再会
秋の深さを感じさせる季節になっていた。昨日も、九州までトラックを運転して戻ってきたところである。昼近くになって、ようやく起き出した体の中には、疲れが結晶化したものが残っている。これは、しばらく取れそうもない。
窓から差し込む日差しは、室温をちょうど良い暖かさにしている。
相変わらず冷蔵庫の中には、飲み物以外は何もない。喉を潤してから出かける準備をする。髭を剃ろうと鏡の中を覗き込んだが、顔を洗い口を濯いだだけでタオルを顔に当てる。
外に出ると日差しが当たっている場所は暖かいが、陰になっている部分には寒さが染み込んでくる。道を歩いていくと何やら目的の場所にトラックが二台並び、バリケードが設置されている。
「改装工事か…」
金網に取り付けてある飾り気のない看板には、コンビ二の改装工事の期間が記されている。約一ヶ月半で終了するらしい。一昨日まで営業していた店内からは、すでに商品は運び出され、棚やショーケースは撤去されている。
しばらく工事の様子を眺めて、足を踏み出す。駅前のロータリーを横目に見ながら足を進める。
店のドアが軽い軋み音を上げて開いた。店内には空いている席がない。壁に掛かっている金属的なデザインの時計は、十二時を十分だけ過ぎていることを示している。ちょうど昼休みで混んでいるのである。静弥が店を出ようと再びドアに手をかけると、店員の一人が声をかける。
「どうぞ」
店員の指したテーブルには、すでに一人の中年のスーツを来た男が座っている。店員はその男に相席を頼んで、男は少し迷惑そうに頷いた。
静弥は店を出るきっかけを失ってしまった。
窓際に短い足を組んで座った男は、ちょうど食べ終わったところらしく、新聞を広げた。セットになっている食後のドリンクは、まだ来ていないようである。
静弥は口の中で「どうも」と言って座る。ランチを注文して、窓の外を見る。店の前は大きな道に面しており、向かいのビルの壁に視界をほとんど占領されるが、駅から下りてくる人の流れが見える。母子連れ、サラリーマンらしき人、大学生らしき男女、制服を着た高校生。
「お待たせしました」
意外と早く、静弥の注文したランチがテーブルに置かれた。向かいに座っている男の食器も片付けられ、代わりにコーヒーが置かれる。男は団子虫のような指先で、砂糖とミルクを全て注ぎ込み、音を立てながらスプーンを回す。
その男の口からコーヒーを啜り上げる音が聞こえてくると、静弥は微かに顔をしかめる。口に運びかけていた箸も一旦止まる。目の前の男がコーヒーカップを置くと、静弥は再び食べ始める。
しばらくして、また派手な音を立ててコーヒーがすすられる。
静弥と男の視線が一瞬合うが、男はそのままコーヒーをすすり上げて席を立つ。
静弥は胃の中にどろりとしたものを入れられたような感覚を引きずりながら食事を続けた。味はあまり分からなかった。しかし、食後に出されたコーヒーは香りが良い。気分が、少しだが向上する。
静弥は再び、視線を窓の外に向ける。
カチャリとカップソーサーに置いた手に、黒褐色の液体がかかる。それには意識を向けず、静弥が突然立ち上がる。
出口に向かう途中で店員とぶつかりそうになる。そこで気が付いて、ポケットから財布を取り出すと、千円札を掴みだして店員の持っている盆の上に投げ出す。幸い上に乗っていたコーヒーカップの中には入らなかった。無言の静弥に不気味さを感じたのか、店員は壁に張り付くようにして通路を空ける。
店を早足で出る。走り出したい気がするが、なぜ走らなければならないか自分で理由を見つけることができない。だから、できるだけ早く歩いた。視線を周囲に向ける。同じところを何度も、視線が走り抜ける。
歩いて行ったと思われる方向へ歩き出す。二つビルの前を過ぎて、立ち止まる。
(探してどうする?声をかけて…)
迷惑そうな女の顔が自分に向けられているのを想像して、引き返す。
その後に、様々な人の顔が浮かんできた。職場の上司、同僚、コンビニの店員など、全ての人の顔が冷やかな目を静弥に向けている。静弥を拒絶してきた視線である。そして、全てを拒絶してきたのは静弥である。
時折訪れるこの粘りつくような感覚が、静弥の精神を閉ざす。周囲に極力注意を向けなくなり、視線も足元のみに落とされる。こういう状態になれば、少なくても今日一日は誰とも顔を合わせるのが苦痛になり、自分の部屋から出たくなくなる。今日は幸いにして仕事もなく、明日までは、ゆっくりと一人でいることができる。
視界の中に人の足が現れた。それを避けようと右に体を傾ける。横を通り過ぎようとした時に、女性の声が聞こえてくる。
