離別
順調に車が走り出してから、静弥は口を開く。
「事故が、何か気になるのか?」
車内にはトラックのエンジン音が充満している。あまり人の声を聞き取り易くはない。
静弥がもう一度言おうか迷っていると、渚がぼそりと言葉を漏らす。
「別に…」
声が急激に小さくなって、聞こえない。
静弥がハンドルを右に切る。
「危ないな」
道路上に落下物があったのである。四寸の角材を三十センチほどに切ったもので、まだ落ちてから間がないのか、それとも他の車に当たったのか道路上を転がっている。運良く追い越し車線には車がいなかったので、そちらへ避けることができた。
「少し前に死んだの…私の親しい人が…」
道路上の落下物に注がれていた静弥の意識が、渚の方へ向けられる。
静弥は言葉を探す。
「そうか…」
結局、それだけが口からこぼれる。
(俺は今までこんな時は、どんな言葉を人にかけていたんだろう?…やはり人と付き合うのは苦手だな)
午後九時を過ぎている。第二神明道路を走っていると、ライトアップされた明石大橋が見えてくる。巨大な橋が光の装飾を纏っている姿は、何度も見ているのに目を向けてしまう。
もうすぐ神戸市に入る。渋滞がなければ、三十分ほどで静弥の目的地に到着する。
「家は、どの辺りだ?」
渚は、いつの間にかうつらうつらとしていた。昨晩は十分に寝ていない上に、高速道路を走る車の揺れは心地良い。
「えっ?」
渚は静弥の声で意識は戻ってくるが、何を言われたのかは分からない。
「どこに降ろしたら良い?もうすぐ神戸だ」
渚は外の風景を見るが、どこか分からないようだ。
「あなたは、どこまで行くの?」
「須磨のインターを降りて東にしばらく行った所に荷物を届けてから、会社まで戻ってトラックを置く」
後ろから、かなりのスピードで車が迫ってくる。二台が連なるように抜き去っていく。
「どこでもいいから、駅の近くで降ろして」
渋滞もなく、須磨のインターを降りて国道に出る。まだ車が途切れる時間ではないが、渋滞するほどではない。
静弥は不意に息苦しさを感じて窓を開ける。潮の香りが届いてくる。大きく息を吸って吐き出す。
駅が見えてきた。小さい駅であるが、ホームには人の姿が十人は下らない。ハザードを出して道の端に止める。道幅が広いところを選んで止めたつもりであるが、やはり後ろから来る車の邪魔になっている。
「ありがとう」
渚の顔に微笑が浮かんでいる。明るい微笑ではない。どこか暗さの感じられる微笑である。ドアに手をかけたときに、静弥が声をかけようとする。渚は、その気配を感じて振り返る。
「どの辺りに住んでいるんだ?」
渚は道に降り立ち、静弥を見る。
「六甲道駅の近く」
静弥は、ハンドルを握る。
「そうか…」
渚は、ドアに手をかける。
「ありがとうね」
ドアの閉まる音が車内に響く。トラックが少し進むと、バックミラーに渚の姿が映る。渚はトラックと反対の方向へ歩いている。その後姿から引き剥がすように視線を前に向けると、静弥は自分のそんな感傷を不思議に思う。
(なぜ気になる?)
