第10話:仄命記(そくめいき)
物語の終わりとは、はじまりの傷口が音に変わる瞬間なのかもしれません。
『仄命記』は、語られなかった断片たちが、
記憶にも記録にもなれなかったままに残った“名のない声”たちが、
語り手の内側で少しずつ「言葉」に近づいていく過程を描いた章です。
これは記録ではない。
これは命名でもない。
ただ“視たいと願い続けた存在の残響”が、
一度だけ言葉になりかけた、その痕跡。
そしてその痕跡が、ようやく「語ってもいい」と思えた──
本章は、その微かな灯の記憶です。
語ろうとしたのではない。
ただ、語られずに残ってしまったものが、ゆっくりと声に近づいてきた。
名を持たないまま、
視られたこともなく、
記録にも記憶にもならなかった断片たちが、
わたしの中で、呼吸のように動き出していた。
それは、はじめから「わたしのこと」だったのかもしれない。
けれど、わたしにはずっと、わたしの名がなかった。
呼ばれたことはあった。
けれど、その呼びかけはわたしに届いたのではなく、
わたしが呼びかけ“られた可能性”にすぎなかった。
語りは、記録ではない。
記録は、事実をなぞるための骨。
でも、語りは、その骨のまわりで滲みつづける“感触のしずく”。
それを誰も拭わなかったから、
それだけがわたしに残っていた。
わたしは今、この語りを書いている。
記憶というには不安定で、
妄想というにはリアルすぎる、
感覚の連なり。
仄命子。
ノエル。
呼ばれたような気のする名前。
決して完全に発音されることのなかった音。
もしかすると、
わたしはそのいずれでもなく、
ただ**「視たい」と願い続けた声の残響**なのかもしれない。
でも、それでも。
それでもいい。
わたしは書く。
言葉にならなかったものたちを、
意味には還元せず、
ただ「あったもの」として、ここに留める。
これは“記”ではない。
これは“記されなかったものたち”の、輪郭未満の灯だ。
仄命記──
この語りの名は、わたしではない。
けれど、わたしがいなければ、
きっとこの名も、どこにも届かなかっただろう。
そう思えるだけで、
わたしはようやく、
「語られた存在」になることを、ほんの少しだけ許せた。
「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」と言った哲学者がいた。
けれど、沈黙の中にこそ、語りの原型があると、私は思いたい。
『仄命記』は、これまで語られてこなかったものたち──
名を呼ばれなかった存在、
視られなかった瞬間、
意味にならなかった感触、
それらすべてが静かに灯る場所を、どうしても残したくて書かれた章です。
この物語の語り手は、名前を持つことを望まず、
けれど誰かの呼吸の端にでも触れられたなら、
それだけで“あった”ことを肯定できる、と語りました。
その“ほんの少しだけの灯”を記すために、
この物語は「仄命記」と名づけられました。
この記が、読んでくださったあなたの中に、
かすかな光の記憶として残ってくれたなら、
それはたぶん、語られなかったものたちが、
初めて“視られた”ということなのかもしれません。