司教長
ゾディアック教団とは魔王ゾディアックを復活させるために暗躍している邪教徒の集団である。無論、本人たちが邪教だとは思っていない。混沌の神のゾディアックを崇拝する聖なる教団だと思っている。
――思っているだけでやっていることは邪悪にして狡猾なのだが。
彼らは世界中に菌糸を巡らし、混沌の種を植え込み、ゾディアック復活の準備を整えた。この交易都市シルレも例外ではない。
この都市にも着実に彼らの魔の手は伸びている。
しかもそれは思ったよりも表層面に伸びていた。この都市の権力機構を蝕みつつあったのだ。
――とある評議会議員の邸宅。
怪しく光る邪悪な目を持つ男は、豪奢なベッドの上で優雅にワインを飲んでいた。
バスローブは軽く乱れている。ベッドに敷かれた布団も。
布団は膨れ上がっている。だれかが寝ているようだ。
情交のあとを臭わせる風景だが、ただそれならばなにも罪深いことはない。
この男が罪深いのはベッドで寝ているはずの娼婦に神をも恐れる行為をしたのだ。
娼婦はもう泣き叫ぶことも、抗議することもできない身体になっていた。
「ちりん」
男はナイトテーブルに添えられた鈴を鳴らすと、屈強な使用人たちが部屋に入り、彼女を処理する。
この家の当主ケイオーンは三日に一度は娼婦を消費するから、手慣れたものであった。
手早く死体袋に詰め込むと、グランド商会の所有する船に乗せる。交易を装う振りをして海に捨てるのだ。――昨今、交易都市の航路はずたぼろにされているという評判だが、まだ一割ほどの航路は生きていた。それにシーサーペントは〝あの方〟が復活を早めたのだ。御し方もある程度心得ていた。
「こんな折りでも贅沢が楽しめるのは、ゾディアック教団に入ったからだ。邪教様様だな」
ゾディアックを邪教と言い切るのは、ケイオーンは信心深くないからだ。もともと、この都市の最下級の商人だったケイオーンが評議会の株を買うほどまでに儲けることができたのは、ゾディアックに忠誠を誓ったからなのだが、〝魂〟は邪教に売っても、〝脳〟は売るつもりはない。このように好きなことをし、好きなように生きたかった。
ケイオーンは再びグラスにワインを注ぐ。最高級のワインだ。ワインは元々赤いが、そこにさらに赤いものが混じっている。先ほど首を撥ねた娼婦の血だろう。死の間際のあの売女の顔は恐怖に歪んでいた。恐怖は血を変質させる、とても甘みを生み出すのだ。それがワインと合わさると、この世のものとは思えない味になる。
「最高だな……」
愉悦にひたっていると扉を叩く音が。執事がやってきて客人の来訪を告げる。
「お楽しみのときは誰とも会わないと伝えているはずだが?」
忠実な執事を睨み付けるが、執事は怯まない。
「やってこられたのは司教長様です」
と言った。
その言葉にケイオーンの表情は変わる。
ゾディアック教団は明確な階級社会だ。
ゾディアック様を頂点としているが、その下の宗教組織には明確な序列がある。
まずは大主教、その次は司教長、その次が司教……と続く。今、来訪したのは司教長である。この地区のゾディアック教団を束ねる総責任者であった。
ゾディアックによって栄達したケイオーンにとっては雲の上のような存在であり、面会を断れるような立場ではなかった。
ケイオーンは慌てながら服を着替えると、司教長を持てなすための用意を執事に命じる。
「最高の山海の珍味、最高の酒を用意するのだ」
そのように指揮するが、それは無駄に終わった。司教長は食卓の間ではなく、ケイオーンの私室、つまりこの場所にやってきたのだ。
ゾディアックの司教長アレンシュタインは無表情に言った。
「ケイオーンよ、久しいな」
「……これはこれはアレンシュタイン司教閣下、お久しぶりです」
「しばし顔を見ていなかった、相変わらず下劣な趣味を持っているようだな」
どうやらアレンシュタインは死体袋とすれ違ったようだ。そのことを咎める。
通常、ゾディアック教団は快楽に寛容で、殺人を咎める教義もない。欲望と自由に忠実であれ、というのがその教えなのだが、だからこそ逆にそれを嫌うものがいる。
欲望と自由を嫌う〝自由〟もまた保証されていたのだ。