「あの…」
静弥は顔を下げたまま通り過ぎようとするが、目だけを上げた。
(渚…)
静弥の表情が睨んでいるように見えたためだろう、渚は体を後ろに引くようにして静弥を見ていて、目には怯え似た色が浮かんでいる。
喜びが一瞬だけ静弥の心を支配したが、それが表情に出る前に別の感情が支配的になる。渚の表情が静弥を不安にさせて、その不安を押さえつけるために、静弥は感情そのものを押さえ込む。
「ああ。久しぶりだな」
真夜中に渚と出会ってから、もうすぐ一月が過ぎようとしていた。
「あの時はありがとう。それだけ、もう一度言おうと思って…そこで、あなたを見つけたから…」
渚は視線を静弥から外して、足を踏み出す。静弥の左肩の少し先を渚が通り過ぎる。首を僅かに曲げて、渚に目を向ける。焦りがじわりと滲み出てくる。一度出てくると、加速的に広がる。しかし、喉から先に言葉が出てこない。渚の後姿を目が痛くなるほど凝視しているだけである。
渚が離れて行くと、どうにか声が出た。
「ちょっと待ってくれ」
小さすぎて届かないほどの声しか出ない。もちろん渚の足は止まらない。
「ちょっと待ってくれ」
声を大きくすることに、どうにか成功する。渚の足が止まった。ゆっくりと振り返る渚を見て、静弥の顔にぎこちない微笑が浮かぶ。久しぶりの微笑であった。微笑を浮かべることを忘れるぐらい久しぶりである。
渚が振り向く。前に分かれた時と同じく、微笑に暗さがつきまとっているが、その暗さが僅かだが薄まっているように感じられる。
「教えてほしかったことがあったんだ…」
渚の電話番号が静弥の記憶に入るまで、僅かの時間しか必要ではなかった。
来週には、十一月になろうとしている。渚とは週に一度の割合で食事に行った。二人ともこれといった趣味もなく、人ごみが嫌いだったので、休日にどこかに遊びに行くということもしなかった。居酒屋でゆっくりと酒を飲みながら、ぽつりぽつりと話をする。端から見ていると楽しそうには見えないのかも知れないが、静弥にとっては貴重な時間になっていた。
「どうしてあの日、俺のトラックの荷台に乗ってたんだ?」
静弥の口調が、少し優しいものになっている。それでも静弥を知らない者にすれば、冷たい言い方に聞こえるだろう。
「…歩いていたら白岳さんの乗っていたトラックがあって、なんとなく荷台を覗き込んだら、居心地が良さそうに見えたから…」
言葉が途切れる。店の音楽と喧騒が静弥の耳をかき乱して、渚の言葉が聞き取れなくなる。
「何かあったのか?」
渚はビールの入った細身のグラスを口に当てる。静弥も、同じようにビールを飲む。
(聞かない方が良かったか?)
「あの時の自分から逃げ出したかったのだと思うわ。それから、死んだ人に気持ちが引き込まれていて、自分ではどうしようもなかった」
(誰だ?その死んだ奴は?)
静弥は心の中に、どろりとしたものが溜まるのを感じた。それが嫉妬に近い感情であることを、静弥は認めることができない。そのために、余計に自分の中の感情が暴れる。
渚は言葉を続けている。
「それまでは、人が死ぬということが平気だと思っていたわ。たった一人の肉親だった父が死んだ時も、ほとんど抵抗なく事実として受け入れることができたから…。でも違った」
そこまで言って、渚は言葉を切る。
静弥は店内に向けていた視線を渚に一瞬だけ戻して、再び店内に向ける。しかし、静弥の目には何も映っておらず、意識は渚の上にある。渚の言葉の向こう側にある何かを、自分なりに消化しようとしている。
渚の沈黙は続き、静弥も口は開かない。
アパートに帰り着いたときに、やっと渚の言葉を記憶の中にしまい込むことができた。
その晩に、静弥は夢を見た。静弥が夢を覚えているのは、稀なことである。夢を見ることさえ稀である。おそらく、夢を見ることに嫌悪感を抱いている。楽しい夢を見たことなど、一度もない。少なくても、そんな覚えはない。
目の前に洗濯機ほどの大きさのガラスの塊が落ちてきて、粉々に砕けた。その中から両足を抱えるようにして丸まっている裸の女性が出てきて、足元に転がった。それが落ちてきた上の方に目を向けると、棚に整然と透明なガラスの中に固定された人々が並べられていた。ある人は肩に、ある人は背中に、ある人は首に大きな傷があり。若者、子供、老人様々な年齢の、様々な容姿の人が、裸でガラスの中に固定されていた。皆、肌が艶かしいほど白く、ピンク色の傷口からは一滴の血も流れてはいない。その棚はどこまでも上に続き、どこまでも横に広がっていた。
静弥は体中の毛穴が開くような嫌悪感を感じて視線を足元に戻した。
