出発 4
夏休みは会社が休みになることではなく、社員が交代で休みを取ることだった。営業は休みなく続いているので、そうせざるを得なかった。一昔前なら、やはり旧盆の時に休みを取ったのだろうが、弘樹が気づいた時には正月も休みがなくなっていた。もちろんメーカーや問屋は休んでいる。そのため連休の前は荷物がいっぱいで、その間に在庫を売り上げるということになった。
内規で夏休みは5日間取れることになっていた。当然旧盆の時期に皆が休みを取りたいようで、話し合いが行われていた。抽選をする部署もあるようだった。ただ弘樹はいつでもよかったので、それ以外の日を連休でとって旅行に行くことにしていた。そのほうが費用も低めで、時間もかからなかった。というのも車で出かけるのでその時期の混雑を外すことができたからだ。
その年は明穂と行くことになった。
どこか行きたいところがある、と聞いても、どこでもいいの、と答えた。
弘樹もほとんど計画を立てなかった。行き当たりばったりが旅行の醍醐味だみたいに考えていたので、ホテルの予約も入れなかった。
待ち合わせの場所と時間があって、帰ってくる日が決まっているだけだった。その解放感だけで、もう目的は達していた。不愉快なこともあるかもしれないけれど、それも旅行の一部分だった。
言い合いをすることはなかった。お互いがいい部分だけを見せようとしているのかもしれない。会っているだけの付き合いというような感じがしていた。顔を見なくなってしまえば、忘れてしまうような交際だった。実際はそうでなかったかもしれないが、そんな気がしていた。刹那の恋人と言えるのだろうか。
ただ、弘樹は怖れていただけなのかもしれなかった。
自動車は中古のを買った。あまり車に興味もなく、動けばいいという感じだった。ただ山道で苦しくなるのが嫌で、ある程度の大きさのものにした。色は青みがかったグレー。無難な色のような気がしていた。
明穂はどんな車に乗っていたのだろう。急に彼女の過去の生活が気になりだした。結婚生活について彼女は多くを語っていない。こちらもそれを話題にする気もせず、過ごしてきた。今さら何かを聞くこともできず、彼女が触れるのを何気なく聞いていただけだった。元亭主について、悪くいうことはなかったが、良くも言わなかった。
「愛情が冷めたのよ」というような言い方をしていたような気がした。細々したことは言うことがなかった。
反対に、それを聞いたら弘樹は嫉妬をするかもしれなかった。
明穂が他の男に抱かれていたら、ひどくめげる気がした。それを独占欲と呼ぶのだろうか。でもそんな風なことを言う資格が弘樹にはないような気がした。彼は態度をあいまいにして、いつも逃げ腰だったからだ。
彼女に愛情を持っているのだろうか、というような考えが頭の片隅に浮かんだ。
明穂はいくつかCDをもちこみ、それを聴いていた。車は軽快に走り、日差しは強かったがエアコンの効いた車内は気持ちが良かった。暑さはアスファルトの路面と、もくもくと湧きだした雲のかなたにあって、絵にかいたような夏休みだった。その時間を楽しく過ごせればいいな、と漠然と弘樹は考えていたにすぎなかった。
はるかのことを考えないわけではない。
別居という一種の冷却期間がなければ、もっと弘樹は混乱していたはずだ。ただ長い間離れていたことで、不在が常態になってしまって、死というのが、ピンときてなかった。たぶん遺体が見つからない、ということもそれに輪をかけているのだろう。
葬式を済ますことで、訣別は済ましたはずだが、まだどこか遠いところではるかは生活しているようにも感じていた。しかし確実に手が届かなくなっているのだ。
弘樹は自分が薄情であるような気がしていたが、食事をするように明穂と付き合っていた。生きていくためには食事をしなくてはいけないなら、食事は楽しむべきだろうと弘樹は考えていた。
学生時代の友人でひどく不味そうに食事をする友人がいた。弘樹は彼のことが好きだったが、そのことだけは嫌な気がしていた。食が進まないのだろうな、ということは解った。普通に食べなくてはと考えているのだろうが、皿をこねくり回すだけで、口に運ぶことができなかった。それなら弘樹だったら食べないでいるような気がした。腹が減るまで食べないでいればいいのだ、と思っていた。不眠の時も眠くなるまで寝ないでいた。どうしても眠くなるまで起きていることにした。するといつの間にか眠れるようになった。目が覚めれば起きだせばよかった。
それは弘樹が体力があって、ある意味健康であるということだったのかもしれない。たぶんそうでない人もいるのだろう、とは想像できた。だから人にそんなことを言ったことはなかった。ある種の自己健康法にすぎないに違いはなかった。
車は関越道に入っていた。
住宅がだんだんまばらになり、いくつか川を越えて車は進んでいた。通行量は少なくて二車線の道路の左車線だけを使っていた。
遠くに樹が見える田園地帯を過ぎ、間近に木々が迫ってくるところのサービスエリアで休憩をした。人も車も休んだ方が良かった。三時間を過ぎお昼時にもなっていた。
