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賭け

 静弥はドアを少し開いた。外気は、思っていたよりも冷たくはなかった。

「それじゃ」

 靴を履いてドアに手をかけながら、静弥が渚を振り返っている。その眼差しは、温かさを増している。静弥に返された視線と同様に。

「うん」

 静弥が、ドアを閉める。

 しばしの間、外光で明るさを増していた玄関が、薄暗さを取り戻す。それに引きずられるように、渚の顔が僅かに曇る。曇った表情の中に、決意が静かに浮かび上がる。

「そろそろ終わらせる時ね」

 鏡の中に映っている自分の姿は、穏やかさを取り戻している。夏の事故の前のような穏やかさを…。


 しばらく静弥は仕事が忙しく、渚に連絡を取ることができない日が、一週間ほど続いた。職場の運送会社の運転手が、二人も急に辞職したのである。新しく人を雇い入れて仕事に慣れるまでの間は、他の社員にしわ寄せが大きくなる。

 静弥が久しぶりにかけた電話に、渚は二回コールしただけで出る。

「今度の仕事が終わったら、どこかに行かないか?三日間の休みが取れたんだ」

 電話の向こうの渚の声は、弾まなかった。それでも明るい声が返ってくる。

「それじゃ。どこかに連れて行って」

 静弥には、思い当たる旅行先が重い浮かばなかった。旅行などした覚えもない。

「どこがいい?」

 すぐに返事が返ってきた。

「京都」


 旅行は、思い返してみても楽しかった。紅葉の盛りは過ぎていて風が冷たかったが、天気も良く、平日であったため人も少なく、ゆっくりと景色を楽しめた。三千院では池泉回遊式庭園の中に楓に覆われた往生極楽院が見事な佇まいを見せ、川原町で食べた料理は鮮やかな印象を残し、夜を過ごした旅館の落ち着きを心に留めた。三日間は一瞬の停滞さえ感じさせずに、過ぎていった。

 旅行が終わった次の日の早朝から、仕事が入っていた。日の出までもう十分も残されていないのに、まだ陽光の気配さえもないのは、空に厚い雲があるためだろう。

 静まり返った車庫の中にエンジン音が響き渡る。静寂がその音に追い立てられた。

 しばらくエンジンを温めた後で、車庫からゆっくりと出て行く。

 渚との京都行きを思い出しながら、トラックのハンドルを大きく左に切る。そこからは、真っ直ぐな道が続いている。道の両側に銀杏の樹が植えられていて、黄色くなった葉が少しの風でひらりと下に落ちる。

 前を走る車の姿は見えなかった。遠くの対向車線上にライトが姿を現し、近づいてくる。

(もう渚は来ているだろうか)

 もうすぐ渚の家の近くを通る。この国道の数キロ先の交差点を左に入って二百メートルほどで、渚のマンションが見えるはずである。


 昨晩、渚は静弥が早朝から仕事に出かけると聞いて、弁当を作ると言い出した。

 静弥は要らないと言った。そんなに朝早くに起きて弁当を作るのは大変だからである。しかし、渚はトラックで渚のマンションに寄ってくれるように言って、静弥の断りを聞かなかった。


 ほんのりと周りが明るくなってくる。陽光は雲に遮られて届かないが、確実に夜は明け始めている。

 道は幅も広く走り易いため、思わずスピードが出る。もちろん無茶な速度は出さないが、制限速度を少し超過している。

(あと信号二つ向こうだな)

 風が吹いたのか銀杏の葉がまとまって落ちる。その葉の中に、何かが動いた。

「おっ」

 ハンドルを握り締めて、ブレーキペダルに足を叩きつける。重いトラックの車体は軋み音を上げながら、慣性の法則に逆らいながら、速度を急激に落としていく。しかし、トラックは静弥が望む場所では止まらなかった。

 トラックを通じて、静弥の体に衝撃が伝わってきた。

 弾くような感覚ではない。ぶつかった衝撃の中にねっとりとした感じが伝わってきた。

 トラックが止まって、しばらく動けなかった。自分の中では長い時間に感じられたが、実際はほんの五秒程であった。ブレーキペダルの上に釘で打ち付けられたように動かない足と、ハンドルに縫いとめられたような手を引き剥がし、外に降り立つ。

 冷たい風が体温を奪っていくが、静弥は寒さを感じる精神的な余裕はない。

 倒れている人影に近づいていく。足が震えて動かない。いや、目の前の人影は近づいてきているのであるから、足は確実に動いている。しかし、歩いている感覚が希薄なのである。

