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婚約者

「入って…」

 渚は玄関の奥に一歩入って、静弥を見る。

 静弥は反発感を覚えたが、何も言わずに靴を脱ぐ。

 ワンルームマンションであるので、玄関を入ってすぐにキッチンがあり、その奥にフローリングの部屋がある。

 部屋には、ほとんど物がなかった。部屋の中央に木製の小さなテーブルと部屋の隅のチェスト、畳まれた布団、クッションが二つ。それだけが、部屋にある主な物である。後は化粧品や雑誌などが、テーブルの上に置かれている。テレビやオーディオなどはない。

 殺風景な部屋の中で、壁に掛けられたウェディングドレスだけが華やかさを演出している。大抵のウェディングドレスがそうであるようにレース生地を使ってあるが、あまりごてごてとしたものではなく、すっきりとしたシルエットのドレスである。

 静弥はしばらく立っていたが、渚が部屋の奥の方で座ると部屋の入口の辺りに腰を下ろす。

 渚は膝を抱えて座っている。

 空気が次第に重さを増していく。口を開くことさえできなくなるほど重くなる前に、渚が口を開く。

「松山さんは…以前の私の婚約者だった…もう死んでしまったけど」

 死という言葉で、静弥の中の怒りの感情が少し和らぐ。それでも、完全には冷静さを取り戻せない。表情にも、明らかに不機嫌さが出ている。

 静弥は渚の顔を見る。

 渚の無表情な顔の中で、目だけが感情を表している。充血した目から、涙が今にも落ちそうになっている。

「私が殺した…」

 涙が抱えた膝の上に落ちる。視線は床の一点に固定され、動かない。

「殺した?いつ?」

 静弥の心臓が、跳ねるように動いた。

「三ヶ月前」

 静弥が渚と出会う少し前である。ということは、渚の殺したという言葉が、正確な意味で言っているのではないということであろう。本当に殺人を犯しているならば、警察に捕まっているか追われていなければならない。渚に、そんな素振りはない。

 静弥は、渚が話し出すのを待った。

 窓から、子供が母親を呼ぶ声が聞こえてくる。車が通り過ぎる音が、聞こえてくる。部屋の中は時間がじわりじわりとしか進まないのに、外では足音を立てて時間が通り過ぎる。

「私が呼び止めたから…だから…」

 渚が静弥にパズルのピースを与えるように話した内容は、次のようなものである。

 渚と松山という男は一年ほど付き合い、結婚することになっていた。婚約したのは今年の夏であった。新しい生活への期待と不安の中で、結婚への準備を進めていたときに、それは起こった。

 暑さが続く日々に人々がうんざりしていた頃、渚と松山は休日に新居を探しに出かけた。日差しが肌を焼き、その月の最高気温を更新した暑さの中で、二人は不動産業者と五軒の賃貸マンションを見に行った。結局、その日は気に入ったところが見つからなかった。

 夕方に食事をした時には、二人とも疲れが体を覆っていた。

 時刻は、午後七時を過ぎていた。日が完全に落ちる前の微妙な時間である。空はまだ明るく、地上も薄ぼんやりと明るさが残っていた。

 交差点で、二人は止まる。左に曲がれば渚の住んでいるマンション、目の前の道を渡り、しばらく歩けば松山が帰宅するために乗る駅があった。二人は微笑を交わして別れた。

 渚は数歩あるいて振り向き、横断歩道を渡る松山の名を呼んだ。車の音にかき消されて聞こえないと思ったが、松山は振り向いた。渚は嬉しさが込み上げると同時に、少しだけ意地悪をしたくなった。わざと先程より少し小さな声で、何かを言った。軽い気持ちで。