この時は、確かに恋愛感情はなかった。あったとすれば、渚の精神の中に見つけた静弥と同じものに対する共感だけだ。それは孤独というものである。
自宅に帰り着いたのは、夜中の十二時を過ぎてからである。五階建てのワンルームマンションの二階の端に、静弥は部屋を借りている。築二十五年以上が経過しているため少し古いが、その分安いので満足している。
帰り道にコンビニに寄って、弁当を一つと缶ビールを一本買ってきている。上着を脱いでシャツ一枚になり、窓を開け放つ。
「少し冷たいな」
昼間の熱気の名残がある部屋に入ってくる風は、思っていた以上に冷気を含んでいる。
しばらく部屋に風を入れながら、窓の外に視線を向ける。道を挟んで向こう側には、小さな公園が見える。公園の中ほどの車道側に一つだけ外灯がある。猫が一匹、ゆっくりとした足取りで歩いてる。公園の砂場を避けて低木の茂みに入って行くと、姿が見えなくなる。窓を閉めてテレビを点け、コンビニ弁当を前にして缶ビールのトップを開ける。
テレビでは昔に漫才で一世を風靡したコンビが、女優をゲストにして何か話している。休みの日は何をしているとか、買物へはどこに行くのかといった、どうでもいいことを質問しては話を膨らませる。
(俺とは正反対の人間だな)
静弥には、人と話をして話が弾んだと言う記憶がない。何度か楽しい会話にしようと試みたことがあるが、努力は報われなかった。自分に何かが欠けているのを自覚することは多いが、それが何かは分からない。過去の記憶がないため、自分から出てくる言葉に対して自信を持てないためだろうかと考えるが、確信はない。
腹にものが溜まると急激に眠気が襲ってくる。シャワーを浴びるのは億劫だが、昨日は風呂に入っていないことを考えると、入らずに寝るのも嫌な気がする。簡単にシャワーを浴びる。
長くなったため乾きにくい髪を、生乾きのままでトレーナーに着替える。飲みかけのビールを一気に飲み干して布団に入る。今日は、すぐに寝ることができそうである。
眠りに落ちるまで、二度しか息を吐かなかった。
子供の泣き声で目が覚めた。泣き声は、窓の外の公園から聞こえてくるようである。目覚まし時計に目を向けると、十時を数分過ぎている。窓からは、カーテンを通して明るい日差しが差し込んでいる。
水を顔につけると、体の温かさが抜け出るような気がする。夏の頃よりも、水道の水は冷たくなっている。冷蔵庫の中には、朝食になりそうなものは何もない。ミネラルウォーターを一口飲んで、すぐに着替える。起きてから十分後には部屋のドアに向かっている。階段を下りて駐輪場に向かいかけたが、手に持ったスクーターのキーをポケットに入れる。
(歩くか)
柔らかく降り注ぐ陽が、そんな気持ちにさせたのであろう。
道に出ると、公園にいる親子が目に入る。三人の母親らしき女性と、四人の子供がいる。
(どの子が泣いていたのだろう?)
どの子供たちも明るい笑顔で遊んでいる。母親たちは世間話に夢中である。
静弥は道を西に向かって歩き始める。何気なく手を頭にやると、思っていたよりも数センチ前で髪の毛に触れる。手で撫で付けても、やはりそのままである。
(寝癖がついているな)
考えてみれば、髭も剃っていないし、寝癖もある。
(髪も伸びているし、散髪に行くか)
理髪店は目的のコンビニの三軒向こうである。
理髪店に入ると、すぐに席に案内された。店内には客は、静弥だけである。
「いつものように」
この理髪店には、今の部屋に引越しをしてきた時から通っている。親子二人で連携してやる散髪は、手際が良い。三十分もかからずに、散髪は終わった。
店を出たところで立ち止まる。このままコンビニで買物をして帰るのが、もったいないような気がしたのである。頭をガリッと一つ掻いて、駅へ向かう。三宮までの切符を買ってホームに立つ。ホームに降り立ったと同時に、向かいのホームから電車が走り出す。車窓から見えた一つの顔が静弥の意識に引っかかる。しかし、それを確認する間もなく、電車は速度を増して過ぎ去る。
時刻表を見ると、次の電車が到着するまで七分ある。七分の時間が長く感じられる。
(探して、どうするつもりだ?)
