表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

元寇について

元寇(げんこう)


(げん)とは、中国本土と蒙古(もうこ)(モンゴル)を中心に広範囲の地域を支配した大帝国(1271年~1368年)のこと。

(こう)とは、侵略(しんりゃく)と言う意味。

つまり、(げん)が日本を侵略する為に攻めて来たことを『元寇(げんこう)』と言う。


(げん)鎌倉(かまくら)時代(1185年~1336年)、当時属国(ぞっこく)であった高麗(こうらい)と共に、二度に(わた)り日本を攻めて来た。


二度の侵攻(しんこう)とは、1274年【文永(ぶんえい)(えき)】と1281年【弘安(こうあん)(えき)】のことである。

日本軍は、此の二度の侵攻を防いだ。



挿絵(By みてみん)


_____________________________________



1274年(文永11年)


文永(ぶんえい)(えき)


(げん)は歴代王朝同様、『冊封体制(さくほうたいせい)(中国を中心として、他国を属国とすること)』をとった。

(げん)は、日本も属国にしようと考えていた。

元々、(げん)は日本に興味は無かった。

しかし、マルコ・ポーロ(『東方見聞録(とうほうけんぶんろく)』作者)が日本を黄金(おうごん)の国『ジパング』と紹介してから興味を持ち始めたと言われている。

また当時、(げん)は中国の南にあった南宋(なんそう)(1172年~1279年)を領土の一つとしたかった。

(げん)は南宋の更に南に位置する日本を支配下において、日本に南宋を攻撃させて南宋の経済力と軍事力を()ぎ、南宋を(げん)に取り込もうと考えていた。


1266年(文永3年)、(げん)の『第五代皇帝』フビライ・ハンは表向きは国交(こっこう)を結ぶ為として日本に国書を送って来た。

しかし、日本は国書を無視した。


其の頃、日本は鎌倉幕府(かまくらばくふ)(1185年~1333年)が政権(せいけん)(にぎ)っていた。


鎌倉幕府には、南宋から渡来(とらい)した人々により(げん)残虐性(ざんぎゃくせい)が伝えられていた。


日本は、(げん)警戒(けいかい)していた。

また鎌倉幕府は外交政策として南宋の人々から多くの情報を得ていたので、(げん)と国交を結ぶわけにはいかなかった。


1268年、当時十八歳であった北条時宗(ほうじょうときむね)が『執権(しっけん)(将軍補佐)』となった。

時宗は、禅宗(ぜんしゅう)の教えを深く信仰していた。

南宋から渡来してきた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)臨済宗(りんざいしゅう)僧侶。建長寺(けんちょうじ)開山(かいさん))は、(げん)の脅威を時宗に伝えていた。



≪蘭渓道隆の言葉≫


『蒙古を軽視(けいし)し、交渉を長引かせていたから、

 宋は侵略された』



其の後も(げん)は日本に国書を送ったが、日本は其れら全てを無視した。

最後の国書には、「返事がないから、攻撃する」と言うような内容が書かれていた。

※この間、趙良弼(ちょうりょうひつ)(げん)の使者)は

 日本に滞在して日本について調べ、其の情報を(げん)に伝えていた

 と言われている。


(げん)は自国の強さを日本に知らしめる為、日本への進撃(しんげき)を本格化した。

当時、(げん)の属国であった高麗は食料や物資の提供、船の建造(けんぞう)(げん)から命じられ、多くの高麗の人々が飢えて死んだと言われている。

また、高麗の人々は日本を攻める為の兵として徴兵(ちょうへい)された。


1274年(文永11年)10月、約2万5千人の(げん)と高麗の兵が約900(せき)の軍船(高麗で建造)に乗って日本攻撃に向かった。

対して、日本軍の兵は約3千人だったと言われている(諸説あり)。


対馬(つしま)壱岐(いき)に上陸した(げん)・高麗軍は、略奪(りゃくだつ)殺戮(さつりく)の限りを尽くした。

対馬には、(げん)・高麗軍と戦い(やぶ)れた宗助国(そうすけくに)の『御首塚(おくびづか)』や『御胴塚(おどうづか)』が残っている。

壱岐には、(げん)・高麗軍によって無差別(むさべつ)に殺されたの人々を埋葬した『千人塚(せんにんづか)』がある。

其の後、(げん)・高麗軍は(おき)の浜(博多湾北部)に上陸。

此処で、日本軍と(げん)・高麗軍の戦いが繰り広げられた。



挿絵(By みてみん)



両軍の戦い方には、違いがあった。


(げん)・高麗軍≫

銅鑼(どら)(たた)いて、一人に対して集団で襲う

・てっはう(鉄砲と呼ばれる手榴弾(しゅりゅうだん))、

 短弓(たんきゅう)(射程距離は短いが、速射性(そくしゃせい)に優れていた)、

 毒矢の使用


≪日本軍≫

鏑矢(かぶらや)(戦闘開始を合図する矢)を放ってから、

 名乗りを上げて戦う

・馬と刀

・一対一の戦法(竹崎季長(たけざきすえなが)の姿が描かれた

蒙古襲来絵詞もうこしゅうらいえことば』が有名)

・倒した相手の首を取る(取った首の数だけ恩賞(おんしょう)

 (もら)えたが、首を斬っている間に攻撃されて

 多くの者が命を落とした)


