リリーが全てを知るまで
本当に好きよ、本当に、本当に愛してる。言葉で言い表せないほど、胸が一杯になって苦しくなるくらい愛してる。でも、だからこそ、終わらせなきゃいけない恋がある。これは絶対に貴方に知られてはいけないから。だから――――。
「ローレン様っ」
脇を肘で小突かれて、ローレンは一気に現実へと戻ってきた。荘厳な教会で執り行われる貴族の結婚式は、王族の了承がないと目の前の二人は夫婦になれない。
――いっそ、このまま逃げ出してしまおうか。
甘美な考えがローレンの頭に浮かんだ。
――もしこのまま何も言わずに、二人の仲を引き裂くような言葉を投げかけたら、どんな顔をするだろうか。神聖で、この真っ白な何の汚れも知らないようなこの場所で、真っ黒なこの思いをそのまま吐き出すことができたら、どんなにいいだろうか。
そう思って一歩足を引こうとした矢先だった、彼女の顔を見たのは。
全てを包み込むような優しい顔をして、新郎を見つめていた。そこには一切の憂いはなく、これから始まる新しい未来に思いを馳せている顔だった。雪のような肌にばら色の頬、その顔を見た瞬間、ローレン負けを悟った。
「ローレン様っ」
さっきよりも大きな声で呼ばれた。隣を見ると、鬼の形相をした従者がローレンを見ていた。
「はやくっ」
横にいる従者は何も知らない、ローレンがどんな気持ちでこの場に立っているかを。それでも、例え足が震えて腰が砕けそうでも、ローレンは言葉を綴った。
「新しき夫婦に、太陽神ロリレオスの祝福を」
今にも声は震えそうだった。震えそうで、震えないように気をつけたのは最後の意地だった。そしてそれだけが最後の砦だった。
ローレンが最後の言葉を述べた瞬間、大きな歓声が沸き、人々は二人に詰め寄った。
「リリー様っ、アルフレッド様、おめでとうございますっ!」
「美しいお二人が一緒になるなんて、夢のようですわ!」
彼ら彼女らの祝福の声に、二人はまんざらでもなさそうだった。
決して、祝福される結婚ではなかった。平民と貴族の、ましてや公爵家の嫡男が結婚するなど前代未聞であったし、反発の声も多かった。それでも、結婚を認められるように努力したのは二人であったし、最終的には反発する声はとても少なくなっていた。そしてそのころには、ローレンは自分が負ける未来しか見ることができなかった。
――ある意味、予想通りだな。
あまりの滑稽さに失笑した。そして静かにその場を離れた。
雲一つない空に教会の鐘は鳴り続け、人々の声を遠くまで届けた。長閑な春の香りと色とりどりの花々が二人の結婚式を彩った。
***
「ローレンっ」
後ろを振り向くと、新郎がニヤニヤとした顔でローレンを見つめていた。
「お前なぁ、ちょっとはお嬢さんたちの相手をしたらどうだ?まだ婚約者、決めてないんだろ?」
アルフレッドは茶目っ気のある瞳でローレンを見つめた。金色の好奇心の溢れた猫のような目は、昔からローレンが気に入ってる目の色だった。
「なんでお前が来るんだよ。主役なんだから、ずっと踊ってろよ」
そういってローレンは腹立たし気にアルフレッドを見つめた。長々と続く披露宴に嫌気がさし早々に離脱したローレンだったが、それをアルフレッドが追いかけてきたのだった。春の夜風は二人を擽り、火照った頬を静まらせた。
「おぉ、こわっ。そんな目で見るなよ」
氷の流し目と呼ばれるローレンの目線は、昔からの付き合いである彼をも怖がらせるらしい。
「元からこういう目つきをしている。嫌だったらこっちにくるな」
――こいつは、私がどんな思いでここに立っているかがわからないのだろうか?