 松山は首を少し傾げて聞き返す。

 渚は、もう一度同じぐらいの大きさの声で言った。

 松山は、再び聞き返す。松山は渚の言葉を聞き取ろうと、全ての意識を渚に向けていた。

 その時、信号が青から黄色に変わった。

 一台の車が、交差点に突っ込んできた。街中には不釣合いな、荒地を走るために作られたその大きな車は、急激にハンドルを左に切った。車のタイヤが軋む音が響いた。

 車の先には、松山が立っていた。

 渚に向けられていた微笑は、突然に視界から消えた。

 その時の何か硬い物で濡れた布の塊を思い切り叩いたような音は、渚の脳裏に深く刻み込まれた。

 目を動かすことさえも忘れてしまうようなショックで、思考が停止した。自分の意識を取り戻し、何が起こったか考えるまで僅かな時間だったのだろうが、渚には長く感じられた。

 止まった車の丈夫そうなフロントは、大きく歪んでいた。その先に、赤い染みが道路に広がっていた。

 染みの上には、数十秒前まで渚に微笑を向けていた顔があった。目を見開いたまま、驚きの表情で固まっている。

 松山であったものに視線を向けた渚の顔からは、表情が消えている。どんな表情を浮かべても何か強く、恐ろしいものが溢れ出しそうな気がして、どんな表情も浮かべることができなくなったのである。

 救急車が来て、松山を運び、病院の手術室の前で待っていたときも、自分の中の感情が動くのを必死で押さえていた。葬式の時も、感情を殺した。無表情に黙っている渚に、人々は冷淡な視線を向けた。渚に温かい言葉をかけてくれるはずの肉親は、すでにこの世にはいなかった。

 渚の心は壊れた。よく笑い、よく泣く喜怒哀楽の豊富な女性だと思われていた渚が、感情を表さなくなった。それが事故の時だったのか、それからしばらくしてからのことだったのか分からない。

 仕事も辞め、友達と会うこともなくなった。一日のほとんどを自分の部屋で過ごし、週に一度か二度だけ必要最小限の買い物をするだけで、すぐに戻ってきた。

 季節は過ぎ、暑さが和らぎ、朝晩に微かに肌寒さを感じるようになってきた頃に、街を歩いたり買い物に時間を費やしたりすることができるようになっていた。それでも人に会うことは、やはり苦痛で、仲の良かった友達にさえも連絡をしなかった。

 結婚式は十月の半ばの予定であった。その日が近づくと落ち着かなくなってきた。そしてとうとう、結婚式をするはずであった日になると朝から部屋を出てあてもなく歩き始めた。特別になるはずであった日の時間が過ぎていくのを感じることに、耐えれなくなったのである。

 渚は歩いている途中で、後ろの扉が開いたままにしてあるトラックを見つけ荷台に乗り込んだ。どこか遠くに行きたかっただけであった。そして、暗く殺伐とした荷台の中が、妙に居心地が良さそうに見えた。

 しばらくして扉が閉められ、エンジン音が響いてきて、トラックは走り出した。

 暗闇の中でロードノイズとエンジン音が頭を満たし、時間の感覚もなくなり始めた頃、トラックは止まり渚は外に出た。

 そして、静弥と出会った。


 話し終わった渚の顔には、少し生気が戻っているような気がする。静弥は、眉間に皺を寄せたままである。

「今日は帰るよ」

 静弥は立ち上がる。渚は視線を静弥の顔に向けて黙っている。立ち上がろうとはしない。

 外に出ると、雨が降り出していた。雨粒は大きくないが、冷たい雨である。体が湿り気に包まれると、冷気が服の下まで滑り込んでくる。

 駅の近くまで来ると、一軒の居酒屋が見えた。大きくはない通りに面している店は、間口も狭く、どこか寂れている印象が強い。

 体の寒気を追い払うように、暖簾をくぐる。

 中には、三人ほどの男が座っている。仕事帰りであろうか、くたびれたスーツを着ている中年の男たちである。

 カウンターの中には、五十代と思われる女性が何か作っている。

「いらっしゃい。何にします?」

 カウンターの端に座った静弥にお絞りを渡しながら、早々と聞いてくる。

「熱燗と適当に何か作って」

 酒に強くはないので普段は熱燗は飲まないが、今は冷えた体を温めたい。そして、硬直して動かない思考をほぐしたかった。

 店内は三人の先客の話し声で煩かったが、静弥は気にならなかった。銚子が目の前に置かれると、すぐに猪口に注ぐ。入れすぎて少し零れたが、構わずに飲む。猪口から滴った酒が、ズボンに落ちた。

