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出発 3



思ったより早く、だれがそう思っていたのかは考えなかったけれど、弘樹は真っ黒になって復帰した。

数少ないスーツも引き取ってきた。保管料は取られなかった。

早めの夏休みを取ったような感じになった。榎田付きのスタッフに所属することになっていて、本社勤務で、彼の秘書みたいなものだった。雑用係りともいえるかもしれない。拘束時間は長くなった。ある意味それは余計な考えを生まない分、楽だったともいえる。指示された内容をその意図通り、実現していくという作業だ。新規出店のリサーチ、立地調査やトラブッている案件の下処理、事情報告。どこから現れるのか、問い合わせ、指示の書類は山積みされていった。

榎田は腹心の部下を持ちたいと思っていただろうし、弘樹は彼を信頼していて、仕事を与えられるのを待っていたから両者の思惑が一致したことになった。スーツが弘樹の仕事着になった。

榎田と一緒の外回りも多くなった。その時は運転手というような役回りだった。


一、二度引っ越して今は都内のワンルームに住んでいた。さすが深夜の仕事はなかったが、朝一番の出張は多かった。関東エリアが守備範囲ということもあって、日帰りするには早朝の出が必要になった。榎田はどんな案件でも自分で足を運んだ。そこまでする必要はないのではというところを、一歩先に設定しているようだった。必ず確認というか、ダメ押しみたいな作業をすることを自分に課しているところがあった。弘樹なら安心して引き上げるところをもう一度足を運んだ。

彼は郊外に家族と住んでいたので、ホテル泊りも多かったはずだ。一切私生活の話はしなかった。する暇がなかったのかもしれない。

スタッフは12、3名でそれぞれの案件を抱えている。それを統括しているのは榎田だった。弘樹はその下の無担当の雑用係だった。前は、担当があるという意味で、そのスタッフだった。仕事量が多すぎるのでその役割を新設したのだろう。ある意味弘樹がいなくてもこの部署は回るが、少し忙しすぎるということだった。


仕事がらみでも飲む席はあったし、時間の合う数人で飲みに行ったことはあった。いろんな不満はだれもが持っているし、いわゆるガス抜きが必要だった。

言ってしまえば、すっきりとしてほとんどそのことを忘れていられるようだったが、弘樹はそのことが苦手だった。反対に言えば、ストレスに無自覚なのかもしれない。スルーしてしまうことが多いのだろうか。細かいことが気になることはあるのだが、対人関係などはひどく無神経というか、細かいニュアンスは無視する傾向があった。はっきり言われない限り、そのことはないものとするという態度でいた。そのこと自体にも自覚的でなかったかもしれない。自分ではそれがストレスを回避する方法だと思っていた。


面倒な人間関係に巻き込まれたくない、という意識が強くて弘樹は部署の誰とも特別な関係を持たなかった。何人かの集団ができると必ず派閥的なものが生まれるが、どこにも属したくないと思っていた。榎田派閥ではあるが、このことは課のメンバーというだけだからこの場合意味は持たなかった。

特に女子社員は避けていた。少なくとも職場の人とは恋愛関係や、性的関係にならないように気を付けた。礼儀正しく、親しくはあっても私的な会話はしなかった。だれにも好感をもたれるように、実際は無理だけれど、あまり強い印象を与えないようにしていた。一歩下がってという言葉があるがその感覚だった。

もちろん普通の成年男性だからそれなりの付き合いはある。その場合でも、どこに勤めているとか、分かっていても話題にならないような関係を好んだということだった。

明穂は弘樹に何を望んでいたのだろう。週末にホテルに行ったり、食事をするだけの付き合い、という言い方があればだけれど、ひどく不安定な関係だった。たぶんどちらかの携帯がなくなれば終ってしまう関係だった。

