海神の生け贄
香辛料諸島特産の茶を嚥下し終えると、ヴィクトールさんは本題に入る。
「まずは我が娘のために遠路はるばるやってきてくれたことを感謝する。やはり君は義に厚い男だな」
娘よりも年下の僕に深々と頭を下げるヴィクトールさん。
彼はこの国でも有数の大商人、しかも血統によってなりあがったのではなく、自身の力で勢力を伸ばした傑物だ。そのような人物が頭を下げるなど、なかなかできない。器が大きい証拠だった。
そのような人物が頭を下げっぱなしだと恐縮してしまうので、上げて貰うが、それでも彼は感謝の念を隠さない。
「いや、以前のガルド商会のときも助けて貰った。君がいなかったらこの椅子に座っていたのはやつらかもしれん」
「それは最悪の事態ですね」
「だろう。だからいくら君に感謝してもしたりない。それにここにきてくれたということはまた娘を助けてくれると言うことだろう?」
「当然です。カレンは僕の大切な〝友人〟ですから」
「友人か。私としては婚約者だと思っているのだが」
それはないです、と言うとさすがに気を悪くするだろう。
カレンと僕を婚約させて、アナハイム家の跡取りに、という話はずっと出ている話だった。そのつど、お断りしているのだが、彼はまだ諦めていないらしい。
「まあ、それはまた今度だ。このままでは君の嫁ではなく、海神の嫁になってしまうのだから」
「海神の嫁……たしかカレンさんは生け贄に捧げられてしまいそうなんですよね?」
「そうだ。ハンスから概要を聞いていると思うが、詳しく説明しよう」
ヴィクトールさんはそう言うと、席を立ち上がり、僕の後方を指さす。
そこにはこの周辺の地図、いわゆる海図が書かれていた。
「ここが交易都市であることは君も知っていると思うが、交易都市というからには他の都市との交易によってなりたっていることは分かるね」
「はい」
「いくつもの線が延びていると思うが、その線が沖でひとつに交わっているだろう」
「ですね。島と島の間を通っています」
「そこがこの交易都市シルレの生命線だ。そこを通らねば九割の船は行き来できない。しかし、今そこを通ることはできない――」
ヴィクトールさんはそこで一呼吸置くと続ける。
「なぜならば今、現在、そこで海神が暴れているからだ」
「件の海の神様ですね」
「そうだ」
「神様がそんな悪いことをするのですか?」
というのはルナマリアの素朴な疑問であったが、ヴィクトールは「はっは」と笑う。
「神様がすべてウィル君の父母のように善良なわけではない。それにそいつは海の神となっているが、荒神の類いだ」
「荒神?」
「荒神というのはね。神様になり損ねた神様のこと。大抵は暴れもので人間に迷惑を掛けるんだ」
「なるほど」
「そいつは遙か大昔に神になり損ねた化け物だ。その腹いせか知らないが、百年に一度目覚め、航路を荒らす」
「暴れもののくせに妙に時間に正しいですね」
「いや、今回は九〇年周期だった。早起きだったらしい」
「老化したのかな。ヴァンダル父さんも妙に早起きだし」
「そうかもしれんな」
苦笑を漏らすヴィクトール。彼も同様の感想を持っていたようだ。
「ここは時間きっかりに目覚めてほしかった。そうすれば娘が生け贄候補になることはなかったのだが」
「カレンさんをそいつの生け贄に捧げなければならないのですか? 倒してしまえばいいのでは?」
ルナマリアの疑問にヴィクトールは黙って航路の横を指さす。
そこには巨大な蛇が描かれていた。巨大な蛇は大きな船にまとわりついていた。
「なんて大きな蛇……いや、竜か……?」
僕がそう口にすると、ルナマリアは、
「そのように大きな蛇なんですか?」
と尋ねて生きた。目が見えぬルナマリアに説明する。
「大型の商船がまるで小舟のようだよ。こんな化け物が存在するなんて信じられない」
「まあ、そんなに」
「なにせこいつは神話の生き物だからね。シーサーペント。七つの海を飲み干すと言われた化け物だ」
ヴィクトールは吐き捨てるように言い放つ。
「たしかにこいつを倒すのは容易じゃなさそうだ」
「その通り。我々の先人もやつの恐ろしさを熟知していたので、一〇〇年に一度の目覚めのとき、生け贄を捧げることで妥協を図った」
「生け贄を捧げれば航路を荒らさないのですか?」
ルナマリアが尋ねるが、ヴィクトールは首を横に振る。
「それは分からん。ただ、先人たちはそうしてきた。やつが出現したら生け贄を捧げ、しばらく航路を使わない。何年、何十年かしてやつがまた眠くなったら再び航路を使う」
「要は生け贄を捧げればシーサーペントが眠りに付くのが早まる、という伝承があるんですね」
「そういうことだ」
「そんな、なにも確証なしに生け贄を捧げていたんですか?」
ルナマリアは非難の声を上げる。
「有り体に言えば。――しかし、先人たちを責めてもなにもならない。問題なのはこの都市の商人たちはその〝伝承〟を信じているということだ」
「だからカレンが生け贄に」
「ああ、そうだ。この都市には評議会と呼ばれる組織がある。この街の運営をしているのだが、その評議会の家の中から順番に娘を選び出し、生け贄に捧げている。ちなみに私はその評議会の一員だ」
「なるほど、つまりそれでカレンが選ばれてしまったんですね」
「そういうことだ。私はノースウッド出身だが、この街で商売を広げるとき、評議会の株を買ってね。格安だったから飛びついたんだが、いわくつきだった」
「その株の持ち主の娘が生け贄に捧げられる順番だったんですね」
「ああ、買ったときはまさか娘が出来るとは思わなかった、それに復活が十年早いとは思ってなかったから、娘が出来ても〝乙女〟ではなくなっているという計算だった。言い訳がましいが」
「今さらそのことを悔いても仕方ないです。それに僕はその悪しき伝承に終止符を打ちたい」
「ウィル君……」
頼もしげに僕を見つめるヴィクトールさん。
「これは神様のお導きかもしれませんね」
ルナマリアも同様の視線を向けてくる。
「うん、僕はカレンを。ううん、この街を救ってみせる」
そう宣言すると、がちゃり、と扉が開く。するとそこから見知った顔が。
「さすがはウィル様です。英雄の中の英雄、勇者の中の勇者、わたしの旦那様!」
風のような速度で僕の胸に飛び込んでくると、抱きついてくる。
その手早さは名うての武闘家のようである、とはルナマリアの言葉だが、彼女は黙ってカレンの行為を見過ごす。
見ての通り元気なカレンだが、それでも心細いに違いないのだ。
生け贄に選ばれ、毎日、震えていたに違いないのだ。
それを証拠にカレンは痩せ細っている。
前回別れたときは少しふっくら気味であったが、今の彼女は綿毛のように軽い。きっと心配のあまり食事も喉に通らなかったに違いない。
それを即座に悟ったルナマリアは、今だけ彼女の我が儘を許したのだと思う。
――三十秒ほどだけど。
三十秒間、胸を密着させるカレン。それ以上は教育的指導が必要だと思ったのだろう。カレンを僕から引き離すと、真面目な顔で、
「それではカレンさんを生け贄にせずに済む方法を考えましょう」
と宣言した。
カレンは名残惜しげに僕を見つめるが、重大な提案だけに我が儘は言わなかった。




