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帰途

 荷物を降ろし、さらに他の事業所に行って荷物を積み込み終わった。これから、神戸に向けて帰るだけである。

 時刻は十時を過ぎである。荷物を積むのも載せるのも、ほとんど待たされることなく順調に作業が進んだので、予定よりも早く博多を出発できる。

 今朝に渚が入っていった喫茶店が、見えてくる。喫茶店の二件隣には、大きな駐車場を備えたコンビニエンスストアが建っている。静弥はハンドルを右に切って、駐車場に乗り入れる。駐車場の端の方が、大型車に割り当てられている。トラックを降り立って喫茶店の方へ目を向けたが、足はコンビニへ向かう。

 籠を手にとって店内を歩く。ミネラルウォーター、ガム、タオルなどを籠に入れる。雑誌の棚の前で籠を下に置いて週刊誌を手に取るが、面白そうな記事は載っていない。目を引くものはヌード写真だけである。静弥はすぐに週刊誌を棚に戻して、レジに向かう。

 レジには、二十歳をいくつも過ぎていないような女性が立っている。

(あの子と違って、元気そうだな子だな)

「ありがとうございました」

 店員の声に促されるように商品が詰められた袋を受け取って、店を出る。

 トラックのドアに手をかけてステップに足をかけたが、すぐに下ろす。手に持っている袋を座席に放り込んで、再びドアを閉める。駐車場を出て、車道から一段高くなっている歩道を歩く。喫茶店の前には、車が一台だけ止まっている。

 喫茶店の入口に手をかけると、小さな鐘の音が頭上で響く。店内にはマスターらしき年配の男性と客が三人いる。その内の二人は主婦らしき二人組で、なにやら楽しそうに喋っている。一方は太っていて、もう一方は、さらに太っている。声の大きさは体の大きさに比例するのか、かなりの音量が二人から発せられている。

 そして、もう一人の客は、窓に寄り添うようにして、窓の外を見ている。外の風景といっても、車が通り過ぎる他は、たまに人が歩いていくぐらいである。

 静弥は四人掛けのテーブルの斜め前の椅子に腰掛ける。

「まだいたのか?」

 ようやく渚の視線が、静弥に向けられる。マスターがメニューを手渡そうとするのを制するように、静弥が声を出す。

「ホットを一つ…それから何か追加するか?奢るよ」

 渚は首を振る。

 渚はもう冷めているようである残りのコーヒーを一気に流し込み、立ち上がる。

「どこに行く?」

 渚は伝票を取ろうとしながら答える。

「帰るわ」

「神戸にか?急がないなら乗っていくか?俺も、今から帰る」

 静弥はテーブルの上に置いてある水の入ったコップに口をつける。視界の端に映った渚の顔に、微かな笑みが浮かんだような気がして目を上げる。

(気のせいかな)

 静弥は表情の浮かんでいない渚の顔をちらりと見てから、窓の外に視線を投げる。椅子がカタリと鳴り、渚の視線が静弥と同じ高さになる。

「お待たせしました」

 コーヒーの香りが鼻腔を刺激する。マスターがテーブルから離れていく。静弥がカップを持ち上げた時に、渚が声を出す。

「乗せて」

「多分、神戸に着くのは夜中になる。途中で三時間ほど仮眠したいから…」

 渚が頷くのを見てから、静弥はコーヒーをすする。温かい液体の感触と、豊かな香りが広がる。

(この店のコーヒーは、当たりだな)

 静弥は体の中に急激に眠気が入り込んでくるのを感じた。しかし、このコーヒーで、仮眠できる場所まで行く間は大丈夫であろう。


 携帯電話から、目覚まし用にセットしておいたアラーム音が広がっている。手を伸ばして、頭に響く音を止める。運転席の後ろから這い出ると、陽光が目に染みる。喉の渇きをミネラルウォーターで押さえてから外に出ると、空腹を覚えた。

「二時か…」

 携帯電話をポケットに押し込んで、周りを見渡す。秋も半ばであるが、天気が良い日の日中は半袖でも十分なぐらい暖かい。車内の冷房で少し冷えた体に、じわりと暖かさが広がる。トイレに行き、入るときには首にかけていたタオルを、出るときには手に持っている。売店やレストランがある建物に入る自動ドアは、壊れているのか開け放されている。フードコーナーに並んでいるテーブルのほとんどが、埋まっている。平日なので四人掛けのテーブルを一人で使っている人が多い。

(どこに行ったんだ?)