現在この番号は使われていません、という案内さえなくそのまま音信不通になることができた。世の中にはどれだけ迷子の回線があるのだろう。


「今日、夕方出れる?」という内容のメールを早めに打っておく。

すぐ返事の来ることもあり、時間がかかることもあったが返事は来た。その間で何かのやりくりが行われているようだった。

出会いは偶然だった。ただロマンスのような欠片はない。ありがちではあるが、酒を飲む店で何度か顔を合わせ意気投合したということだった。実は飲みすぎて細部は忘れてしまっていた。ある意味そのぐらい酔っていなければ一緒にホテルには行けなかった思う。素面では進めない一線だけれど、そのあと続いていることには意味があるような感じがしていた。どこかで選択があったが弘樹にはそれが何かは明確ではなかった。一緒にいて疲れない人、という類いだろうか。

ゆっくり食事ができる時なら、一人で食べるよりは彼女と食べるほうがよかった。表情が輝いているし、お洒落で笑顔が素敵だった。お互い緊張しないでどこでも食事ができた。二、三歳年上であったのかもしれないが、もちろんそんな感じはしていなかった。

おいしい食事ができ、開放的なセックスができれば弘樹は満足していた。それ以上望むことはなかった。


齟齬が生まれるとしたら、やはり何かに不満を持つからなのだろうか。いつも口喧嘩をしている夫婦がいる。それが遊戯であれば傍から何かを言う問題ではないのだろうが、感情がもつれていて、当人にも分からなくなっているような感じだ。

そんな関係の結婚にはしたくなかった。はるかとのことで、弘樹は自分が家庭生活に向いていないのではないかと思い出していた。それを維持していく強い意識がなかったこともあるが、男女あるいは他者と暮らしていく不都合さを引き受ける覚悟もなかった。はるかがどんどん遠くに行ってしまったように思っていた。それが自分の都合であることも自覚していなかったんだろう。

だから明穂との交際は彼を圧迫しなかった。お互いそれだけの関係だと線引きしていたからだった。


しばらくそんな関係が続いたあと、実はみたいな感じで彼女が言った。

「最初会ったときから、こうなるのは分かっていたの。感じるものがあったのね。この人とは縁があるんだと気づいていたの」

弘樹にはそれほど強い印象はなかった。少し控えめだが、十分目立つ美しい女性だな、と感じただけだった。華のある人だった。

またしばらくして、彼女が離婚したと聞いた。

もともとうまくいっていなくて、別居していたんだが正式に離婚したと彼女の女友達が教えてくれた。そのことをなぜか、明穂は弘樹に言わなかった。


明らかに明穂と会う回数が増えていった。

月数回だったものが、週に一、二回になっていったんだ。お互いが会うことを望んでいた。弘樹は時間が許せば、連絡を取って彼女と一緒に過ごした。ただお互いの部屋に行ったりすることはなかった。それは何か暗黙のルールのようなものだった。いつでも別れられるという保険のようなものだったのかもしれない。それが役に立つと彼が本気に思っているわけではなかった。

大人の関係、というような意識があったのかもしれない。経済的にも不自由しない二人が、明穂は余裕があるように見えたから、人生を楽しむために交際をしているといった感じだ。さすがホテル代は弘樹が払ったが、食事は割り勘のことが多かった。

ことさら考えが合うというわけではなかった。おいしいものやお酒が好きで、酔えばカラオケをしたり、ダンスをした。二人でいれば楽しかった、ということだった。セックスの相性は弘樹は良いと思っていたが、明穂がどう感じているかはわからなかった。

そういう意味でいえば、彼女がどう望んでいるかはわからなかった。聞くのは怖い感じがしたし、たぶん自分と同じように感じているのだろうと思っていた。

その後また3か月ぐらいそんな関係が続いた。


仕事は大きなトラブルもなく、順調に進んでいると思えた。総体では斜陽産業ではあったが、集客力を隙間に展開していくことで、売り上げを増大していく戦略だった。食品は扱わないが書店のコンビニ化であったのだろう。苦肉の策であったので、将来の展望はそんなにはなかった。どこまで維持していけるかが勝負であったと言える。量的展開も慎重になっていった。どこかで何かを変えなくてはならなかった、そのことは弘樹にもわかっていた。経営者が決断を下すのだろう。


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