大海原の悪魔
僕たちを乗せる船の名は、「海鷲号」という。
交易都市シルレの防衛艦隊の旗艦である。
旗艦とはフラグシップのこと。つまり艦隊の提督が乗り込んでいる。
十三隻で構成される防衛艦隊の長がエベック提督だった。
エベック提督は初老の男性で、歴戦の兵の風格がにじみ出ている。隻眼の偉丈夫で右目に眼帯をはめている。見ようによっては海賊にも見えないことはないが、実はエベック提督、若かりし頃は七つの海を荒らし回った大海賊の一の子分だったそうな。
今ではすっかり更生し、交易都市シルレの雇われ提督をしていた。
そのような人物であるから、海の上では頼りになることこの上ない。
エベック提督は一糸乱れぬ隊列を組み、艦隊を件の海域に向かわせる。僅かばかりの遅延もないので、当初の目論見通り三日後には到着するそうだ。
また見た目に反してとても優しい人物で、船酔いしたレヴィンに酔い止めの薬を与えたり、船酔いしない方法を教授していた。おかげで二日目にはレヴィンは元気いっぱいとなる。
これで戦域に到着しても戦力外でした、という事態にはならないだろう。ほっとする。
さてこのようにエベック提督の手腕と、しけにも出くわさない幸運のおかげで遅滞なく件の海域に到着する。
件の海域とは「海神」が暴れ回っている海域である。エベック提督が海域に到着したことを告げると、乗り込んだ水兵たちに緊張が走る。もう、いつ化け物に出くわしてもおかしくないからだ。レヴィンも神妙な面持ちをしながら、水面を見つめる。
「航海初日は美しいエメラルドグリーンの海だと思ったが、今はなんと不気味な……」
「……同意です。どこまでも深い海。暗く深い底に悪魔が潜んでいるかと思うと、戦慄します」
ルナマリアはそのような表現で身震いする。
それには僕も同意だ。水面を見つめていると、海の底から巨大な蛇に睨み付けられているような錯覚を覚える。桶に張った水の上の葉っぱに乗せられている蟻のような気分になる。
人間の弱さや限界について考察せざるを得ない状況となる。
そのように神妙な面持ちをしていたからだろうか。エベック提督が豪快な笑い声で話し掛けてくる。
「お嬢さんたち、あまり怖がる必要はないぞ」
「エベック提督」
「特に生け贄の囮にされるウィルヘミナ嬢は怖いだろうが、少なくとも大海蛇のもとまでは無事に送り届けてみせる。その後も〝場合〟によっては助力する。評議会の意向は知らぬが、我々海の男はか弱き女にすべてを押しつけるほど軟弱ではない。だから気負うな」
「提督、ありがとうございます」
提督の激励を有り難く感じた僕。スカートの両端を持って挨拶する。
「しかし、お主のような可愛らしい娘が生け贄 とは世も末だ。わしが評議会の参議ならば必ず反対するのだが」
「いえ、これは僕……、じゃなくてわたしが進んで申し出たことです。初めての大海原で緊張していましたが、もしもシーサーペントが現れたら、そのままやつの口元に飛び込んで、喉に剣を刺して見せます」
「これは勇ましいお嬢さんだ。わしが乗せているのはもしかして戦女神の化身なのかもな」
「それは言い過ぎですが、神々の前でも恥ずかしくない戦いをします」
「ならばわしも航海の神に恥じぬ指揮をしたいものだ」
エベック提督はそう言い切るが、神妙な表情でこう続ける。
「……わしらは全力でお主を守るが。最悪の事態は覚悟しておいてくれよ」
「……はい、分かっています」
最悪の事態とは、最悪、僕を生け贄に捧げてそのまま艦隊を反転させる事態のことである。
もともと、この作戦の目的はそこにあった。