 渚の姿を求めて店内を歩くが、見当たらない。入ってきたのとは別の出口をくぐり、外に出る。

 潮風に吹かれながら周りを見る。視界の中の大きな場所を占めているのは、巨大な橋である。周防灘と響灘を結ぶ関門海峡の上にあり、下関市と北九州市門司区とを繋いでいる。

 海を見渡せる場所には、数人が後姿を見せている。

「何が見える?」

 渚は欄干に両腕を投げ出すようにして立っている。

「海…」

 そんな答えを期待していたのではない。静弥は溜息をつきそうになって止める。

「腹…減らないか?」

 視線をようやく静弥に向ける。

「そう言えば、昨日から何も食べてないわ」

 風が吹いてきた。潮の香りが濃くなる。渚の短い髪が揺れる。

 静弥がフードコーナーの券売機の前に立って買おうとしていると、渚が千円札を横から入れる。

「乗せていってもらうから、これぐらいは奢るわ」

 渚の顔には、分からないぐらいの微笑が浮かんでいる。その顔をもう少し見ていたいと思ったが、視線を券売機に戻す。

「それじゃ」

 静弥はカレーのボタンを押す。続いて、渚がきつねうどんの文字を追いかける。おつりのボタンを押すと、ジャラリと小銭が音を立てて落ちてくる。

 静弥の方が渚よりも少しだけ早く席についた。二人同時に食べ初めて、渚の方が早く食べ終わるとテレビに目を向ける。芸能人の話題が流れている。

 渚の表情には、何の感情も浮かんでいない。考え事をしているのか焦点の定まらない視線が画面の上に漂っている。

「行くか」

 静弥に合わせて、渚も立ち上がる。

 道は渋滞もなく順調に流れている。法定速度を僅かに上回る速度で車を走らせていると、時折かなりのスピードで追い越される。

「仕事は休みなのか?」

 渚は首を振る。

「働いてない」

「ああ。学生なのか?」

 ちらりと見た渚の表情には、拒否感のようなものは漂っていない。

「二週間ほど前に、辞めたの…」

 会話が途切れる。静弥は、後に続く言葉を思いつかなかった。

(俺は以前に、どんな仕事をしていたのだろうか…そして、どんな暮らしをしていたのか…)

 このような疑問が、定期的に静弥に訪れる。昔に、自分の本籍がある場所に行ってみたことがある。その場所は、道路になっていた。発展した市街地の交通渋滞を緩和するために、二十年前に幹線道路が拡張され、その時にその土地が引っかかったらしい。

 それだけを調べて、自分の過去についての調べる気力を無くしてしまった。それでも、思い出したように不安が襲ってくる。自分という存在を裏打ちするための過去を、どうにかして手に入れたいという思いに駆られる。決まって夜中に訪れるその思いは、また決まって朝には去って行った。

 前の車が、ハザードを出しながらスピードを下げる。

「事故か?」

 完全に停止する。連なった車が邪魔をして、前の様子が見えない。

 十分ほど経っても止まったまま動き出す様子はない。

 一人の男が、静弥のトラックの横を小走りで過ぎてく。おそらく前方の様子を見に行ったのであろう。

 さらに十分が過ぎた。

「待っていてくれ」

 そう言って、静弥はトラックを降りる。止まっている車の間を歩いていく。排気ガスの臭いで、軽い頭痛が襲ってくる。大型トラックの横を通り過ぎるときは、息をするのを止める。

 大型トラックの前に出て、視界が開けた。

(ひどいな…)

 二トントラックが、走行車線を塞ぐように横転している。コンテナの後扉には、食品会社の名前が良く目立つ大きさで書かれている。そのトラックの数メートル後ろでは、セダンとワンボックスカーが追突している。