その間、たわいもない会話をして、明穂が持ってきたCDは軽音楽から、Jポップのようなものに変わっていた。音楽は好きだったが、これといった趣味はなかった。だいたいにおいてこれでなくてはいけない、というようなこだわりが薄かった。ただ、あまり自覚していないところで、そのようなことはあるんだろうとは思っていた。例えばビールはグラスで飲みたいみたいなことだ。
肩を並べてセルフサービスのうどんを食べた。
どこへ行こうか、みたいな話をした。とにかくこの先は未知の領域だった。夕方前には新潟につくだろう、ということになって車中で宿の予約を入れることにした。任せるからというと、明穂は携帯と首っ引きになって、何やら調べて電話をしてホテルが決まったようだった。とにかく一本道なので、道に迷う心配はないだろう。
空はどこまでも高く、夏の雲が勢いよく伸びていった。
考えてみれば明穂と遠出をするのは初めてなのに気づいた。はるかとはよく車に乗って出かけたなと思いだした。はるかが出て行ってから、車は処分してしまって、会社の営業車しか乗っていなかったのだ。
今はるかを思い出すのは、弘樹の中で明穂の存在が大きくなってきているからだった。
はっきり向き合わなくてはいけないと、はるかが警鐘を鳴らしているのかもしれない。また同じことをするの、とはるかが聞いている。
そうすると、これ以上踏み込んではいけないんだ、というような気持になる。いっそ愛想をつかしてくれればいいのにと思ってしまう。そうすればお互い傷つかなくて済むような気がした。二人にとってちょっとした避難所なのかな、と考え始める。いずれ出ていかなければならないような場所だ。
はるかはそんなふうに考えていたのだろうか。
子供はしばらくつくりたくない、とはるかが言ったとき、弘樹には説得する言葉がなかった。そのことに関して男は無力のようにも感じる。産んでくれ、と頼むのもおかしい気がした。そうなら仕方ないのかなと納得するしかなかった。
やはり二人には家族や家庭の観念が欠けていたのだろう。二人はまだ若すぎて大人になりきれていなかったのだろうか。
きれいさっぱり、ということでいえば弘樹はそんな感じにはなってはいなかった。もともと引きずるタイプだった。ああだこうだと、とっかえひっかえ考えることが多かった。優柔不断とは自分で思っていなくて、どちらかと言えば、行動してから考えた。過ぎ去ってしまったものを評価してみるのが好きだったのかもしれない。
衝動なり熱情で突っ走ってしまってから、その意味を思いめぐらしていたのだ。それで結果が悪かったとしても、その熱情は自分で良しとする傾向があった。そうでなければ彼は何もできなかっただろう。直観とか積み重ねで、判断していたことになる。ダイスの目のようなものだった。次に出る数に確信を持っていたのだ。ただ、何度もやってしまえば、統計以上のものにはならないので、できるだけダイスを振らないようにはしていた。そうういう意味でいえば、今回は賽はもう投げられていたのかもしれない。行くところまで行くしかないな、というような気持ちは持っていた。
明穂は弘樹に何を望んでいるのだろう。
新潟の町は平らで、海の水がそのまま侵入してくるような感じだった。港の近くの宿はスポーツ選手が遠征で泊まるようなホテルだった。大雑把で開放的で、部屋に入ればシーンとしていた。防音がいいのか音が聞こえなかった。窓を開けると、隣りのビルの壁しか見えず、どこからか車の通行音が続いていた。
軽くシャワーを浴びてから、どこか暗い町に出て食事のできる店を探した。正確に言えば、酒の方がメインなのかもしれない。こぎれいで肴がそこそこつまめればそれでよかった。ぼんやり灯りのともった店を見つけた。霧が出ているのかもしれなかった。
ひとりでいる時と、明穂といる時とでは、どこが違うのだろう。あまり気をつかって飲んだことはなかった。並んで飲んでいることの時間が楽しかった。心許せたし、のんびりできた。とりわけ旅に出ていることが解放感をもたらしていた。
かなり飲んだのだろうか、いい気持ちになってホテルに戻ってきた。
部屋に入ると、抱き合ってキスをした。
二人で風呂に入ろうということになった。
風呂を出てから、また冷蔵庫のビールを飲んだ。何やらふたりとも酔ってしまって、ベッドに倒れこんだ。それからの記憶は不確かになってしまった。
次の朝、車を置いて船で佐渡に渡った。
バスで島をめぐり、一泊してから次の日戻ってきた。
おいしい海の幸も酒も楽しんで、新婚旅行のような感じになっていた。
だから、戻って最初にかけた電話が通じなくなっていた時は何よりも驚いた。予想もしていなかったことで、何かの間違えのような気がしていた。リダイアルしても同じだった。話中になっていたので、たぶん着信拒否なのだと思う。
次の日もう一度電話して、あと一回だ、と決めた。
それから3,4日経ってから掛けてみたが同じだった。何も考えられなくなっていた。頭の中を風が吹いているような変な感じだった。
仕方ないな、という気はするのだが後を引いた。振られちゃった、と何か茶化した気分になった。けれど半分はホッとしていた。先のないような関係に思えていたからだった。
そんなふうな感じでその夏は終ってしまった。