アナハイム商会のカレンの代わりを僕が引き受ける条件のひとつだった。もしもシーサーペントが想像以上の強さの場合、〝伝統〟に乗っ取り乙女を生け贄に捧げて海神の怒りを鎮めるのだ。艦隊はそれが〝間違いなく〟執行されるか、見届ける役目も担っていた。
冷たいようであるが、たったひとりの人間の命と、交易都市の住民の生活を天秤に掛ければこのような方法を取るのも納得であった。――というかこの提案自体、僕がしたものだが。
ただ、納得していないものもいる。ルナマリアとレヴィンだ。
彼女たちはこう宣言する。
「艦隊はどうだか知らないが、あたしたちは最後までウィルと戦う。この旗艦をジャックしてでも最後まで残るぞ」
頼もしい言葉だが、そうならないことを祈る。
要は最初の一撃で、シーサーペント恐るべからず、という展開に持ち込めばいいのだ。
艦隊の力を結集すれば倒せると思わせればいいのである。
それには初撃が肝心だ。
そう思った僕はシーサーペントにどのような一撃を加えるか考えながら、小舟に乗り込んだ。
僕は生け贄なので、小舟に搭乗し、〝餌〟になるのだ。
ルナマリアたちは自分も乗り込むと主張するが、それはできない。小舟はひとりしか乗り込めないようになっているからだ。彼女たちの性格を考慮して用意して貰ったが、正解だった。
物理的に不可能なことを悟った彼女たちは、旗艦ゼーアドラーに残るが、大海の上に浮かぶ僕を心もとなげに見つめる。大洋の上に小舟を浮かべる、という諺があるが、まさに今の僕を指していた。
僕自身、不安感に包まれながら小舟で揺られる。早く僕に食らいついてくれと願う。
頼りない小舟で揺られていると心の奥底で恐怖心が生まれてしまうのだ。恐怖心が肥大化すれば、いざ、シーサーペントが現れたとき、正常な判断を出来なくさせる恐れがある。それは避けたかった。なので一秒でも早くやってきてほしかったが――
そう願っていた僕だが、航海の神様というやつはとても意地が悪いようだ。
ゆらり――、
と海面が黒くなる。それが巨大な生き物の影であることはすぐに察することが出来た。僕の真下にシーサーペントがやってきたのだ。しかし、やつは僕ではなく、他のものを得物に定めたようだ。
なぜそうしたのかは分からない。水上の上の僕の性別を確認することなど不可能であるが、荒神とはいえ神様、不思議な力で僕が偽物であると確認したのかもしれない。あるいは単純に腹を空かせており、小さな僕ひとりでは足りないと判断していたのか。
どちらかは分からないが、やつは防衛艦隊のひとつ、海鷹号に襲いかかった。
海面から大きな顔を海上に出す。蛇と竜の中間のような姿。見ようによっては鰻にも見える気持ち悪い生物が、海鷹号に食らいつく。
その一撃を予想していなかった海鷹号の水兵たち、恐慌状態になるが、幸いなことに今の一撃で死傷者は出なかったようだ。弩を放とうと先端部分に兵が集まっていたのが幸いしたのかもしれない。
海の猛者である水兵たちはすぐに恐慌状態から脱すると、シーサーペントに弩を浴びせたてるが、どんなに強力な弩もシーサーペントの鱗を貫くことはできなかった。
「……化け物か、こいつは」
海鷹号の船長はそう漏らし、絶望するが、エベック提督はいささかも戦意を喪失させていなかった。冷静沈着な声で各艦に命令を飛ばす。
「海鷹号の水兵たちよ、即座に海に飛び込め。各艦は小舟を出し、海に飛び込んだものを救出しろ。砲兵たちは海鷹目掛け、一斉に大砲を発射しろ!」
それは思い切りのよい作戦であった。
船の横腹を食らいつかれたとはいえ、海鷹号はまだまだ沈むことはなかった。なのにこの場で放棄させ、砲撃を集中させるのだから。