 さらに近づくと、人が幾人か立っているのが見える。その視線を追いかけると、赤い液体を降りかけられたような物体が横たわってる。赤い液体はトラックの粉々に砕けたフロントガラスから、その物体まで切れ切れに続いている。

 それはすでに人ではなく、物体である。固定されたように動かせない静弥の視界に、それがまだ生きているということを示すものは何もない。一人の男の人生が止まったまま、凝固している。

 長く感じたが、十秒ほどして視線を周りに向けると道路の端に二人、少し離れて一人が座っている。二人連れの方はカップルらしく、女性が不安げな視線を男に向けている。男はその視線を無視するように、道路の上に視線を向けている。

 セダン車のドアに、小さく建設会社の社名が入っている。その車を運転していたのであろう男は、縁石に腰をかけて、両膝の上に片方ずつ腕を乗せている。スーツを着ているが、ネクタイとシャツのボタンを緩めている姿には疲れが滲み出ている。右手の先からは、ゆっくりと煙が昇っている。灰が落ちる前に軽くタバコに振動を与えて灰を落としてから、口元に運ぶ。四十歳代の前半だろうか、若くはないが、年配と言うほどでもない。

 遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。音の方向を見ても、パトカーの姿は見えない。パトカーが到着して辺りを圧していたサイレンの音が止まると、救急車のサイレンが聞こえてくる。

 パトカーから降りてきた警官たちは、事故に遭った車の運転手たちに何やら話しかけはじめる。スーツを着た男は、なにやら頷いて車に乗り込み、エンジンをかける。バックランプが点灯して、じわりと車が下がる。警察官は車の前に立って誘導する。道の端に寄せられた車から男が出てきた。

 別の方から、車のセルモーターが回る音が聞こえてくる。二度、三度と音が続くが、エンジンは反応しない。若者が車を降りて、連れの女性に首を振る。続いて話しかけてきた警官にも首を振る。道を塞いでいるワンボックスカーは見た目にも、かなりのダメージを受けているが、エンジンにも大きなダメージがあるらしい。

 数人の警官たちが、ワンボックスカーに近寄って押し始める。

(しばらくすれば通れるだろうか…)

 救急車が到着した。きびきびとした動きで、救急隊員が降りてくる。しかし、血まみれの死体を見て、動きが鈍ったように静弥には見えた。

 隊員の一人がトラックの運転手だった男に近づいて脈をとったり眼球を診たりしていたが、ゆっくりと仲間の隊員の方へ首を振る。担架に丁寧に乗せて持ち上げる。

 そこまで見て、静弥はトラックに戻ろうと体を反転させる。

 渚が立っている。見開いている目の先には、担架で運ばれる男の姿がある。体に震えがきた様に、両手で胸を抱え込む。それでも視線は動かさない。

 静弥は近づいていくが、渚は気が付かない。

「大丈夫か?顔色が悪いぞ」

 ようやく、渚の焦点が静弥の上に止まる。渚はその視線をすぐにずらして反転し、歩き始める。静弥は同じ速度で後を追いかけて、トラックに戻る。渚の背中に、声をかけることを拒否する何かが現れているような気がする。

 渚はトラックの助手席に座って、背中を丸めて下を向く。救急車が、ゆっくりとした速度で路側帯を走り去る。

 ラジオから、渋滞情報が流れてくる。先程、自分の目で見たことをラジオで話している。事故の詳細については、まだ分かっていないらしく、渋滞の様子だけが伝えられている。二台前の車が動いたのが見えたので、エンジンをかける。

「やっと動けるようだな」

 トラックは、まだ事故の時のままの姿である。横転したトラックを移動させるのはそう簡単な事ではないのであろう。ワンボックスカーは、すでに走行車線側に移動が終わっていて、警察官が後続の車を誘導している。

 道路上に残った血痕が、まだ完全には乾いておらず、生々しい。

 渚は視線を少し上げて、事故の様子を見ている。視線に怯えの色が残っている。

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