女性には、脇腹に傷があった。
静弥がその人の顔を見ようとした時に、夢から覚めた。
微妙な距離を保ちながらの付き合いは続いた。年末と呼ばれる時期がやってくる前、公園を散歩している時に一度、キスをした。ぎこちなく、冷たいキスだった。
それから何度か会っているが、距離は縮まらない。距離を縮めるようとする度に、何かが静弥の気持ちを固くさせた。
静弥にとって、渚が必要な存在であることは疑いようがない。静弥には、渚だけが必要な存在になっていた。それまでは静弥には何もなかったが、それでも平気だった。しかし、もう渚を失うことはできなかった。そんな想いが静弥の気持ちを逆に固くさせていた。
年末になると、急激に寒さが襲ってきた。昨日の晩に東京までの運送から帰ってきて、今日は休みである。
インスタントコーヒーを淹れて、昨晩に買っていたパンの袋を開ける。
(温めれば、よかったな)
冷えたパンが体の温度を奪っていく感じに不快感を覚える。その感じと一緒に、パンを熱いコーヒーで流し込むと少し落ち着く。何気なく点けたテレビでは、芸能人の不倫疑惑という、静弥にとっては何の興味もない話題を、ゲストが重大そうに話している。チャンネルを回していくが、昼下がりのこの時間には、静弥が食指を動かされるような番組はない。
カレンダーに目を落とす。
(今日は土曜か…)
仕事の関係上、静弥には曜日感覚が希薄である。テレビに視線を移すが、番組の内容には注意を払っていない。画面の移り変わりを見ているだけである。
静弥は突然立ち上がって、身支度を整え始める。
(渚も、今日は休みのはずだな)
アパートの階段を降りて止まる。空には雲が浮かんでいる。濃い雨雲で、西の空に見える。風には、微かな湿り気が潜んでいる。体の向きを変えて階段を上ろうとするが止まる。
(降ってくれば、渚に傘を借りればいいか)
駅の券売機で二駅分の切符を買ってホームに立つ。反対側に向かうホームには人が多いが、静弥の立っているホームには人が少ない。立っていると、次第に寒さが服の下まで入り込んでくる。足の先が冷たくなってきた頃、電車がホームに滑り込んできた。目的の駅までは五分、その間は寒さからは無縁である。
静弥はビルを一軒一軒見ながら歩いている。
カタカナと漢字が入り混じった、どこにでもあるような名前のマンションの前に立って見上げる。五階建てのそのマンションは、両隣の高さも横幅も大きなビルに押しつぶされそうな感じを受ける。郵便受には渚の名字がマジックで飾り気なく書かれている。そのステンレスで作られた箱の口からは、広告の紙らしきものがのぞいている。
エレベーターがあったが、階段を使った。静弥はエレベーターの中にいるとき、息苦しさを感じる。
(この部屋か…)
ドアは灰色で、横に住人の名前が小さく書かれている。
呼び鈴を押す。
返事はない。もう一度呼び鈴を押そうかと迷っていると、ドアの向こうで人の動く気配がして、ロックが外される音がする。開いてくるドアに当たらないように、一歩引く。
開いたドアの向こうから送られた渚の視線は、顔を見られるのを避けるように、下に向けられている。
「なにか?」
静弥は、発する言葉を用意していなかった。どうして急にここに来たのか、自分でもよく分からなかった。何かに引っ張られるように来たのである。
何か口に出す言葉を探しているうちに、渚の部屋の中のものが静弥の意識を捕らえた。
渚は黙って立っている男の顔を見上げる。目は赤く充血している。目に溜まった涙が見えたようだったが、気のせいかもしれない。静弥には、その時の渚の顔は視界の端にしかなかった。
静弥の表情が驚きに変わっていく。渚の頭越しに投げた視線を外せない。
「あれは…」
渚が、静弥の視線を追いかける。
真っ白なドレスが壁にぶら下げられている。結婚式に着るためのドレスである。
「あれは何だ?」
静弥は、自分の口調が思わずきつくなるのを止められない。もちろん目の前のウェディングドレスは、静弥との結婚のためのものではない。
「返しに行こうと思ってたの」
渚は何の感情も込めずに、言葉を発している。
「誰に?」
「作ってくれた人…松山さんのお母さん」
「松山?」
静弥には、聞き覚えのない名前である。
隣の部屋のドアが開いた。開かれたドアの陰から小太りの女性が出てくる。若くはなく、中年というほどではない。ドアの鍵を閉め終わると、静弥に怪訝そうな視線を向ける。後ろを通り過ぎていく時に、バッグの端が静弥の背中に微かに当たる。女性はもう一度視線を静弥に向けてから、廊下の角を曲がって行った。