そう言って、広間を不意に見た。中では、リリーが友達に囲まれて笑っていた。大輪の薔薇のような笑顔は、周囲の雰囲気を明るく彩っていた。
ローレンは彼女の姿を眺めることができず、後ろへと体を向けた。暗い夜景を見ながら思い出すのは昔のこと、ローレンとリリーが初めて出会った時だった。
初めて会ったのはまだローレンたちが王立学園に通っていたころ、7年前のことだった。中等科に進学してしばらくしてから、アルフレッドから紹介されたのだ。美しい、それは神が一心に愛を注いだかのような少女だった。王侯貴族のための学園で、庶民の特待生であるにもかかわらず、貴族の子息令嬢は彼女に敬意を払い、彼女を敬称で呼んだ。知的な瞳に、流れる黒檀のような髪、そしてそれにそぐう優秀な成績。家柄以外は完璧以外の何物でもなかった。だから、公爵家の息子であり同じく才色兼備なアルフレッドと結婚するのは自然な流れだったのだ。それをローレンが納得できなかっただけで。
初めて会った時のことを思いだす。「初めまして、王太子殿下」とそこらの令嬢と遜色ないお辞儀をしたのも、その鈴のような声も、彼女を見つめるアルフレッドの熱っぽい瞳も、刺さるような真夏の暑い日だったことも、それに対比するように冷たかった自分の体のことも、全部、全部思い出せる。
――あぁ、どこで間違えてしまったのか。
答えの出ない質問の答えをずっと探している。永遠に、永遠に、探している。答えが出るときは、きっと自分が死ぬ時なんだろう、ローレンはふとそう考えた。
泣きそうになるのをこらえて、シャンパンを飲みこんだ。泡がはじけて、口を彩る。その後には苦みが残り、感傷的な気持ちにさせた。
「なぁ、お前、まだリリーのこと……」
アルフレッドがいきなりそう切り出した。思考の波から引きずり戻されたローレンは、忌々し気に振り向いた。
「悪いが、そのことはもう終わった」
愚かな男に対してそう言いい、遠くを見た。
――本当に恋をしていたんだな。
実際には今現在もしている。が、認めてしまっては際どい線に立っている自分をローレンは許すことは出来ないだろう。そしてその後に待ち受ける結末も容易に想像することができた。
ローレンはふと、アルフレッドに問いかけた。
「君は、運命を信じるか?」
ローレンは唐突にそう切り出すと、アルフレッドを突き刺すような視線で見つめた。それは、さっきよりも強い眼光だった。
「信じない。そんなものはない。自分で勝ち取るものが、運命だ」
「それは運命とは言わないだろう。運命とは定め、生まれる前から決まっていることだよ」
「でも、生まれる前から決まっていることなんてないだろう」
――この男はなんて馬鹿なんだろうか。
苦笑いしながらローレンはアルフレッドを見た。自分の答えに自信を持った顔をしており、抗えないものは何もないと信じ切っていた。
――そう思えたら、どんなに良かったか。
見続けることができず、ローレンは目をそらした。その先にはリリーが頬を赤くしてローレンとアルフレッド見ていた。口が動く、「王太子殿下、アルフレッド、なにをしてらっしゃるの?」
「アルフレッド、奥方が君を呼んでいるぞ」
目をそらしたまま伝えると、アルフレッドはしばらく躊躇した後、踵を返した。
「私は運命を信じている。が、私はそれをどうやって断ち切ることができるかも知っている」
ローレンがそう言うとアルフレッドは足を止めたが、今度こそ広間へ戻っていった。バルコニーに一人残されたローレンは、湿った春の空気を感じながら、苦みを甘んじて受け入れた。
――願わくば、二人に幸せが訪れることを。
目を閉じて、一粒だけ涙が頬を伝うのを許した。
***
いつも思い出すのは、過去のことだった。正装をして、舞踏会の中で空虚な婚約者選びをしている時。
「ローレンっ」
そう言って自分のもとへ駆けつけてくれるのはいつもアルフレッドで、二人でよく抜け出した。
秘密の抜け道、猫がいる薔薇園を抜けて温室に入り、二人で夜明けを待つ。未来のことを話しながら、明日に希望を抱き、明るい夜空を見上げた。暗い朝日が昇るころには二人とも帰り、拳骨をもらったと後で笑い合う。
そこにリリーが加わったのはいつからだっただろうか。特待生として特別に招待されてパーティーに参加するようになった彼女は、常に紫色のドレスを靡かせて笑っていた。聡明な彼女はすぐに溶け込み、しかし目立つわけでもなく、壁でひっそりと花を咲かせていた。そんな彼女を連れだしたアルフレッドは温室に案内し、いつからか三人で夜を明かすようになっていた。
