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出発 1



あれから三年たった。


あの時、はるかが行方不明だということは情報としては伝わっていたが、弘樹の中ではうまく距離感が合わなくて、像がピントを結ばなかった。

気がつくと、嘘だろ、と呟いていた。反対に、嘘だろと言っているのに気づいたから、正気に戻ったのかもしれない。

切れた携帯をずっと耳に押し当てていた。

まだ早春の風の強い街角だった。その中で立ち止まって、彼は携帯のウェブサイトで飛行機事故のニュースを見た。実際その事故のことはよく知らなかった。飛行機そのものが行方不明のようだった。

それから彼はあてどもなく街を歩き回った。風が強くて、コートの襟を立て身を屈めるようにして歩いた。時々人の波にぶつかりそうになると角を曲がった。もう日は沈んでしまった。どうしてなんだ、と繰り返し低く呟きながら歩いていた。


山中に墜落したという情報もあったが、海から機体の破片が発見された。

何人かの遺体が見つかり、墜落事故は確定的になったが、多くの乗客の遺体は見つからなかった。当日からの暴風雨の影響で捜索が難航し、海に沈んだり、流されたりしたであろう遺体の捜索は中止になった。

美沙とはるかの兄と一緒に現地に飛んだが、何もすることはなかった。しばらく滞在し、いくつかの説明を聞き、お悔やみを聞き、事態の進捗を待ったが、何もはっきりはしなかった。

ステイ先の荷物をまとめ日本に送ることにしたが、家具のようなものはそこに置いてきた。するとダンボール数箱になってしまい、はるかがほとんど何も持っていなかったことに気づいた。

はるかの兄は美沙の慰め役だった。弘樹は遠くで彼らのことを眺めていた。

ここでは知り合いもいないし、周りの人に気を遣わなくても済んだ。そんなことすら考えなくてもよかったのだ。というより弘樹は愚鈍のように見えていたかもしれない。自分でも気づいていたが動作が遅かった。何かしようとしてから実際始めるまでの時間がひどく掛かった。それで初めて自分が呆然としていたことがわかるのだった。


日本に戻ってからも、立ち直らなくてはという気力が出てこなかった。

自分にその責任があるように感じていたのかもしれない。悔いが残っているのだ。はるかを不幸にして死なせてしまった、という思いが強く心に引っかかっていた。はるかを幸せにしてやれなかった。そんなことすら自分には出来ないのだ、という無力感や罪悪感だった。そしてもう取り返しがつかなくて、永久にはるかの笑顔を見ることができないんだ、と考えると胸をかきむしりたくなった

泣き出しそうになって、そんな時決まって自殺という言葉がよぎるのだ。それが飛び出そうになると、いけないいけない、と思う。そんなことを考えてはいけないのだと、怖くなって否定する。そのことの繰り返しだった。



帰国すると季節は逆転し、桜の便りが聞こえてきていた。


弘樹は暗い闇のような空間にいた。見えているのは深い影に沈んだ建物と、ぼんやりとした夜空だった。自動車はこちらには来ないようで、遠くでエンジン音が響いていた。時おり巨大なヘッドライトが身体を照らしていく。そうすると闇の中で並んでいた人々が無言でそのバスに乗り込んでいった。排気ガスのにおいが鼻を突いた。


自分の周りには人がいなくて、正しい位置に立っているかが不安になってくる。出発までもう15分くらいなのに、待っているのは弘樹だけだった。深夜バスというのがあることは知っていたが、それに乗るのは初めてだった。なぜこんなに照明が落とされているのか、よくわからないが停電しているのかと思えるほどだった案内所でチケット買って、乗車位置を告げられた。


そのとき、どやどやという感じで人があらわれ、彼の後ろに並んだ。するとそれを待っていたかのようにバスが現れて、目の前に停車する。

ひどく間が抜けたような音がして、ドアが開いた。

乗り込むと、くぐもった声で、たぶん乗車切符を示して箱に入れろと言っているのだと思ったが、運転手は首を振った。どうやら整理券をとれと言っているようだった。弘樹はひどくまごまごしてしまったが、だれも気にする人はいないようだった。中ほどまで進んで腰を下ろして前を見ていた。だれもが無言で、葬式の行列のようにしずしずと席に座った。十数人の乗客が乗り込むと一呼吸入れてドアが閉まった。それからテープと思われる女の人が案内を始めた。

横浜で一度停まり、そこから名古屋まではノンストップで走るというようなことを言っていた。なぜこのバスにしたかといえば、その時急に思い立ったからだった。家に帰るのが嫌になったのだ。ふらっとバスに乗ってどこかへ行ってみたかったのだった。

