滝壺の主
神々の山、テーブル・マウンテンから下山した僕。
そのままテーブル・マウンテンの周囲を包む大森林を進む。
小鳥や子鹿を見かける。この森は豊穣の森なのだ。
「このように豊かな森はミッドニアでもそうそうありません」
「そうなのか。僕は山を下りたことないから分からないや」
当たり前の返答をするが、実は心ここにあらず、である。
初めての下界、僕の心は逸っている。
テーブル・マウンテン以外の森に興味津々だった。
「なんかちょっと生えている木が違うね」
「それは植生というやつですね。地方によって生える木々は変わります」
「なるほど」
「温暖な地域では小さな木々が密集し、ジャングルになります。寒い地域には針葉樹などが多いですね」
「ローニン父さんはスギの花粉症だから北方に行けないな」
そう笑うとルナマリアも同意してくれる。
「そうですね。さて、出立してかなり経ちましたし、そろそろ昼食にしませんか?」
「いいね。ローニン父さんが作ってくれたサンドウィッチを食べよう」
と言うとルナマリアはシートを敷き始める。焚火も始め、お湯を沸かす。手際が良い。
僕も手伝うよ、と言うと彼女は右手を突き出し、止める。
「先日も言いましたが、私はウィル様の従者です。食事の用意は私の仕事」
「でも、ふたりでやったほうが効率的だ」
「今は急ぐ旅ではありません。ゆっくりと北部へ行きます。ウィル様はその間、初めての下界を堪能ください」
さしあたり、この辺を散策されたらいかがでしょうか?
という提案をされたのでそれを受け入れる。
いくら言ってもルナマリアの決意は変わらなそうだったし、それに彼女の言うとおり、初めての下界を堪能したくて仕方なかったからだ。
僕は先ほど見つけた滝を見学しに行くことにした。
テーブル・マウンテンにも滝はあるが、この森にはテーブル・マウンテンにはいない魚もいるとのことだった。
魚釣りが趣味のひとつである僕は、どのような魚がいるか、確認だけでもしておきたかった。
そのような理由で滝壺に向かったのだが、そこで僕は新たな出逢いをする。
滝壺で魚を獲っている少年を見つけたのだ。
年齢は僕よりも下だろうか。12歳前後に見える。金色の髪を持った少年だった。
彼は木の棒に糸をくくりつけ、滝壺にたらしている。釣りをしているようだ。
その光景を見て、小説のシーンを思い出す。
「……ええと、こういうときは釣れますか? と尋ねればいいんだよね?」
誰に言うでもなくつぶやく。
ルナマリア以外の人間とは初めて話すので緊張する。同じ性別の子と話すのは初めてだ。
もしかしたら友達になれるかもしれないし、最初の挨拶が肝心だと思った僕はこほんと咳払いをすると後ろから声を掛けた。
「あ、あの、初めまして! 僕の名前はウィル! 君の名前は?」
かなりうわずった上に大声だったので、声を掛けた少年は「わ!」とその場で跳びはねる。
あまりのことに釣り竿を落としそうになったので、慌てて空中でキャッチする。
彼はなにごとか? と僕のほうを見るが、僕が人間だと分かって安心したようだ。
ただ、驚かされたことを批難する。
「急に声を掛けないでください。熊かと思いましたよ」
「ごめん、楽しそうに釣りをしていたから、声を掛けたくなって」
「まさか、こんな森の奥で人と出会うとは思いませんでした」
「それは僕もだよ。麓の村から結構離れているみたいだけど」
「ええ、僕はとあるお方の従者なのです」
「従者? 誰の?」
「勇者様ですよ。剣の勇者様の従者を務めています」
えっへん、と胸を張る少年。
「剣の勇者? へえ、勇者様の従者なのか。あれ? でも、近くにはいないよね?」
周囲を見渡すが誰もいない。
集中し、さらに範囲を広めるが、ルナマリア以外の気配は感じない。
「……ええと、剣の勇者様は森の縁にいます。そこで僕が魚を釣ってくるのを待っているのです」
「君は魚を釣るためだけにここにやってきたのか」
「はい。剣の勇者様がどうしてもこの森の主を食べたいと言ったので」
「主?」
「はい。この森のこの滝壺に主と呼ばれる魚がいます。東方の外来種で、コイタロウと呼ばれる魚です」
「コイタロウね。主と言うくらいだからでかいのかな」
「おそらくは」
「でも、酷いね。君のような子供にひとりで釣りに行かせるなんて」
「はは、慣れましたよ」
と自嘲気味に笑う少年。
どうやらこのようなことはよくあるらしい。
夜中にメロンが食べたいとか、朝一番に和食が食べたいとか、剣の勇者様は我が儘の名人らしい。
軽く同情していると彼は「忘れていました」と頭をかく。
「僕の名前はリンクスと言います」
「いい名前だね。僕の名前はウィル。よろしくね」
と、右手を差し出し、握手をする。
「力強い握手から友情が生まれる」というローニンの言葉に従い、力を込めるが、フルパワーの三十分の一で行う。
ヴァンダルいわく、フルパワーで握手すると普通の人間は骨折してしまうらしい。
それでも結構強かったのか、リンクスは少しだけ表情を歪めるが、握手が成立すると場の雰囲気が和む。
その後、取り留めもない話をするが、途中、リンクスはとあることに気が付く。
「あ、そろそろ仕事に戻らないと」
「仕事ってコイタロウ釣り?」
「そうです。もう3日も粘っているのですが、なかなか釣れなくて」
「コイタロウなんていないんじゃ? もしくは餌が悪いのかも?」
餌はなにを使っているの?
