月明かり
過去に押しつぶされそうになっている二人の男女が、出会った話です。
その男は、以前はコックだった。その前は、工場で働き、さらに前は…。
今は、トラック運転手である。変わったのは職業だけではない。顔、整形したわけではないが、以前の彼を知っている人が見ても、分からないであろう。それほどに見た印象が異なる。名前。住所。あらゆるものを変える。変えれるものは全て…。記憶さえも変える。いつからそんな生き方をしてきたのか…自分でも分からない。
覚えているのは、月下美人の香り。夜に咲き、艶やかな姿と強烈な芳香を残して、朝には萎む。そんな花の香りを。
今日は、神戸から博多まで荷物を運んでいる。到着するのは明日の朝、そして明日の夕方には、再びハンドルを握り大阪に向かう。世の中の景気が悪くなってからは、会社から支給される高速道路の料金さえも削られている。道程の三分の一は高速道路ではなくて一般道を走るように指示が出ている。今日も、車の通りが少なくなった夜中から、一般道を走っている。
男は二十代後半…もしかしたら二十代の半ばでくたびれた作業着のために少し老けて見えるのかもしれない。しかし、時折見せる表情には、もっと年齢を重ねた雰囲気を持っている。
男が時計に視線を向けると、すでに午前三時を過ぎている。体の中に疲れが溜まってきて、注意力が散漫になりはじめている。
「あっっ」
男は、急ブレーキを踏んだ。道は国道であるが田舎の道、しかも深夜である。後続車はなく、前を走っている車もない。
トラックのライトに照らし出されたアスファルトの上には、何も転がっていない。視界の中を、縦に物体が通り過ぎていく。
「ひいたか?」
男はサイドブレーキを上げて、車外に飛び降りた。長身でごつい体の割には、軽い身のこなしである。トラックのライトに照らし出された顔には、目の下の隈と眉間に寄った深い皺が目立つ。袖を捲り上げたシャツから見える腕は、真っ黒に日焼けしている。手に持った懐中電灯を、車のライトの光が届かないところに向ける。トラックの前、そして下を、ゆっくりと見ていく。
(人ではないよな?)
一瞬、視界の中に飛び込んできたものは人ではないと思ったが、もしかしてという思いもある。男は緊張で息が荒くなっているが、自分では気が付かない。
懐中電灯の光に茶色の塊が浮かび上がる。男は息を吐き出す。人ではないようである。男がよく見ようと、身をさらに低くして近づこうとすると、茶色い塊が体を震わせるようにして立ち上がる。その姿は、犬ではない。犬よりも、ずんぐりとしている。
(狸か…)
狸は左右に首を振ると、懐中電灯の明かりと目が合った。狸は足を高速回転させて走り出す。まだショックを引き摺っているのか、タイヤに体をぶつけて少しよろけながら走り去る。
男は懐中電灯を消して、立ち上がる。
「良かったね」
男は背後から聞こえてきた声に、心臓を痛打されたような衝撃を感じた。男は首を筋肉の限界の速さで回し、背後を振り返る。
影だけが見える。男よりも、頭一つ分低い影である。懐中電灯のスイッチを入れようとして手が滑る。
ガシャッ
音で、懐中電灯が壊れたのが分かった。男は懐中電灯を拾わずに、影に目を凝らす。次第に、目が暗さに慣れてくる。満月の光で浮きあがってきたのは白い顔である。視線は、狸が走り去った方へ向けられている。若い女性、それとも少年であろうか。短く刈り込まれた髪の下にある顔は、どちらとも判別し難い。どちらにしても、整った顔立ちであることは間違いない。切れ長の目、通った鼻筋、薄いが形の良い唇。服装は、ジーパンに白い長袖のシャツ。靴は、よく見えない。
男はしばらくその顔を眺めてから、ようやく声を出す。
「誰だ?」
黒い瞳が、正面から男を見る。