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プロローグ:崩壊の序曲


【8時間前・上空】


「……あ、あう、あばばばば!」


突如、機内に響き渡ったのは、人間の理性が蒸発する音だった。


大統領専用ヘリコプターの操縦席。ベテランのはずのパイロットが、カニのように口から大量の泡を吹き、意味不明な奇声を上げながら操縦桿を滅茶苦茶に振り回している。


「おい! どうした!?」


後部座席のアメリス合衆国大統領、ジェームズ・アンダーソンは身を乗り出した。


眼下には、火の手が上がる大都市の惨状が広がっている。謎の「アーホウィルス」パンデミックにより、人類の知能指数は急激に低下、文明社会はわずか数日で崩壊した。


「ウッキィィィ! おっぱい! おっぱい!」


「貴様、正気に戻れ!」


パイロットは完全に発症していた。


機体は急降下を始める。重力が内臓を押し上げる感覚。隣で妻と、まだ幼い娘のエミリーが悲鳴を上げた。


大統領はシートベルトを外し、狂ったパイロットに飛びかかった。


「やめるんだ! 操縦桿を放せ!」


大統領はパイロットの顔面を拳で殴りつけた。一発、二発。


しかしパイロットはニタニタと笑いながら抵抗する。大統領は渾身の力で男を殴り倒し、ぐったりした体を座席から引き剥がした。


自ら操縦桿を握り、必死に機体を立て直そうとする。だが、地面はもう目の前に迫っていた。公園近くの森林、その木々が牙のように待ち構えている。


「くそっ、間に合わん……! 頭を下げろぉぉぉ!!」


衝撃。


轟音と共に世界が暗転した。


【墜落現場】


「あ……あぁぁぁ……」


意識が戻ると、世界は逆さまだった。


木の幹に引っかかり、半壊したヘリコプターから、大統領は這い出した。額から血が流れているが、四肢は動く。


「 エミリー!」


機内を覗き込む。


しかし、後部座席は引きちぎれ、そこに娘の姿はなかった。


「そんな……嘘だ……」


大統領はよろめきながら公園を出て、燃え盛る森や瓦礫の中を捜索した。名前を叫び続けた。だが、返ってくるのは風の音と、遠くで聞こえる感染者アーホたちの奇声だけだった。


絶望が、物理的な重さを持って肩にのしかかる。


彼は公園の焼け残ったベンチに座り込み、両手で顔を覆った。


その時だ。


砂利を踏みしめるタイヤの音と共に、黒塗りのリムジンが数台、滑り込んできた。


ドアが開き、武装したシークレットサービスたちが慌てて駆け寄ってくる。


「大統領! ご無事ですか!?」


「あぁ……私は、大丈夫だぁ……」


その声には覇気がなかった。


SPたちは彼の異様な様子に何かを察したが、プロとして余計な詮索はしなかった。ただ迅速に、彼を保護するだけだ。


「娘を……知らないか?」


リムジンに乗せられる直前、大統領は縋るように尋ねた。


SPは痛ましげに視線を逸らし、短く答えた。


「いえ……分かりません」


重厚なドアが閉まる。


リムジンは沈黙を乗せ、沖合に停泊する政府の最後の砦、大型船「アダム」へと走り出した。




【現在・大型船「アダム」会議室】


「離せ! 離せと言っているんだ!」


「大統領、駄目です! 今本土に戻れば、貴方まで感染してしまう!」


船内の大会議室は騒然としていた。


大統領ジェームズは、数人の側近に取り押さえられながら暴れていた。その目は血走り、涙で濡れている。


「娘がぁ……娘が生きているんだぞ! 私が行かなくてどうする!」


「生存反応らしきものは確認されましたが、罠の可能性もあります! 国家の象徴である貴方を失うわけにはいきません!」


側近の言葉に、大統領はその場で崩れ落ちた。


床を拳で叩く。無力感。世界最高権力者が、たった一人の娘も助けに行けない現実。


「誰か……誰か代わりに行ける者はいないのか! 最強の兵士を! 特殊部隊を送れ!」


「無理です。通常の兵士では、あの上陸した瞬間に知能が低下するウィルスの霧に耐えられません。必要なのは……」


側近の一人が眼鏡の位置を直し、意を決したように言った。


「常人離れした精神力を持ち、かつ、この狂った世界に適応できる『劇薬』のような男……」


「そんな奴がいるのか?」


「一人だけ。かつて教育界の異端児と呼ばれ、今は地下牢で謹慎中の男が」


【大型船「アダム」 独居房】


鉄格子の向こうで、その男は腕立て伏せをしていた。


指一本で。


「……9998、9999、10000。ん、客か?」


男の名はケン。


ボサボサの髪にジャージ姿。一見するとただの体育教師だが、その瞳には底知れぬ光と、どこか抜けた色が同居している。


人類を脅かすアーホウィルスが蔓延する中、彼だけは感染しても「元からバカだから変わらない」という特異体質を持っていた。そして何より、古の暗殺拳を独自にアレンジした『おバカ神拳』の使い手である。


「ケン先生。大統領からの特命だ」


SPが用件を伝える。


本土に単身乗り込み、行方不明の大統領令嬢を救出すること。成功率は限りなくゼロに近い自殺ミッションだ。


「断る」


ケンは即答し、小指で耳をほじった。


「俺は公務員だぞ。定時外労働はしない主義でね。それに外はアーホだらけだろ? 面倒くせぇ」


「……報酬は弾む。それに、君の過去の不祥事も帳消しにする」


「興味ないね」


SPたちは顔を見合わせた。交渉決裂かと思われたその時、ケンの脳裏に、先日無線越しに聞いた悪友の言葉が蘇った。


――『おいケン、知ってるか? 本土のどこかにある古本屋倉庫……あそこにとんでもないお宝が眠ってるらしいぞ』


――『お宝? 金塊か?』


――『バカ野郎、もっとすげぇ。伝説のプレミア・エロ本「桃色天国」の最終号だ。しかも未開封のな』


ケンは動きを止めた。


「桃色天国」。それは文明崩壊と共に失われた、人類の叡智エロの結晶。ネットが消滅した今、紙媒体のエロ本はダイヤモンドより価値がある。


(大統領の娘をさがしながら……ぐふふふふふ)


ケンは立ち上がり、ニヤリと笑った。その笑顔は、聖人のようであり、野獣のようでもあった。


「……待て。気が変わった」


ケンは鉄格子越しにSPの胸ぐらを掴み、真剣な眼差しで言った。


「その任務、引き受けよう。俺の教え子が迷子なら、迎えに行くのが教師ティーチャーの務めだからな」


(ついでにエロ本も回収する。絶対にだ!)


「ケン先生……! ありがとうございます!」


SPは感動に震えている。ケンの心の声など知る由もない。


【数時間後・本土上陸地点】


廃墟と化した港に、一人の男が降り立った。


背中には木刀。ポケットには「生徒指導」と書かれた腕章。そして胸には、燃え上がるような不純な動機。


ケンは荒廃した街を見渡し、叫んだ。


「待ってろよ、エミリーちゃん! ……そして、プレミア・エロ本!!」


世紀末ティーチャー・ケンの、愛と欲望の授業バトルが今、始まる。

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