元寇について
≪元寇≫
元とは、中国本土と蒙古(モンゴル)を中心に広範囲の地域を支配した大帝国(1271年~1368年)のこと。
寇とは、侵略と言う意味。
つまり、元が日本を侵略する為に攻めて来たことを『元寇』と言う。
元は鎌倉時代(1185年~1336年)、当時属国であった高麗と共に、二度に亘り日本を攻めて来た。
二度の侵攻とは、1274年【文永の役】と1281年【弘安の役】のことである。
日本軍は、此の二度の侵攻を防いだ。
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1274年(文永11年)
【文永の役】
元は歴代王朝同様、『冊封体制(中国を中心として、他国を属国とすること)』をとった。
元は、日本も属国にしようと考えていた。
元々、元は日本に興味は無かった。
しかし、マルコ・ポーロ(『東方見聞録』作者)が日本を黄金の国『ジパング』と紹介してから興味を持ち始めたと言われている。
また当時、元は中国の南にあった南宋(1172年~1279年)を領土の一つとしたかった。
元は南宋の更に南に位置する日本を支配下において、日本に南宋を攻撃させて南宋の経済力と軍事力を削ぎ、南宋を元に取り込もうと考えていた。
1266年(文永3年)、元の『第五代皇帝』フビライ・ハンは表向きは国交を結ぶ為として日本に国書を送って来た。
しかし、日本は国書を無視した。
其の頃、日本は鎌倉幕府(1185年~1333年)が政権を握っていた。
鎌倉幕府には、南宋から渡来した人々により元の残虐性が伝えられていた。
日本は、元を警戒していた。
また鎌倉幕府は外交政策として南宋の人々から多くの情報を得ていたので、元と国交を結ぶわけにはいかなかった。
1268年、当時十八歳であった北条時宗が『執権(将軍補佐)』となった。
時宗は、禅宗の教えを深く信仰していた。
南宋から渡来してきた蘭渓道隆(臨済宗僧侶。建長寺を開山)は、元の脅威を時宗に伝えていた。
≪蘭渓道隆の言葉≫
『蒙古を軽視し、交渉を長引かせていたから、
宋は侵略された』
其の後も元は日本に国書を送ったが、日本は其れら全てを無視した。
最後の国書には、「返事がないから、攻撃する」と言うような内容が書かれていた。
※この間、趙良弼(元の使者)は
日本に滞在して日本について調べ、其の情報を元に伝えていた
と言われている。
元は自国の強さを日本に知らしめる為、日本への進撃を本格化した。
当時、元の属国であった高麗は食料や物資の提供、船の建造を元から命じられ、多くの高麗の人々が飢えて死んだと言われている。
また、高麗の人々は日本を攻める為の兵として徴兵された。
1274年(文永11年)10月、約2万5千人の元と高麗の兵が約900隻の軍船(高麗で建造)に乗って日本攻撃に向かった。
対して、日本軍の兵は約3千人だったと言われている(諸説あり)。
対馬と壱岐に上陸した元・高麗軍は、略奪・殺戮の限りを尽くした。
対馬には、元・高麗軍と戦い敗れた宗助国の『御首塚』や『御胴塚』が残っている。
壱岐には、元・高麗軍によって無差別に殺されたの人々を埋葬した『千人塚』がある。
其の後、元・高麗軍は息の浜(博多湾北部)に上陸。
此処で、日本軍と元・高麗軍の戦いが繰り広げられた。
両軍の戦い方には、違いがあった。
≪元・高麗軍≫
・銅鑼を敲いて、一人に対して集団で襲う
・てっはう(鉄砲と呼ばれる手榴弾)、
短弓(射程距離は短いが、速射性に優れていた)、
毒矢の使用
≪日本軍≫
・鏑矢(戦闘開始を合図する矢)を放ってから、
名乗りを上げて戦う
・馬と刀
・一対一の戦法(竹崎季長の姿が描かれた
『蒙古襲来絵詞』が有名)
・倒した相手の首を取る(取った首の数だけ恩賞が
貰えたが、首を斬っている間に攻撃されて
多くの者が命を落とした)
軍事力に関しては、元・高麗軍の方が有利であった。
しかし、元・高麗軍は約一か月で撤退した。
〚元・高麗軍の撤退理由〛
①元・高麗軍の食料不足(但し、食料は十分であった
と言う説もある)
②元・高麗軍から無理やり連れて来られた人もいて、
全体的に士気が低かった
(取った首の分だけ恩賞が貰えると考えていた
日本軍ほどの士気はなかった)
③元・高麗軍にとって長期戦は不利であった
④日本に元の力を見せつける為の戦いであったから、
元は目的を果たしたと考えた
など、撤退理由は様々あるようだが、最大の勝因は日本軍が良く戦ったことにあるだろう。
しかし此の戦いにより、博多は壊滅状態となった。
そして此の時、命懸けで戦った御家人に対しての恩賞が十分でなかった為、鎌倉幕府に対して不信感を抱いた御家人達が多くいたと言われている。
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1281年(弘安4年)
【弘安の役】
元は再び日本と国交を結ぼうと、日本に五人の使者を派遣。
北条時宗は【文永の役】の恨みもあり、五人を処刑した。
使者を処刑するなど、本来あってはならないことである。
しかし、北条時宗は使者を斬った。
何故か?