とにかく西へ行こうと思った。なんとなくそんな気がしただけだったのだけれど、それらしきバスに飛び乗ったということだった。


その日、彼は仕事をしばらく休むことを本社に報告に行ったのだった。当然仕事にならないだろうと判断をされたと思われた。それにタイミングも良かった。彼が担当した新店の開店も終わり、順調に動き出していたからだった。弘樹は榎田と一緒に飲んだ酒が利いていたのか、すぐ眠ってしまったようだった。

どこかに潜り込んでしまったようで、海面を目指すように手足をバタバタしながらもがいている夢の途中で目が覚めた。車は山の中を走っているようだった。窓から木々が見えていた。軽い寝息が聞こえる。人はそれほど多くはなさそうだった。

トイレに行って戻ってくると、闇の中の振動でまた眠ってしまった。

次に目を覚ました時はあたりはぼんやりと白んでいた。

6時過ぎに名古屋の駅に着いた。結局乗っていたのは弘樹と中年の男とあと二組の男女だけだった。弘樹はネクタイにジャケットという姿だったので、これを何とかしたかったが、いかんせん早すぎて店も開いていないので、駅の向かいのサウナに入ることにした。

犯罪者のような気もしたが、服をロッカーに詰め込んで、風呂に入った。

早朝にもかかわらず、十数人の人影が見えた。そのあと洗顔や歯磨きをして、さらに身体を洗いさっぱりしてからサウナに入った。少しぬるい感じでなかなか汗が出てこなかった。

三人、人がいて肥った男が唸っていた。

弘樹は目を閉じて、昨日のことを思い出した。榎田は心配してくれたのだと思う、仕事のことは構わないからゆっくり休めと言ってくれた。診断書を提出しても、有給にはならないから働けるようになったら連絡をくれればいいと言う。

振り出しに戻ったわけだった。少しの保証があるというだけだった。でもそれは弘樹にとっては気が楽なことだった。

つい余計なことを考えてしまう。今でも服をどうしようかということがなぜか気になっている。既成の安価な服や靴を買うつもりだった。そうしたら脱いだ服は捨てようか、それは少しもったいないような気もするし、と考えているのではなくて、そのことが気になるのだ。頭の隅に引っかかっている。

つまらない性格だな、と思う。自分で嫌になるが仕方がなかった。

ふっと気づくと、そのことを気にしている自分がいるのだ。

アパートにいつかは連絡しなくてはならない。冷蔵庫の電源は切らなくてよかったのだろうか、そんな細々としたことが思いつく。


サウナを出て、水風呂に入る。刺激的で固い感じがする水だった。長くは入っていられない。

椅子に腰かけて一息入れた。

何かをいつも気に病んでいるわけではない。気にしていないほうが多いはずだ。

「海保」は何かを食べた後は必ず歯を磨いていたのを急に思い出した。歯ブラシをケースに入れて持ち歩いていた。そんなに歯ばかり磨いていたら、歯がなくなっちゃうぞ、と揶揄されても気にしなかった。確かに歯医者が毎食後歯を磨いたほうがいい、と言っていたのは聞いたことがある。でも弘樹の知っている歯医者はヤニだらけで、あまり歯など磨いていないように見えた。「海保」はひどく衛生的だったし、そのことをすごく気にしていた。そうしないと落ち着かないようだった。授業の始まる前と終ってから歯を磨いているのを見たことがある。見かけたのがたまたまだったのか、磨いているのがたまたまなのかはわからなかったが、トイレの洗面所に駆け込んでいた。たまたま弘樹もトイレに入ったから気づいたことだった。

「海保」の顔を思い出すと、四角い黒縁のめがねばかりに目が行って、口の印象は薄かった。歯は小さくて、歯並びもいいとは言えなかった。白くはあったのだろうか、記憶も定かではない。福耳だったのは覚えている。きっとお金に困らないわね、と何かの時にはるかが言っていた。

ああ、はるか。

はるかのことは何でも好きだった。髪や目や指、女神のように感じていたのだろうか。他の人とは比較できないはるかそのものだった。はるかの姿を思い浮かべると、だいたい大学一年の時の食事の場面が多いのだけれど、今でも胸がときめく。

大切な人を失ってしまった。それにそれはもうすでに失っていたのだった、ということがさらに辛くのしかかってきた。明るい記憶を墨が流れるように黒く塗りこめていった。

またサウナに入った。だれもいなくて乾いた熱気が肌を刺す。目をつぶって頭の中を覗き込む。後ろのほうが新聞紙を丸めたように黒くなっている。中に重いものが入っているみたいだけどなんだかわからない。

そんなものなんだか知りたくもない。

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