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ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ダブリン

作者: 唐橋史

 22時、アイルランド、ダブリン、シティセンター、市庁舎の向かいの赤い屋根のホテル。

 私はタバコの火を消し、寝巻の上にコートをはおると、部屋を出た。

 階段を下りてみると、ロビーにもフロントにも誰もいなかった。すでに照明も落ちていて、暗がりの中に柱時計の音だけが響いている。私は咳払いをひとつした。外に出た。

 冬のダブリンの夜は暗い。軒の低い建物が身を寄せ合うような街並みの中を、霧雨が斜めに降りかかる。私は両手をコートのポケットに突っ込むと、首をすくめてコートの襟に頬をうずめた。背中をかがめ、極力心を固まらせるようにして、地面を見ながら歩き出した。

 路地を裏手に曲がると、やがて雨の向こうに微かな音楽が聞こえ始めた。途切れ途切れのアコーディオン、もしくはヴァイオリン、あるいはフィドル。その合間合間に雑踏が聞こえ始めたらその場所は近い。リフィ河に向かう道路を横断すればにわかに街中の窓という窓に橙色の明かりが灯るのだ。

 テンプル・バー。

 ダブリンで最も老舗のパブが集まる繁華街である。橙色の光に満ち溢れたその場所の空気は、ビールの匂いの雨が降る。

 私が仕事で度々この街を訪れるようになってすでに三年が過ぎていたが、この場所にやってくると、親の言いつけを破ってこっそり夜遊びに出歩くティーンエイジャーのような、代えがたい甘酸っぱい高揚をいつでも新鮮なままに感じることができた。

 私はこの日も、行きつけのパブに入った。

 中は人の頭しか見えないほどに混み合っている。アイリッシュミュージックの楽団がフロアの一角を占領し、ヴァイオリンをかき鳴らし、それに併せて客たちはパイントグラスを片手に踊ったり、歌ったり、叫んだりしている。サッカーでセルティックが勝ったのだろう、店のテーブルとイスは隅のほうに片付けられ、積み重ねられたその上に応援用の旗がいくつもかけられていた。

 やっとの思いでカウンターに辿り着くと、私はギネス・ビールを注文した。5ユーロ硬貨を取り出そうと、コートのポケットをもぞもぞとやっていると、そのとき、声をかけられた。

 初老の男性、大柄で、団子鼻の目立つ顔だった。アルコールのせいか首まで赤い。カウンターに背中からもたれかかるようにして、ウィスキーのグラスを手にしていた。

「日本人?」

 彼はそう尋ねた。

 私は「アメリカ人かい?」と返した。彼は笑ってうなずいた。

 彼はボストンからの観光客だった。レッドソックスのダイスケ・マツザカの話で我々はひとしきり盛り上がった。

「アイルランドはサッカーが人気だが、スポーツはやっぱり野球さ」

 私がそういうと彼は大いにうなずいて、自分もずっと野球をやっていたのだと言った。

「じいさんはずっと渋い顔をしていたがね」

 我々は連れ立って店を出た。雨は止んでいた。石畳の路面は濡れてつやつやと輝いていた。

 私は足を滑らせて尻もちをついた。思いがけず酔ったらしい。彼は私の手を取って立ち上がらせようとしたが、今度は彼のほうがバランスを崩して転んだ。二人で笑った。

 道端に壊れた自転車が打ち捨ててあった。全体が赤黒く錆ついて、チェーンははずれかけ、サドルは無い。ハンドルが前後さかさまについている。彼はこれをよろよろと起こすとおもむろに跨って、ペダルに足をかけた。

「無理だ」私は言った「怪我をする」

 次の瞬間、自転車は、軋む音を立てながら右へ左へ蛇行すると、ごみ捨て場のところでスリップした。彼の巨体がごみ袋の重なり合う中に柔らかく落ちた。

 姿は見えないけれどもごみの中からはしばらくずっと上ずった笑い声が聞こえていた。私もつられて笑っていた。

「じいさんもよく言っていたよ!」

 彼はこちらに手を振ってみせた。

「怪我には気をつけろ、それから壊れた自転車にだけは乗るなってね」

 また雨が降り始めた。細く冷たい白糸のような雨だ。私は大きく深呼吸をした。雨とビールの匂いがした。私は彼の傍らに立つと、言った。

「君のおじいさんはどんな人だったんだい?」

 彼は、ごみの中で大の字に寝そべったまま、答えた。

「じいさんはダブリンの生まれだ」

 クラクションを鳴らしてタクシーが一台通り過ぎた。雨が強くなってきた。

「一度でいいから見てみたかったんだ。じいさんの生まれた街を」

 彼はずっと雨の降りくる方を見ていた。

 私は自転車を引き起こした。チェーンが切れていた。先端はだらしなくスポークの隙間から、泥水の混じった水たまりに落ちていた。

「君はアイルランド系移民か」

 私がそう言うと彼は徐に起き上った。革ジャンのポケットに両手を突っ込んだまま、私のほうを見た。

「余命を宣告されたとき、まず真っ先に決めたのさ。ダブリンに行くってね」

 彼は私の手から自転車を受け取ると、それをごみの上にそっと寝かしつけた。そして黙って歩き出した。私も黙ってその後ろをついていった。

 どこからか口笛が聞こえてきた。ビートルズの「イエスタデイ」だった。旋律はやがてかすれて次第に聞こえなくなった。

 土産物屋の前を通った。中国人のカップルが手をつないで出てきた。二人は肩を寄せ合い、頬を寄せ合い、かわいらしく丸まって、我々とは反対側の方向へ歩いて行った。

 やがて我々は私が宿をとっているホテルの前までやってきた。外から覗き込んでみるがやはりロビーは暗いままだった。

「もう一軒どう?」

 私は彼にそう尋ねたが、彼は首を振った。

「夜遊びはこれくらいにしておこう、日本のお嬢さん」

 私は思わず息をついた。それは白くなって、すぐに雨にかき消された。

 彼は手を差し出した。丸くてごつごつしたくるみのパンのような手だった。私はこれを握り返した。

「こう見えてももう25歳なんだ」

 私がそう言うと、彼は「娘と同い年だ」と言って笑った。

「今頃は母親と一緒に、マンハッタンで新しい父親のセーターでも買っているだろう」

 と言った。

 私は彼に抱きついた。ビールとウィスキーの匂いがした。彼も私を抱きしめた。

 遠く微かにアコーディオンの音色が聞こえる。「ワイルド・ローバー」だ。放浪者が、故郷ダブリンを想う歌だ。

「おやすみなさい、パパ」

 私がそう言うと、彼は私の頭を髪の毛がくしゃくしゃになるまで撫でた。


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