北条時宗は、無学祖元(臨済宗僧侶。円覚寺を開山)や大休正念(臨済宗僧侶、浄智寺を開山)から助言を受けた。
≪無学祖元の言葉≫
『幕煩悩』
(煩悩に囚われてはいけない)
『驀直去』
(憂いや迷いを断ち、覚悟を決めて
困難に立ち向かい、信じることの為に
突き進むべき)
≪大休正念の言葉≫
『巨大な悪を打ち払い、国家の安寧を図れ』
元は、日本の対応に激怒した。
元・高麗軍は、日本侵攻を進める。
元は、支配下となった南宋(1279年に南宋は元に敗け、支配された)に軍船を建造させた。
1281年6月、東路軍として軍船900隻に約4万人、江南軍として軍船3,500隻に約10万人(江南軍のほとんどは、南宋の人だったと言われている)、元・高麗軍合わせて約14万人を乗せ、二手に分かれて日本攻撃に向かった。
対して日本軍は、約3万人(諸説あり)。
北条時宗は来る戦闘に備え、『異国警固番役』として九州や関東から呼んだ御家人達に博多湾などを警固させた。
また、博多の海岸線に高さ2メートル以上の防塁(『蒙古防塁』と言われている)を築かせ、武士など多くの人々を配備した。
海を渡って先ず東路軍が対馬や壱岐を占領し、其の後、志賀島(福岡県)に上陸。
6月末に、江南軍は遅れて到着。
東路軍と江南軍が肥前(長崎県・佐賀県)の鷹島で合流して日本に上陸しようとした時、嵐が来た。
此の時の嵐は、【神風】と呼ばれている。
『八幡愚童訓』『高麗史』には、此の時の嵐で多くの人が溺死したと書かれている。
※但し、この時の嵐は大したことは無かったという説もある。
元・高麗軍は撤退。
しかし、元・高麗軍に置き去りにされた兵達が多数いた。
日本軍は彼らを生け捕り、次々と首をはねた。
博多には、『蒙古塚』『首塚』と呼ばれる場所が今でもある。
〚日本軍が勝利した理由〛
①南宋から渡来した人々から多くの情報を得ていた
②元・高麗軍の統制が取れていなかった
③日本軍は元・高麗軍の集団戦法を前の戦いで知り、
戦い方を変えた
④北九州の海岸線に防塁を築いて準備していた
⑤元・高麗軍の上陸を出来るだけ防ぎ、
海上から攻撃した(元・高麗軍の集団戦法を
封じた)
⑥長弓を使用して射程距離を伸ばした
⑦夜襲をかけた(夜、元・高麗軍の軍船に小舟で
向かって乗り込み、軍船の中で寝ていた元軍の首を
斬って軍船に火をつけた
⑧〖神風〗が吹いた
撤退後、元は再び日本を攻撃しようと考えたが、国内の民衆による抵抗やベトナム遠征により、第三回日本襲撃は実現しなかった。
其の時は。
【弘安の役】後も【文永の役】の時と同様、御家人に対する恩賞は不十分であった。
其の為、御家人達は幕府への不満を募らせ、其れが鎌倉幕府滅亡の一つの理由となった。
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日本軍が二度の元・高麗軍の侵攻を防ぐことが出来たのは、〖神風〗と呼ばれる嵐の力もあったかもしれない。
しかし何よりも、日本の人々が協力して元・高麗軍に立ち向かったから勝利できたのである。
日本に災厄がある時、〖神風〗が吹くと言われている。
〖神〗は、もしかしたら〖神風〗を起こしてくれるかもしれない。
しかし、何もしない人間に〖神〗は手を差し伸べない。
人間が協力して、人間が〖神風〗に匹敵する〖風〗を起こさなければならない。
日本と善良なる人々を守る為の青く、碧い風を。
過去と今と未来を守ることが出来るのは、今を生きる私達と未来を生きる人達だけである。