このような作戦を即座に考えつける指揮官は無能なわけがなく、その部下たちも愚かものではない。
即座に実行すると、砲弾の雨がシーサーペントに注がれる。雨あられのように大砲を浴びせられるシーサーペント。戦場に硝煙と血煙が充満する。さすがのシーサーペントも苦しんでいるようだ。もしかしたらこのまま砲撃だけでも勝てるかもしれない。
各艦の船長がそう思った瞬間、シーサーペントはその恐ろしさと生命力を見せつける。
苦痛の咆哮を上げた瞬間、海域の水兵すべての心胆を冷やし、その尾で二艦目の船を破壊する。鞭のようにしなやかな尾で海雀号を破壊すると、自分がこの海域の絶対強者であることを主張する。その攻撃で水兵たちの戦意は限りなく下がった。
このままでは総崩れとなって艦隊は撤退、……いや、壊滅すると思った僕は、近くにあった船に飛び乗る。《跳躍》の魔法を使ったのだ。
その姿はまるで海の上の猿だった。あるいは異世界の英雄源義経が使ったという〝八艘飛び〝に近いかもしれない。
不燃の甲板、マストを利用しながら、巨大なシーサーペントの頭部に近づくと、僕は予定通りの初撃をぶち込む。
「雷鳴剣!」
技の名前を叫ぶと、晴天の空から一筋の雷鳴が。
それがダマスカスの剣に飛来すると、そのままそれでシーサーペントを斬り付ける。
大砲の集中砲火を喰らったとき以上の咆哮を上げる化け物。
その光景を旗艦から見ていたレヴィンは叫ぶ。
「す、すごい。一瞬であの間を詰めるスピードも、海の化け物に効果的な雷の魔法剣を放つのも」
ルナマリアは補足する。
「ただの雷の魔法剣ではありません。禁呪魔法級のいかずちを封じ込めてあります。また最高の剣術で放っているので、その威力は尋常ではありません」
「たしかに。くそ、武者震いがする」
レヴィンはいても立ってもいられなくなったようだが、彼女は魔法を使えない。シーサーペントの懐に飛び込むことが出来ないのだ。ある意味それは僕にとって好都合だった。このままひとりでシーサーペントを倒したかったからだ。
僕は彼女がなんとかしてこの戦場にやってくる前に勝負を決める。先ほどの一撃で艦隊の士気は回復しつつあったが、それでも開戦前に戻った程度、ここから一気に状況を覆したかった。 僕はシーサーペントの頭の上に剣を突き立ってると、魔法を詠唱した。禁呪魔法である。
「暗雲に生まれし、破壊の衝動よ。
天と地の精霊たちの怒りを糧とせよ。
まばゆき光彩となり、敵を貫け!」
《雷雨の涙》
千の雷が同時に海蛇の頭部に設置した誘雷針に落ちる。
その威力は尋常ではなく、轟音と共に海蛇の頭部を焦がした。
どのような生物でも耐えられるはずがない。
それは事実で、シーサーペントはそのまま崩れ落ち、海の底に落ちていく。
「勝った」
誰しもがそう思った。事実、僕もそう思った。
これを喰らって立ち上がる存在は想定していないからだ。なにせあの魔術の神ヴァンダルが、「これは絶対に〝生き物相手〟に使うなと僕に念を押して教えてくれた魔法なんだ」
これを使って勝利できない生物などこの世にいないと思われたが、それは僕の驕りであったようだ。
魔術の神仕込みの禁呪魔法は〝生物〟には無敵でも〝化け物〟には通用しないようだ。
それを証拠に海の底に沈んだと思ったシーサーペントは反転し、海雁号で羽を休めていた僕に襲いかかる。
鞭のような尻尾を僕に向けてくる。
「――死んだ」
僕はそう思った。海神から交易都市を守ることが出来ず、海雁号の人々まで巻き込んで死んでしまう。そう思ったが、そうはならなかった。
思わぬ人が助けに入ってくれたのだ。
いや、それは人ではなかった。