ケイオーンはアレンシュタインが決して自分のことを好いていないことを知っていたので、今さら媚びを売るような真似はしなかった。
「……アレンシュタイン様、いつも魔の島で研究に明け暮れているあなた様が、今の時期になに用なのですか。あなた様のもくろみ通り、海の化け物は予定よりも早く蘇りましたが」
「たしかに予定よりも早く蘇ったが、予定よりも早く眠られては困る」
「そのようなことがないように評議会をそそのかし、生け贄の義を遅らせております」
「しかしそれは失敗しただろう。結局、アナハイム家の養女が生け贄の義を執り行うと聞いたが」
「お耳が早い」
「しかもこの街の艦隊が出動するそうではないか」
「たしかにその通りですが、まだ俺の策は未発に終わったわけではありません」
「というと?」
「艦隊はまだ半分は止められるということです。実はその艦隊の主、ブライエン家は今、娘婿を探しています」
「ほう、このような時期に」
「そうなのです。一週間後、その娘婿を決める武術大会が開かれます。」
「なるほど、そこで優勝し、ブライエン家の当主となるのか」
「そうです。ケニー・ブライエンは俺のことを蛇蝎のように嫌っていますが、約束は守る男。俺が優勝すればあの家の娘レヴィンは俺のものです。ブライエン家の家督もね」
「艦隊提供を断れるというわけか」
「左様です」
「悪い策ではないな。問題があるとすれば、その大会に〝あの少年〟が参加することくらいか」
「あの少年とはまさか〝神々に育てられしもの〟ですか?」
「ああ、そうだ」
神々に育てられしもの、その名はゾディアック教団の中でも広まっていた。ゾディアック教団の武の象徴である二四将を何人も倒し、何人もの司教を失脚させてきたのだ。いわば目の上のたんこぶ、不倶戴天の敵だった。
ケイオーンは一瞬、心をざわつかせたが、すぐにとあることに気が付く。
(……これほど教団を難儀させている敵を排除することが出来れば、俺の株は上がるのではないか)
もし、神々に育てられしものを殺すことが出来れば、俺は司教に、いや、司教長になれるかもしれない。
そうケイオーンは心を逸らせた。
一方、アレンシュタインはケイオーンに大した期待はしていないことは明白であった。無表情でこの俗物を見下ろしていた。ただ、司教長という立場上、無為無策で教団の敵に挑ませるようなことはできなかった。
教団の神器である宝玉を与える。
「こ、これは、二四将を宿したといわれる伝説アーティファクト!?」
「そうだ。これを使わなければおまえに勝機はない。あの少年は最強の神々に育てられたのだからな――いや、この宝玉を使ってもおまえでは……」
おまえの実力ではどうあがいても勝てない、そう皮肉を言っているのだが、ケイオーンは気にせず宝玉を受け取ると、深々と頭を下げた。
(……まあいい、魔術の神ヴァンダルの最後の弟子の力を測るには丁度いいだろう。それにこの愚物を倒せないのであればシーサーペントなど傷つけることもできまい)
そう思ったアレンシュタインはきびすを返す。この俗物と同じ空気を吸っていたくなかったのだ。それに付き従うように同行していたメイドもきびすを返す。
それによってやっとケイオーンは同行者の存在に気が付いたが、そのことを指摘することも、気に掛けることもなかった。
若く、美しい娘だったので、アレンシュタインも男だな、と思った程度だったが、あることに気が付く。
「…………そういえばこの娘、十年以上前にも見たことがあるぞ」
あれはまだケイオーンが教団に入信したての頃だった。まだ教団になにも貢献できず、最下層の信者として教団の祭典に参加したのだが、そのときも彼女はアレンシュタインの横に寄り添っていた。
――それはいいのだが、不思議なのは一〇数年が経過しているというのに少女が一向に歳を取っていないということだった。最初はエルフかと思ったが、違う。彼女はどこからどう見ても〝人間〟だった。
(不老不死の妙薬でも完成させたのだろうか……あるいは……)
ケイオーンはしばし考察したが、すぐにその考察を忘却させる。
司教長の一メイドなど、ケイオーンには関係ないからだ。
ケイオーンは一週間後に行われる武術大会で、どう残虐にウィルを殺すかだけを考えることにした。