素朴な草の匂いに、温室まで届く薔薇の香り、子供達特有の高い声は、いつしか低い声と高い声が入り混じるようになり時の流れを感じさせた。
それはまだ、二人が結婚する前、まだ、幸せなときだった。
――いつまでも、こんな日々が続くと思っていた。
そう思っていただけで、実際には続かなかったのだけれど。
***
「ローレン様、陛下がお呼びです」
それは二人が式を挙げて一週間後のことだった。従者は式の時とは違った静かな声でローレンを呼んだ。
「わかった、今行く」
自室の椅子から立ち上がり、重い足を進めた。
――嫌な予感がする。
経験上その嫌な予感が当たることを知っていたローランは、憂鬱気な顔をしながら歩みを進める。
廊下を歩き進めるたびにその予感は募っていった。しかし扉の前に立つころには逃げ出すこともできず、騎士たちが扉を開ける瞬間を待つ哀れな王太子でしかなくなっていた。
重い扉が開かれる。部屋に入って最初に目に入るのは絢爛なシャンデリアと赤と金の絨毯、脇に並んだ騎士たちの銀の鈍い輝きと、正面に座る父王と正妃の顔だった。
「久方ぶりだな、ローレンよ」
3カ月ぶりに両親にあったローランは、自らの親に向かって深くお辞儀をした。
「お久しぶりです、父上、母上」
重厚な雰囲気に呑まれることなく、ローレンははっきりと答えた。それを聞いた王夫妻は、満足気に目を細めた。
「聞いたぞ、とうとう二人が結婚したらしいな」
王は自分の子供の親友であるアルフレッドと、庶民でありながら舞踏会に参加していたリリーのこと気に掛けていた。しかし、結婚式直前に急な公務が入り出席することは叶わなかったため、ローレンが代理を務めることになったのである。心の準備をする間もなく結婚式が行われ、ローレンは動揺せざるおえなかった。
「えぇ、わたくしが父上の代理を務めさせていただきました」
その時のことを思いだしながら、少しの嫌味を込めて答えを返した。王はそのことには気づくことなく、会話を続ける。
「ああ、よく勤めてくれた。それで、お前にいい話が来ている」
「話、ですか?」
「ええ、申し訳ないのだけれど、受けてくれるかしら?」
ここまで一切口を開いていなかった王妃が、いきなり話し出した。母に言われるとローレンも強く言えないと思い、王が彼女に頼み込んだのだろう。
「隣国の王が、是非娘を王太子妃に、と」
王妃は静かにローレンに話し始めた。曰く、最近まで戦争していた隣国の姫君が平和条約のために嫁いでくるらしい。
――嫌な予感は的中したか。
皮肉なものである。両親は子供にとうに春が訪れていたことは知らず、近々嫁いでくる王女との結婚を受け入れると思っている。ローレンの心中を一切理解することはなく。
「引き受けてくれるな」
父王はローレンが受け入れないなど返答するとは微塵も考えてない声で言った。その声色に、ローレンは確かに心が軋む音を聞いた。
「はい」
それはローレンが覚悟を決めた声だった。
***
滴るような銀のナイフを手に取り、口付けた。ローレンは王女が嫁いでくることになった前の日に、準備を終えた。
――愚かだ。全て、全て愚かだ。
ローレンは前を見つめた。なぜ、父も母もアルフレッドもリリーも気が付かないのだろうか、自分の恋心に。そして父と母はなぜローレンが結婚を受け入れるなどと思ったのだろうか。そして少しでもこのことに気付いてもらえると期待していた自分が、何よりも愚かだった。
――もう期待するのは、やめだ。
ローレンは深呼吸を一つすると、あらかじめ呼び出しておいたアルフレッド達のもとへと、足を急いだ。
***
足に鉛をつけたかのように重かった。床に敷かれた赤い絨毯はローレンをなだめるように優しく足を受け止めた。
――最後……か。
これが最後だと思うと、ローレンは無性に泣きたくなった。子供の頃にアルフレッドと遊んだ日当りのいい中庭、壁にかかった歴代の王達の肖像画、金や銀で彩られた壺に、侍女たちが生けた花々が廊下を明るく見せている。
――もう見ることができないのなら、せめて晴れ晴れしい気持ちで歩こう。
そう思うと嫌悪していた王宮のことも一気に好きになれたような気がした。
