茶道楽趣味
交易都市シルレはミッドニア王国の北東部にある。
メシリ湾という天然の良港に位置し、香辛料諸島や東方との貿易で潤っている。
風光明媚な港として知られ、旅人ならば一度はおもむきたいと言われる街である。
「ウィル様、とてもお詳しいのですね」
とはルナマリアの言葉だった。
「ヴァンダル父さんに習ったんだ。一度は見てみたいと思っていたんだけど、こんな形で訪れるとは夢にも思っていなかった」
「私もです。大地母神の神殿に来られた方がよく帰りにそのまま新婚旅行することが多いのです。とても情緒ある街だと聞きました」
「時間が合ったら観光したいところだけど、今はゆっくりしているときじゃないからね」
馬車に揺られる執事のハンスの顔を見ると、彼も肯定する。
「このままアナハイム商会の別邸に向かって貰います。そこにヴィクトール様がおられるので詳しい話はヴィクトール様に」
アナハイム商会の当主ヴィクトール、その名はとても懐かしい。
僕が山から下りたばかりの頃に世話になった商会の当主、有能で思慮深い性格をしている。とても親切な人物でまたの再会を誓ったのだが、こんなにも早く会うことになるとは夢にも思っていなかった。
その機会を得たのは彼の娘の危機というのは少し皮肉であったが、それでも彼と会うことは喜ばしいことであった。
僕はアナハイム商会の別邸におもむくと、そこにある執務室へ向かった。
応接室でなかったのは、ヴィクトールさんがとても忙しいからだ。
娘の危機ではあるが、彼はアナハイム商会の責任者、各地から山のように決済を求める書類が送られてくるらしい。
書類の山に埋もれながら一枚一枚、精読し、サインをするヴィクトールさん。僕たちが入ってきたというのにこちらを見る余裕すらない。
ただ僕との再会を喜んではくれているようで、
「申し訳ない。この書類に目を通し終えるまで待ってほしい」
と悠然とした口調で言った。
言われたとおりに待つと、彼は三分と二〇秒で書類を読み終え、サインをする。
「まあ、すごい」
とはルナマリアの感想。
たしかにあの分厚さの書類をこの短時間で読むのは凄まじい。
しかし僕は彼よりも速読の人物を知っている。ヴァンダル父さんだ。
ヴァンダル父さんの書庫にある本の数は、六五五三六冊。
それらすべてを読み終えるには常人の速度ではままならない。
ヴィクトールさんの三倍の速度で読み終えるのがヴァンダル父さんの日常だった。
そのことを話すとルナマリアは心底驚く。
「そのような速度では頭に入ってこないのではないですか?」
「入ってこないと思うよ。だからヴァンダル父さんは本を読んでいるんじゃないんだ。記憶しているんだ」
「記憶……?」
「一ページ一ページを脳に焼き付けているんだ。印画紙のように記憶して、必要になったらあとで思い出しているんだって」
「まあ……」
口に手を当て驚くルナマリア。
「だからときたま、道を歩いていると本の内容を思い出して急に笑い出したり、お風呂に入っているときに魔術の定理を思いついたりして、裸で急に書き物を始めたりする」
「ふふふ、ヴァンダル様らしいですね」
「うん」
話が少しそれたが、ヴィクトールさんもおそらく、同じように書類を読んでいるのだろう。重要な箇所だけ記憶し、不要な部分は記憶していないに違いない。
この書類の山をすべて記憶していたら、どのように脳が大きくても必ずパンクするからだ。
そのように考察していると、ヴィクトールは微笑みながら、見事な考察だと言った。
「長年、書類を決裁していたらそのような習慣が付いた。君のお父上のようにすべてを記憶することはできないが、要は重要な文言と数字だけ覚えていればいいのだ」
自分の仕事の仕方を惜しみなく披露すると、ちょうどいいタイミングで執務室にお茶が運ばれてくる。いつの間にか部屋を出た執事のハンスさんがメイドにお茶を持ってこさせたのだ。
さすがはプロの執事さん、感心するが、お茶よりもカレンの話をしたい。
そう提案するが、ヴィクトールは苦笑いを漏らす。
「いや、娘の危機と煽ってはいたが、今日明日どうなる問題ではないのだ。客人に茶を出す余裕はある。アナハイム家に訪れたのだから、香辛料諸島から輸入した香辛料茶を飲んでほしい」
「ヴィクトールさんがそう言うのならば」
と言うとルナマリアは嬉しそうにカップに口を付ける。
先ほどから嗅ぎなれぬ茶の匂いにそわそわしていたルナマリア。
鼻がいい上に、茶道楽趣味があるルナマリアにとって未知のお茶はとても興味深いようだ。時間に余裕があるのならば茶をいっぱいくらい飲む余裕もある。
僕はゆっくりとカップに口を付けると、香辛料茶を楽しんだ。
とても刺激的で、甘い味がした。テーブル・マウンテンでは味わえなかった味だ。同じく茶道楽のミリア母さんにも飲ませてあげたい、そう思った。