三宮駅のホームでしばらく周りを見回した後で、自嘲的な笑みを浮かべる。
阪急電車の高架下には、小さな店がひしめいている。服、靴、鞄など様々な店が数メートルの間口で並んでいる。
周りが歩く速さに合わせて、狭い通路を行く。両手を広げれば、両側の店の商品に手が触れるぐらいの幅しかない。静弥は左右に首を振って店を見ていたが、一軒の靴屋の前で立ち止まる。自分の靴に目を落とす。
(これも古くなったな)
静弥の履いているスニーカーは、破れてはいないが、かなり痛んでいる。ソールも片減りしている。
「いらっしゃいませ」
まだ二十代の始めに見える細身の若者が、顔を少し上げて声を出す。しかし、すぐに手元の雑誌に視線を落とす。キャップを被っているために、顔の表情は見え難い。
三坪ほどの狭い店内の壁には、天井まで靴が陳列されている。店内にある靴のほとんどがスニーカーで、形だけでなく色も様々なものを取り揃えている。
静弥は靴のメーカーなどは、ほとんど分からない。普段は、見た目と履き心地、それと、最も重要な値段で選ぶ。今日は…。
店内を見回している静弥の目に、一つのスニーカーが止まる。女性用の薄いピンクのスニーカーである。クラシックな形と淡い色が好対照を成している。
(あれと同じやつかな?)
渚の靴が印象に残っているのも、いつのまにか身についてしまった下を向いて話す癖のためであろう。
「取りましょうか?」
店員が先に引っ掛けるものが付いた棒を持って立ち上がっている。静弥が見ている上の方を店員も見ている。
静弥は急に気恥ずかしさを感じる。
「いや、いいです」
早足で店から出たため、通りを歩いていたカップルとぶつかりそうになる。男の方が静弥に険しい目を向けるが、静弥はそちらに目を向けないようにして歩き去る。男が静弥に何か言いかけるが、彼女に止められる。男は幾分不満そうであるが、歩き出す。
静弥は高架下から出て、商店街の方へ足を向ける。商店街の客層は少し平均年齢が上がる。若者は相変わらず多いが、主婦らしき人や高齢の人たちの姿が多くなる。店の規模も、少し大きくなっている。
カジュアルな服ばかりを取り扱っている店に入っていく。店内にいる客層は若い。静弥と同世代に見える者よりも、十近くも若く見える客の方が多い。スピーカーから流れてくる音楽は今人気があるものなのだろうが、静弥は歌っている歌手の名も曲名も知らない。
店内に入ると、最初に目に付いた服を鏡の前で着てみる。ジャケットとブルゾンの間のようなその服は、自分に似合っている気がした。もう一つ、隣の列の服を羽織ってみたが、前のほうが良い気がする。値段も手頃である。
レジには、他の客が商品を受け取っているところである。静弥は足早にレジに向かい、商品を差し出す。
「いらっしゃいませ」
商品を受け取る女性店員が、営業スマイルを浮かべる。静弥はその時になって、少しだけ後悔が押し寄せた。
(もう少し考えれば、良かったかな)
店員はレジを打ち終わり、値段を言う。静弥はその声に弾かれるように、財布から一万円札を抜く。
「ありがとうございました」
お釣りと商品を受け取って、店を出る。服を買うと、やはり靴が気になる。先程の店にもう一度行こうかと考えるが、先程の態度を変に思われているのではないかという不安がある。
結局、目に付いた靴屋に入って物色していると、店員が声をかけてくる。眼鏡をかけた中年の女性である。
「サイズを用意しましょうか?」
静弥は自分の靴のサイズを店員に告げる。用意された靴に足を入れると、しっくりと足に馴染む。立ち上がって二三歩歩く。
「それじゃ、これを」
靴を脱ごうとして手を止める。
「このまま履いて帰るよ」
静弥が差し出した代金を受け取りながら、店員は今まで静弥が履いていた古びれたスニーカーに目を向ける。
「こちらを箱に入れましょうか?」
新しい靴を履くと古い靴には興味が無くなっていた。今まで自分の体の一部のようにさえ感じていた靴は、ただの汚い塊に感じられる。
「捨てておいてくれないかな?」
店員は古い靴に手を伸ばすのを止める。
「はい。分かりました」
歩いていると微かな違和感が足に感じられる。歩きながら先程の靴屋を振り返る。後悔が湧き上がり始めたが、足に力を入れると消えた。
今日買った服と靴を着ていれば、逢えると、なぜか確信があった。静弥が心に描いている人の顔は、寂しさを湛えている。