 視線の先には、頭部から流れ出た血の池の中に左側を向いて横たわっている女性がいる。右足はありえない方向に曲がり、腕は力なく地面に落ちている。

 まだ薄暗い中で次第にはっきりと顔が見えてきた。数メートルまで近づくと、完全に静弥の記憶にある顔と一致する。

「渚…」

 足が止まる。もう二度と渚と言葉を交わすことも、一緒に食事に行くこともできない。それは見ただけで、はっきりと分かるほど損傷している。

 しかし、顔は傷一つなく、頭の下の血溜まりがなければ、寝ているのかと思える。そして表情は穏やかである。

 静弥は膝を着く。足の感覚が虚ろなため、かなりの勢いで地面に当たるが、静弥の表情は変わらない。視線は渚の顔に注がれたままである。

 時間が過ぎていく。

 誰が呼んだのか、救急車のサイレンの音が近づいてくる。その音に重なって、パトカーのサイレンの音も大きくなってくる。

 そのうちサイレンの音が止まり、救急車から白衣にヘルメットという一見奇異で、テレビなどでは見慣れた服装の救急隊員が出てくる。静弥の存在に気付かないかのように、渚の体を担架に乗せて救急車に向かう。

「あっ」

 静弥は担架に乗せられた渚を追いかける。行く手を遮るように、パトカーから降りてきた警官が静弥の前に立つ。

「あなたが、このトラックを運転していたのですか?」

 静弥の視線は警官には向けられず、無視して横を通り過ぎようとする。

「あんたが運転していたのだろう?」

 警官の声が少し大きくなり、静弥の腕を掴む。

 静弥はようやく警官に目を向ける。

 まだ二十代の半ばといった感じの若い警官である。顔には抑えられてはいるが、怒りが出ている。

「知り合いなんだ!」

 静弥は腕を振り切って、救急車に向かう。

「待て!」

 もう一度、警官は静弥の腕を掴み、体が傾くほどの力で引く。

 静弥の視線が剣呑さを増す。静弥が拳を振り上げたところで、もう一人の警官が口を開く。

「佐野君、行かせなさい」

 若い警官の上司らしい男は、先程まで目撃者であり通報者でもある近所の老人から話を聞いていた。目撃者の話によって、渚が自らトラックの前に走り出たことが分かったのである。

 

 救急車の中は、サイレンの音で満たされ、息苦しい。

 佐野と言う名前の警官も、救急車に乗りこんできた。事故の当事者である静弥を放っておくわけにはいかなかったのだろう。

 救急隊員は心臓マッサージを繰り返しているが、心臓が再び鼓動し始める気配は全くない。口には出さないが、車内には諦めの雰囲気が濃厚に漂っている。

 静弥は渚の左手の中に何かが書かれているのを見つける。揺れる救急車の中で、渚の手に近づいていく。体を少し傾けた時に、救急車がカーブを曲がり、静弥は体勢を崩し、ストレッチャーの横に膝を着く。

