恋愛迷走回路
淡い紅。淡い空。白く霞む大気。
その下に溶け込む栗色の小さな頭、頬はばら色に輝く。制服からは手足がすらりと伸びていた。
(……桜の精だ)
瞬間、息が止まる。華奢な体の彼はひどく儚げで、触れたら消えてしまうのではないかと思えた。
高校の入学式。桜の舞い散る中、有里健二は目を奪われたままその場に立ち尽くしていた。
彼の名は白庭裕也。
同じ高校の生物教師である父と二人暮し。成績は中の上。運動は全般的に得意。
水泳の授業の時には白くみずみずしい肢体を惜し気もなく晒し、綺麗な弧を描いて飛び込んでいた。
(さながらイルカかトビウオのように美しかった……)
健二はうっとりとそのときの様子を脳内再生する。
そして甘いものが大好きで苺のショートケーキが特に好物。
(苺って……共食いじゃないか!!)
窓際で何人かの生徒たちと苺ポッキーを食べている裕也を見ながら、健二は悶絶した。
苺の着ぐるみを着た裕也が、苺と戯れているお花畑を脳内に展開させていた健二に、衝撃映像がもたらされた。
クラスメートの石垣がポッキーを裕也に食べさせ、お返しに裕也からも食べさせてもらっていたのだ。
(なっ、なんて破廉恥な……!)
ぎりりと歯ぎしりをして立ち上がる。背中に黒いものを背負った健二に石垣たちは不穏なものを感じたらしい。
「あっ、有里、もう片付けるから!」
「食べかすもちゃんと掃除するから!」
寄せていた机を元に戻したり、ほうきとちり取りを取りに行ったりする。
「有里も食べる?」
周りの様子は全く意に介さず、小首を傾げて裕也はお菓子を差し出した。
「ゆ、裕也」
周囲はざわめき、成り行きを見守った。
シルバーフレームの眼鏡の似合う怜悧な美貌の健二は、見た目を裏切らない頭脳をも兼ね備えていた。潔癖な性格ゆえに風紀委員を任されている。それだけでなく、年不相応に迫力があるため級友からは少し距離を置かれていた。
さあどうなるか、と周囲が固唾を飲むと、さっと健二の手が上がった。
「いや、いい。甘いものは苦手だ」
「あ、そうなんだ」
「もう昼休みが終わるぞ。早く片付けるように」
健二は周囲に告げると自分の席に戻った。それと同時に石垣たちは一斉に裕也の元へ駆け寄る。
「こ、怖かった〜〜」
「大丈夫か、裕也」
石垣などは真っ青になっている。
「殴られるかと思ったよ〜」
「え、なんで」
裕也は瞳を瞬かせた。
「だってすごい怒ってたよ」
「そうかな〜」
健二を見ると仏頂面で教科書を睨みつけていた。
「ほら、超にらんでる」
石垣はひええ、と竦み上がった。
(せっかく、せっかく裕也が差し出してくれたのに……!)
穴が開きそうな程の眼光で、健二は教科書を睨みつける。
(断るなんて……)
間近で見た裕也は、瞬くと音がしそうなくらい長い睫毛で大きな瞳には星が煌めき、あまりにも可憐だった。
(すごく感じ悪かったんじゃないのか、俺!)
可憐さに舞い上がり、ただでさえ硬い表情なのに、冷たい顔でぶっきらぼうな声を出した気がする。
(断るにしたってもっと言い方があるだろう〜〜)
シャープペンシルを折り曲げんばかりの力で握り締める。その拍子に、ぼきぼきぼきっと芯が折れ、健二の怒りのオーラに怯えていた周りは内心悲鳴を上げていた。
裕也の席は窓際の三番目。そして健二の席は真ん中の列の最後尾。観察するには絶好の位置だ。
いつものように、うなじが白くて堪らないだの、指が細くて白魚の手のようだの、悶えながら観察していると、裕也が右斜め前を見ているのに気付いた。視線の先には松岡智秋がいる。
幸せそうに、切なそうに、裕也の目が細められる。最近よく見る表情だ。
(見ているだけでいい)
この思いが報われないのはわかっている。思いを伝えて困らせたりしないから、見ていることを許してほしい。
一大イベントである文化祭で学校中が浮かれている。風紀委員の健二は校内の見回りを終え、教室に戻ってきた。
健二のクラスは今流行りのメイド喫茶をしている。女子生徒は頭にリボンのカチューシャ、大きな衿にリボン、白いエプロンに黒のスカート、白のハイソックスといったメイドの格好をしていた。
裏方の当番に回ると、黒幕で作った仕切りの向こうから石垣と裕也の声がする。
「やっぱり似合うじゃん」
「え〜、まじでするの?」
「人数足りないんだって。頼むよ!」
「なにしてる」
訝しく思った健二が幕をめくると、石垣とメイド姿の裕也がいた。
「あっ、こ、これは……」
無言で眉をひそめた健二に石垣が顔面蒼白になる。
栗色の頭にリボン、スカートからすらりと伸びた足。戸惑うように薄く開いた淡い桜色の唇。
(なんて清楚! なんて可憐!)