と、少年に釣り竿を返しながら尋ねた。
「餌は生きたカモを使っています」
「生きたカモ?」
滝壺を覗けばたしかにそこにはカモがいた。そのカモの首に太めの糸が巻き付けられている。
カモは悠然と泳いでいる。
「…………」
世間知らずの僕であるが、釣りに関しては五月蠅い。
そんな餌じゃ絶対に釣れない、と言おうと口を開いた瞬間、少年の持っている釣り竿がしなる。
「こ、これは!?」
少年の顔色が変わる。興奮しているのが分かる。
「この引き、きっとコイタロウです」
見れば先ほどまでいたカモは水面にいなかった。なにものかに捕食されたようだ。
「あの餌で釣れたのか。しかも、これはすごい大物かも」
「はい。コイタロウはとても大きいんです」
と木の竿を引っ張るが、あまりに大物なので少年ごと引き込まれそうになる。
僕は後ろから彼を支え、一緒に引っ張るが、その引きは尋常じゃなかった。
「――なんていう引きだ。このままじゃ滝壺に引き込まれる。手を離すんだ」
「それはできません。勇者様にコイタロウを持っていかないと従者を首になります」
「君ごと食べられちゃうよ」
「そのときはそのときです。従者を首になるよりマシです」
命のほうが大事だろうに。まったく、なんて我が儘な勇者様だ。
そう思ったが、口にはしなかった。
また、僕たちも滝壺に引き込まれることはなかった。途中で木の棒が折れたからだ。
この棒ではあのような巨大な魚を釣り上げることはできない。
釣り竿が折れたことに落胆しているリンクスだったが、落胆していられるのも一瞬だけだった、
次の瞬間、「ざぱーん」と水面から音がしたと思うと、巨大な魚が空中に飛び出す。
見れば僕の三倍はあろうかという巨大な鯉がリンクス目掛け、飛びかかってきた。
そのままリンクスを捕食するつもりのようだ。
「なんて化け物だ」
僕は呆れたが、リンクスはあまりのことに声を失っている。
なにもできずに立ち尽くしている。
このままではリンクスは鯉に捕食されることだろう。――このままならば、だが。
しかし、そのようなことにはならない。僕の右手はすでに腰の短刀に伸びていた。
僕は二文字の魔法を詠唱する。
「斬!」
と叫ぶとミスリル・ダガーが青色に光り、斬の文字が浮かび上がる。
これは東洋の漢字と呼ばれるルーン文字だ。
斬とはスラッシュの意味である。
この付与魔法を掛けると剣閃が何倍にも強くなる特性があった。
僕はその特性を生かし、コイタロウを斬る。
コイタロウを真っ二つにする。
リンクス少年の横を駆け抜ける青白い剣閃。
それはそのままコイタロウに直撃し、巨魚を切り裂く。
目の前で巨魚が切り裂かれるのを呆然と見つめるリンクス。彼は腰を抜かしながらつぶやく。
「な、なんて剣閃なんだ。剣の勇者様でもこんな剣閃は放てない」
少年はキツネにつままれたかのように僕のことを見つめていた。