 それを見て救急車に同乗した警察官が、一瞬だけ鋭い視線を向けたが、静弥の渚を見る切実さの漂う視線を見て、口を開くのを止める。

 静弥は渚の手をとって、掌の方を上に向かせる。手はまだ温かい。その手の中に紙片があった。辛うじて手に中にあるという感じで、少し掌を開かせるだけで落ちた。

 のろりとした動作で、静弥が紙片を拾い、皺だらけのそれを開く。

「ごめんなさい?」

 警官が書かれてある文字を声に出す。

 メモ帳を破ったようなその紙には、それだけが書かれてある。


 病院での処置はすぐに終わった。手の施しようがなかったのである。

 朝の明るさの中、医師は疲れた顔で「即死の状態であっただろう」と、静弥に告げた。

 それから警官に連れられて警察署まで行って、事情聴取が終わり、再び病院に戻ってきた時には昼を過ぎていた。

「この方の御親族の連絡先を御存知ではないでしょうか?」

 病院の事務員から最初に出た質問である。

「いや。両親も兄弟もいないはずです」

 その腰の低い男の事務員は困ったような表情を浮かべる。

「それでは親戚の方は?」

 静弥は渚の事に関して、ほとんど知らないことに、改めて思い当たった。

「知りません」

 事務員は表情を、さらに曇らせる。

「それでは誰か…」

 静弥が事務員の言葉を遮る。

「俺が引き取ります。婚約者です」

 本当は婚約などしていないが、そう言いたかったのである。少しでも渚に近い存在でいたかった。

 その言葉で事務員は安心したようである。

 静弥は死体安置室の場所を聞いて向かう。エレベーターを使わずに歩いて階段を下りると、一段毎に体が重くなるような気がする。

 渚には、白い布が被せてある。

「本当に自分で死のうと…」

 静弥は冷たいその部屋で、立ったまま動けない。

 しばらくして背後のドアが開く。

「これを渡しておきます」

 事務員が手渡したのは渚のポケットに入っていたというものである。

 事務員が出て行ってから包まれている白い布を開くと、ハンカチと部屋の鍵が出てきた。

 ぼんやりと広げた布を見ていると、静弥は急に鍵だけを手にとって走り出す。

 事務所の横を通り過ぎる時、事務員が何か言ったが、静弥の耳には届かない。


 駅まで息が続く限り走り、電車の中では焦りを覚えながらじっと耐えた。

 渚の部屋の鍵を鍵穴に差し込もうとして、何度も失敗し、震える手を押さえつけながらようやく開ける。

 部屋の中央にある小さなテーブルの上には弁当、そして弁当の上には手紙が置いてあった。

 封筒には封がされていて、それを引き裂くように開ける。

 便箋に書かれた文字を、睨みつけるように追っていく。


 私はあの夏からずっと死にたいと思ってきました。

 でも何かを残したい。

 自分が生きていた証として何かを残したい。

 そう考えていたときに、あなたと出会いました。

 そして、あなたと生きてみようと思ったこともありました。

 でもそう考える自分が許せなかった。

 私は、あの人を死なせたのですから。

 そして、思いついたことがあったのです。

 それは、あなたに私の死に関わってもらうことです。

 そうすれば、あなたの記憶の中に私が残ることができる。

 身勝手な考えだとは分かっています。

 でも、この考えを否定することができないのです。

 それどころか、だんだんと大きくなってしまいました。

 もう押さえ込むことができません。

 ごめんなさい。もうこれしか言うことがありません。

 ごめんなさい。


 静弥は窓の外に視線を向ける。

 雪が降っている。こんなに早い時期に降ったのは何年ぶりだろう。おそらくは、十年以上も前だろうか。

 そこまで考えて、静弥の脳裏にある情景がふいに浮かんでくる。

 病院のベッドに、一人の女性が横たわっている。女性の体からは無数のチューブや配線が伸びて、傍らにある幾つもの機械に繋がっている。荒れた肌、目の下の隈、そして病的に膨らんだ輪郭の中に見える美しかった頃の面影が、見る者に目を背けさせる。

 一夜だけ咲いて萎む花、月下美人の印象を背負っている女性。

 それは渚と出会うもっと前の記憶、そして渚の記憶もその記憶と同じように…。

 そして、もう一つ思い出したことがある。

 以前に自分の部屋の押入れの奥に、新聞紙に包まれた存在を見つけた。

 それが何のためにあるのか以前は分からなかったが、それをはっきりと思い出したのである。


 静弥は部屋に戻ってきている。押入れの奥から新聞紙に包まれたものを取り出す。

 部屋から出る時に現金や通帳を全て小さな鞄に詰め、最後に新聞の包みを入れる。

 殺風景な部屋には、視線を戻さずにドアを閉める。


 鼻腔には潮風が充満し、耳には波の音が広がる。視線の先には海が広がっているが、暗くてぼんやりとしか見えず、沖を通る船の明かりがアクセントを作っている。

 鞄から新聞の包みを取り出す。指先が凍えて、思うように動かない。

 がさごそと音を立てて、新聞紙を剥ぎ取る。

 中から出てきた黒い鉄の塊。

 どうやって手に入れたのかは今でも思い出せないが、引き金を引くだけで人を殺せる人類が開発した凶悪な道具である。

 静弥はリボルバーの弾装を勢いよく回す。機械的な音が耳をつく。

 銃口を右側頭部に当てて引き金に指をかける。

「ふっ」

 小さく息を吐く。

 また、ロシアンルーレットで生まれ変わる。それとも死か…。

 

 カチッ


 発射音を轟かすことのなかった拳銃を、だらりと体の横に下げる。

 ほんの少し前まで静弥だった男は、歩き始める。明日からは、また別の人生が始まる。

 脳裏に浮かんだのは、月下美人の花であった。

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