首を傾げて裕也が訴える。
「似合わないよね〜?」
「人数足りないならしかたないじゃないか」
「へ?」
「ほら、早くしろ」
間抜けな声を出して呆気に取られた石垣と裕也を残し、健二は当番へ戻った。
今まで石垣のことを、裕也に馴れ馴れしくしすぎだ、と苦々しく思っていたが、初めて好きかもしれないと思った。
(グッジョブ、石垣!)
「有里くん、大丈夫?」
裕也のメイド姿を目に焼き付け、反芻しすぎたせいか鼻血が出てしまった。
「保健室行ってきなよ」
「すまない」
クラスメートに促され、健二は保健室へ向かった。
校舎の隅の階段を降りようとすると、上から声が聞こえてきた。
(こ、この麗しい声は……!)
人気の少ないこの辺りは密談に適している。声を落としてはいるが、周囲が静かなので聞き取れた。そっと壁に身を潜め上を窺う。
「なんで僕じゃだめなの」
「白庭がどうとかじゃなくて、先生がいいんだ」
(裕也と……松岡? 先生って?)
「僕と父さん似てるでしょ? だったら僕でいいじゃん、身代わりで」
「白庭! そんなこと言うな」
「松岡のばか!」
突き飛ばされたのか、たたらを踏む音と、階段を駆け降りる足音がしたかと思うと、身を潜めていた健二に裕也がぶつかった。
「うわっ」
抱き留めると濡れた大きな瞳で見上げてきた。
(……涙)
半ば呆然としていると、裕也は腕の中から抜け、走り去ってしまった。
(裕也、泣いてた)
聞こえてきた話を総合すると、裕也は松岡に告白したが、松岡は裕也の父、白庭先生が好きなので、断ったということだろう。
文化祭の後片付けのため、机を拭いていた健二は、雑巾を引きちぎらんばかりの勢いで絞った。
松岡は周りの飾り付けを外したりしていたが、裕也は見当たらない。
先程ゴミを捨てに行ったが、まだ戻っていないようだ。
(もしかして……)
雑巾で擦る机がぎしぎしときしみ、隣の生徒が肩をびくりとさせる。
(失恋のショックで世を儚んで……)
そう考えるといてもたってもいられなくなり、雑巾を隣にいた生徒に押し付け、教室を飛び出した。
校内を全速力で走り、屋上にたどり着く。いないでくれ、と願った後ろ姿をそこに見つけ、健二は我を忘れた。
「裕也!」
柵に手を掛けていた裕也は驚いたように振り向き、その一瞬後には健二によって柵から引き離されていた。
「早まるな!」
「な、なに? 苦しいよ」
離すものかと抱きしめると裕也がもがいた。
「痛いってば」
「柵に近づかないと約束してくれ」
「? いいよ」
素直な裕也に訝しく思い、そっと腕を緩める。
「裕也」
驚いた表情の裕也に、うっかり名前で呼んだことに気付く。
(ろくに話したこともないのにファーストネームで呼んでしまったー!)
いつも脳内でそう呼んでいるため、口から出てしまったらしい。
(引かれる、絶対引かれる)
死刑宣告を受ける囚人のような面持ちで健二は絶望した。
「ん、じゃあ僕も健二って呼んでいい?」
裕也が小首を傾げて許可を求める。
健二は息が止まり体が固まった。
「だめ?」
反応のない健二に拒否の意を感じたらしい裕也が不安げになる。
「いや、いい」
強張る頬を叱咤して健二は答えた。
どこからともなく鐘の音が聞こえ、小さな天使たちが祝福してくれる。
(な、なんて心の広い……! 菩薩様、または天使……)
腕の中の天使がもう一度、「いたい」と言うので慌てて手を離した。
「もしかして飛び降りると思った?」
「あ、ああ」
「失恋したから?」
健二はうなだれた。
「……すまない、聞いてしまった」
「やっぱり。いいよ、気にしないで」
ふっと笑う。寂しげな様子に胸を衝かれた。
「おんなじ顔なのにな。魅力ないのかな、僕」
「そっ、そんなことはない!」
『もちろん容姿も朝露に濡れた白薔薇のようにみずみずしくかつ初々しく、香り豊かで美しいが、性格も、かわいらしくよく干した布団のように温かく、責任感が強くてしっかりしている』と言いたかったが、
「白薔薇の布団みたいでしっかりしている」
と、かなりはしょった言い方になってしまった。
「……白薔薇? 布団?」
案の定、眉間にしわを寄せている裕也に健二は焦った。
「い、いや、だから」
わたわたと手を上げたり広げたりしている健二をぽかんと見上げていたが、不意に俯き肩を震わせ始めた。
「ゆ、裕也」
本格的に慌てはじめた健二の耳に裕也の笑い声が聞こえた。
見ると腹を抱え涙まで流している。
「あ、も、健二、面白すぎ」
「裕也」
眉が下がり情けない顔になる。
「男前が台なしだぞ」
つん、と裕也に笑顔でおでこをつかれた。
(……笑ってくれた)
ほわん、と胸が温かくなる。
どうせ見ているなら、笑顔がいい。
今までの観察結果を生かして、もっと上手に裕也の魅力を伝えたかったが、よしとしよう。
「あ、もう行かなくちゃ。片付け終わっちゃう」
「そうだな」
君がそうやって笑顔で手を差し延べてくれるから、それだけでうれしい。