応接間には思いのほかすぐに着いた。ローレンは俯いていた頭を上げて、深く深呼吸するとドアを叩いた。手も足もみっともなく震えていて、一歩踏み出すだけで転んでしまいそうだった。血の味のする唇を白くなるまで噛んでいると、中から侍女がドアを開けた。
「待っていたぞ」
震える足を奮い立たせて部屋の中へ入ると、呼び出した全員が椅子に腰をかけながら、ローレンを見ていた。訝しげな目、心配げな目、色々な含みを持った視線を受け止めながら、ローレンは部屋の中まで進んだ。
「遅くなって申し訳ありません。父上、母上、アルフレッド、リリー」
幸いなことに声は震えていなかった。今までろくなことをしてくれなかった両親だが、多忙な身で時間をとってくれたことにローレンは感謝をした。
「で、なんで今日呼び出したんだ?」
アルフレッドが喋り始めると、侍女は部屋を出ていった。元から王にそう言いつけられていたらしい。
「あぁ、ちょっとな」
いつまでも喋り始めないローレンに王と王妃は苛ついていたが、リリーとアルフレッドだけは気長に待っていた。
「あぁ、まったく、かなわないな」
ローレンは自嘲した。部屋がどんよりとした空気をまとっている。さっきまで晴れ晴れしい気持ちで廊下を歩いていたのに、結局こうなってしまったことを残念に思った。
「なにがだ?」
「本当にかなわない」
ローレンは再度自嘲すると、苦しそうな声でつぶやいた。
「リリー、アルフレッド。お前たちには一生叶わないってわかってたさ」
視線が一気に訝し気なものに変わった。
「何の話、ですか?」
リリーが口を開いたが、ローレンは俯いた。拳を白くなるまで握りしめてから、腰に持ってきたものがあるかを確認した。そして不意に顔を上げると、一言強く言った。
「やっぱり、叶わない恋なんてするんじゃなかったな」
泣きそうな顔でローレンが笑うと、アルフレッドが勢いよく立ち上がった。昔からこの男は勘が良かった。
しかしローレンはアルフレッドが立つ前に、すでに腰からナイフを抜いていた。体にそれを向けると、何のためらいもなく一気に胸へ突き刺した。
両親の驚愕した視線と、アルフレッドとリリーの呆然とした視線を感じながら、ローレンは膝を折った。すでに立っていられるだけの気力はなく、ただただ死を待つのみだった。
「お前、なんでそんなことっ!」
アルフレッドが立ち直り、ローレンのもとへ駆け寄り、抱き起した。
「そ……ういうと……ころだよ」
「え?」
「おま……えのそういう……ところがす……きなん……だ」
思い出すのは子供の頃の風景。かくれんぼをすると誰よりもローレンを見つけるのが早く、泣きそうになると誰よりも早く察し、そしてこの王宮という場所で誰よりも優しかった。両親からも与えられることのなかった優しさと愛情を、無償で与えてくれるアルフレッドのことがローレンはすぐに好きになった。
「まっ……た……っく……ほんとに……かなわ……ないな。アルフレッ……ドおまえを……ほんと……うにあいし……てい……たよ」
それがローレンの最後の言葉となった。アルフレッドの頬へ向けられていた手は力なく下がり、目からは涙が一筋流れた。それはローレンが許した自分自身への最初で最後の甘さであった。
――叶わないのならば、どんなに好きでも見てくれないのならば、私は死を選ぶ。自らの身を亡ぼすよりも、彼が私を見てくれないことのほうがずっとずっと辛いから。そしてその胸についた傷跡で、どうか私を一生覚えていてほしい。あなたのことが好きだった私を見てほしい。他には何も、望まないから。
――え?どこで、運命を間違えたのかって?それはきっと――――。
***
「ねぇ、陛下。わたくしこの子以外に、もう子供を身籠ることができないみたいなの」
「なんだと!?」
「昔から話していたでしょう?私は体が弱いの、だから――」
「無理だ! 私は絶対にお前以外の女とは!」
「でも、もしこの子が女の子だったら、この子は王位を継げないわ」
「だったら、男として育てればいい。そうすれば、王位を継ぐことができる」
「だめ! それではこの子が幸せになれないわ」
「悪いが、その子よりもお前のほうが大事なんだ」
それは生まれる前から決められた運命だった。断ち切る方法はただ一つ、自らの身を亡ぼすことだった。
主人公:実は男装の王子。ずっとアルフレッドが好きだった。
アルフレッド:公爵家の息子。リリーにぞっこん。
リリー:アルフレッドと結婚。普通にいい子。
(2020/3/25 改稿)