 静弥は、渚に裏切られたような気がしていた。それは、松山のことを今まで話してくれなかったから、ということではない。松山という婚約者がいたことは、静弥と出会う前のことであるし、松山はすでにこの世にはいない。

 それに、渚とは深い仲ではない。人に恋人かと聞かれれば、返答に困っただろう。しかし、他人とも言い難い。静弥の心に引っかかっているのは、そんなことではなくて同類だと思っていた渚が、そうではなかったということであった。渚には結婚までしようとした人がいた、そして友達などの心配してくれる人がいる。

 それに比べて、自分にはそんな人はいない。家族の記憶さえもなく、気にかけてくれる友人もいない。表面上は同類に見えても、どこか底の部分で明らかな違いがある。

 静弥は二本目の酒を注文する。一合の酒で、十分に体は温まっている。耳まで赤くなっているのが、鏡を見なくても分かる。目の前に並んでいる料理には少し口をつけただけで、酒を口に放り込む。

 渚の悲しそうな顔が浮かぶ。その視線は静弥に向けられているものではなく、静弥の知らない人々に向けられている。

 静弥は、久しぶりに自分の過去について考え始める。痛みが頭の奥から沸きあがってくるが、その度に酒を胃に流し込む。そうすると、僅かだが痛みが薄れるような気がする。

 静弥の記憶は、断片的である。厳しい老人の顔、優しげな中年の女性の顔と温かい手の感触、新聞に視線を落としている男の顔、汗ばんだ皮膚の感触と目を閉じた女の顔、様々な人が静弥の記憶の中に入っている。しかし、記憶はぼやけ、その人たちと自分との関わりが思い出せない。そうして思い出そうとすると、前よりも寂しさが膨らむ。

 店内は、いつの間にか静かになっている。

 静弥の浅黒い顔には、赤みが次第に増してきて威圧感を増す。狭い店内の雰囲気を重くするには十分な存在感を、静弥のがっしりした体は持っている。

 二本目の銚子を空にしたところで、静弥は立ち上がる。まだ店に入って三十分も経っていないが、すでに落ち着かなくなっている。

「いくら?」

 店の女主人が言った金額を、財布から掴み出すようにして払う。

 店を出ると雨は止んでいた。店に入る前は、まだぼんやりとした明るさが残っていたが、今は完全に暗くなって、ネオンや照明が存在感を急に増している。

 切符を買って、駅の自動改札を通る前に足を止める。急に立ち止まった静弥を回りこむようにして、数人の乗客が改札を通り抜けていく。

 静弥は、ゆっくりと体を反転させて歩き出す。歩く足は、次第に早くなっていく。心臓の鼓動も、早くなっていく。

 渚の住むマンションの前まで到着した時には、少し息が切れていた。息を整える間を置かずに、階段を駆け上がる。

「渚!」

 呼び声は、自分で思っていたよりも大きな声であった。ベルを鳴らす。

 迷いが出てくる。渚を、自分とは同類でないかも知れない者を、受け入れることに対する迷いである。今から行動に移そうとしていることができたなら、渚は静弥の精神のさらに大きな部分を占めることになる。

 ドアの開く音がする。その前に鍵を開ける音がしなかったということは、渚が静弥の戻ってくるのを待っていたということだろうか。

 静弥は無言で、渚の部屋に入る。

 部屋は寒い。エアコンにもヒーターにもスイッチが入っていなかった。

 静弥は自分でも不思議に思うほど滑らかな動きで渚を引き寄せる。

 渚は黙って静弥に引き寄せられた。

 静弥は渚を、渚は静弥を受け入れた。

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