の通りです。大地に落ちた枯れ葉を踏みしめる音が聞こえます。二本足の生き物が弓を持って戦っていますね。相手は魔物です。こちらは四本足のようです」
「なるほど、ケンタウロス同士の戦いではないということか」
冗談で返すとルナマリアは軽く笑う。
「ですね。二本足のものは狩人でしょう。軽装で弓を主体に戦っているようです。四本足の獣はとても大きいです」
「どっちが劣勢?」
「狩人です。――傷ついているようです」
「ならばすぐに助けないと」
「そう言われると思ってました」
ルナマリアはにこりと微笑むと、荷物をその場に置く。愛用のショートソードだけを取り出すと駆け出す。
僕はというとすでに数メートルほど先行していた。おおよその戦闘距離は把握していたし、女の子のお尻を見るような趣味はないからだ。
剣神ローニンの息子は常に女の子に背を向け、敵に胸を晒すのだ。
その姿を見たルナマリアは「さすがはウィル様です」と言った。




