渚
「なぎさ」
その言葉が名前を指すものだと気が付くまでに、間が空く。男が聞きたかったのは、そんなことではなかった。それでは何を聞きたかったのか…。
「なぜここにいる?」
なぎさと名乗った声は、まぎれもなく女性のものであった、無言で視線をトラックの荷台に向ける。
「乗ってきたのか?」
女は頷きもせずに歩き出す。歩いていく先は、闇である。かなり先のカーブに、外灯が一つ見える。そのカーブを曲がって、一台の乗用車が近づいてくる。男は女を追いかけようとして一歩踏み出すが、そこで足を止めて声だけを出す。
「どこに行く?」
女は少しだけ首を回す。視線が男を捉えることができるまでは首を回していない。男からは、女の横顔だけが見える。女が首を振る。小刻みに一回。
反対車線を乗用車が、通り過ぎていく。
男は、光を失った懐中電灯を拾い上げる。
「乗っていくか?」
女の横顔が、斜め前から見た顔に変わる。
「乗っていくか?」
繰り返された言葉に、今度は首を縦に振る。女は無言でトラックの荷台に向かって歩く。一歩、二歩、五歩歩いたところで、男がもう一度声を発する。
「助手席に乗れ。後ろは荷物の場所だ」
男が開けた助手席側のドアに手をかけて、ふわりと飛ぶ。その時、何か懐かしいような香りを嗅いだ。花の香り。しかし、次の瞬間には消えた。
(何の香りだったかな…)
トラックを走らせる前に、缶コーヒーを取り出す。一つを女の方へ差し出すと、女は無言で受け取る。男は自分の分の缶コーヒーをカップホルダーに入れ、アクセルを踏み込み、クラッチを繋げる。トラックの重い車体を、騒々しいエンジンで加速させる。
時速が五十キロを超えたところで、缶コーヒーを拾い上げる。器用に片手で蓋を開ける。
「なぎさという名前だったな。どんな字を書く?」
女は缶コーヒーを手の中で転がしている。
「三水に者」
男は、漢字を頭の中で組み立てる。
「ああ。海辺の渚か…俺は白岳…白岳静弥だ」
缶の蓋が開く時の音が、車内に響く。
「私は…ただの渚」
女が初めて自分から口を開いたが、すぐに黙り込む。
次第に、道の周りに建物が現れる。夜の気配が、朝の気配に侵食されていく。トラックのライトに照らされた場所だけから、急激に視界が広がっていく。カーブを曲がる度に、朝の色が濃くなる。
「田んぼが血を流しているわ」
渚の視線の先に目を向けると、彼岸花が田園のあちらこちらに咲いている。刈り取りの終わった田に咲いている真っ赤な彼岸花は、言われてみれば、確かに土から血が染み出しているように見えなくもない。しかし、静弥は渚が彼岸花からそんな印象を受けることに、心のどこかが冷えた。
再び高速道路に乗り、関門海峡を越える。目的地の博多まで残り少しである。サービスエリアに入り、トラックを止める。
「腹が減らないか?」
静弥が向けた視線を振り払うように、渚が首を振る。静弥はトラックを降りて、建物の方へ歩いていく。
朝の空気はひんやりとしていて、肌の温度を奪っていく。
静弥は体の冷えを、うどんの温かさで補うことにした。券売機で食券を買って、カウンターの向こうに立っている老人に手渡す。
口の中でもごもごと何か言って券を受け取り、作りはじめる。この仕事を始めて間がないのか、手際が悪い。汁を鍋から掬うためのお玉を持つ手も、どこか不安定である。案の定、丼から汁がこぼれる。それでも、二分ほどで天ぷらうどんが静弥の前に置かれた。
静弥は一味を二回振って、箸を口に咥えてカウンターを離れる。座席は空いている。まだ交通量が少ない時間帯で、それに応じてサービスエリアを利用する人も少ない。
静弥と同じトラックの運転手らしき人、これから出勤なのか、スーツを着ている若者。それらの人々と最も離れた席に陣取って、食べ始める。テレビでは、朝のニュースが流れている。二日前に発覚したどこかの市長の贈収賄事件に、進展があったらしい。
うどんを一気に胃の中まで流し込んで、熱い茶を一口すすると、体が温まった。もう一口すすると、じわりと体に汗がまとわりつく。茶碗の中の茶を半分残して、食器返却口に持っていく。
便所に寄ってトラックに戻ろうとして、立ち止まる。自動販売機に目をやって、ポケットに手を突っ込む。じゃらりと右手に硬貨が当たる感触がある。買ったのはコーヒーとオレンジジュース。
トラックの中が見える位置まで戻った時に、足が速くなる。フロントガラス越しに渚の姿が見えない。
ドアを開けると、眠そうな様子の渚が体を起こす。座席に体を横たえて寝ていたのである。
ほっと静弥が息を吐く。そして苦笑を浮かべる。
(なぜ安心するんだ?俺にとっては、いなくなっても何の問題もないだろ?どちらかといえば、いなくなった方が面倒がなくて良いはずだ…)
静弥は座席に乗り込むと、渚に缶を二つ示す。
「どちらが良い?」
一瞬の沈黙の間に、後悔がはしる。
(買ってこなければよかったかな)
渚の視線が、オレンジジュースの方へ動く。静弥は、渚の目の前まで右手を伸ばす。
「ありがとう」
時刻は七時を数分だけ過ぎている。
「どこに行くつもりだ?博多の近辺なら送ってやるぞ」
渚は首を振る。
「どこでも良いから、適当に下ろして」
大きな声ではないが、はっきりとした言葉である。
「これから、どこかに行くのか?」
窓の外に視線を向けていた視線を手元に向ける。右手の薬指に、シンプルな指輪が嵌っている。
「適当に時間を過ごしたら、帰るわ」
「神戸に?」
渚は頷いて、すぐに視線を窓の外に戻す。渚の横顔に拒否の態度が見えるような気がして、静弥は口を開くのをやめる。
九州自動車道の福岡インターチェンジを降りる。残り五キロほどで、目的の工場に到着する。
国道を走っている途中で、渋滞につかまった。かなり先にある信号まで車が連なっているのが見える。すでに時刻は七時半を過ぎて、通勤の時間帯になっているのである。
「ありがとう。降りるわ」
突然、渚がそう言ってドアを開ける。渚は軽い身のこなしで、道路に降り立つ。
「おい」
静弥の声を断ち切るように、トラックの重いドアが閉まる。視界の端に、前の車が動き出したのが見える。車三台分ほど前に進んで、再び止まる。
静弥がサイドミラーに視線を向けると、渚は道路沿いの喫茶店に入っていくところであった。
また前の車が少し前に動く。ギヤチェンジをした左手の向こうのカップホルダーに、飲みかけの缶が残されている。
(あの子はこれからどうするつもりだ?)
静弥は溜息を一つ吐いて、視線を前に向ける。もう一度信号が変われば、先に進めそうである。疲れが次第に思考するのを億劫にしはじめている。