軍事力に関しては、(げん)・高麗軍の方が有利であった。

しかし、(げん)・高麗軍は約一か月で撤退した。


(げん)・高麗軍の撤退理由〛


(げん)・高麗軍の食料不足(但し、食料は十分であった

 と言う説もある)

(げん)・高麗軍から無理やり連れて来られた人もいて、

 全体的に士気(しき)が低かった

 (取った首の分だけ恩賞が貰えると考えていた

  日本軍ほどの士気はなかった)

(げん)・高麗軍にとって長期戦は不利であった

④日本に(げん)の力を見せつける為の戦いであったから、

 (げん)は目的を果たしたと考えた


など、撤退理由は様々あるようだが、最大の勝因は日本軍が良く戦ったことにあるだろう。

しかし此の戦いにより、博多は壊滅(かいめつ)状態となった。

そして此の時、命懸(いのちが)けで戦った御家人に対しての恩賞が十分でなかった為、鎌倉幕府に対して不信感を抱いた御家人達が多くいたと言われている。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


1281年(弘安4年) 


弘安(こうあん)(えき)


(げん)は再び日本と国交を結ぼうと、日本に五人の使者を派遣。

北条時宗は【文永の役】の恨みもあり、五人を処刑した。

使者を処刑するなど、本来あってはならないことである。

しかし、北条時宗は使者を斬った。

何故か?


北条時宗は、無学祖元(むがくそげん)臨済宗(りんざいしゅう)僧侶。円覚寺(えんがくじ)を開山)や大休正念(だいきゅうしょうねん)臨済宗(りんざいしゅう)僧侶、浄智寺(じょうちじ)を開山)から助言を受けた。



≪無学祖元の言葉≫


幕煩悩(まくぼんのう)

(煩悩に囚われてはいけない)


驀直去(まくじきこ)

(うれ)いや迷いを()ち、覚悟を決めて

 困難に立ち向かい、信じることの為に

 突き進むべき)



≪大休正念の言葉≫


『巨大な悪を打ち払い、国家の安寧(あんねい)を図れ』



(げん)は、日本の対応に激怒(げきど)した。


(げん)・高麗軍は、日本侵攻を進める。

(げん)は、支配下となった南宋(1279年に南宋は(げん)に敗け、支配された)に軍船を建造させた。


1281年6月、東路(とうろ)軍として軍船900隻に約4万人、江南(こうなん)軍として軍船3,500隻に約10万人(江南軍のほとんどは、南宋の人だったと言われている)、(げん)・高麗軍合わせて約14万人を乗せ、二手に分かれて日本攻撃に向かった。

対して日本軍は、約3万人(諸説あり)。

北条時宗は(きた)る戦闘に備え、『異国警固番役(いこくけいごばんやく)』として九州や関東から呼んだ御家人達に博多湾などを警固させた。

また、博多の海岸線に高さ2メートル以上の防塁(『蒙古防塁』と言われている)を築かせ、武士など多くの人々を配備した。


海を渡って先ず東路軍が対馬や壱岐を占領し、其の後、志賀島(しかのしま)(福岡県)に上陸。


6月末に、江南軍は遅れて到着。

東路軍と江南軍が肥前(ひぜん)(長崎県・佐賀県)の鷹島(たかしま)で合流して日本に上陸しようとした時、嵐が来た。

此の時の嵐は、【神風】と呼ばれている。

八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)』『高麗史(こうらいし)』には、此の時の嵐で多くの人が溺死したと書かれている。

※但し、この時の嵐は大したことは無かったという説もある。



挿絵(By みてみん)



(げん)・高麗軍は撤退。

しかし、(げん)・高麗軍に置き去りにされた兵達が多数いた。

日本軍は彼らを生け捕り、次々と首をはねた。

博多には、『蒙古塚』『首塚』と呼ばれる場所が今でもある。


〚日本軍が勝利した理由〛


①南宋から渡来した人々から多くの情報を得ていた

(げん)・高麗軍の統制が取れていなかった

③日本軍は(げん)・高麗軍の集団戦法を(さき)の戦いで知り、

 戦い方を変えた

④北九州の海岸線に防塁を築いて準備していた

(げん)・高麗軍の上陸を出来るだけ防ぎ、

 海上から攻撃した((げん)・高麗軍の集団戦法を

 封じた)

⑥長弓を使用して射程距離を伸ばした

⑦夜襲をかけた(夜、(げん)・高麗軍の軍船に小舟で

 向かって乗り込み、軍船の中で寝ていた(げん)軍の首を

 斬って軍船に火をつけた

⑧〖神風〗が吹いた


撤退後、(げん)は再び日本を攻撃しようと考えたが、国内の民衆による抵抗やベトナム遠征により、第三回日本襲撃は実現しなかった。

其の時は。


【弘安の役】後も【文永の役】の時と同様、御家人に対する恩賞は不十分であった。

其の為、御家人達は幕府への不満を(つの)らせ、其れが鎌倉幕府滅亡の一つの理由となった。


_____________________________________



日本軍が二度の(げん)・高麗軍の侵攻を防ぐことが出来たのは、〖神風〗と呼ばれる嵐の力もあったかもしれない。

しかし何よりも、日本の人々が協力して(げん)・高麗軍に立ち向かったから勝利できたのである。


日本に災厄(さいやく)がある時、〖神風〗が吹くと言われている。


〖神〗は、もしかしたら〖神風〗を起こしてくれるかもしれない。

しかし、何もしない人間に〖神〗は手を差し伸べない。

人間が協力して、人間が〖神風〗に匹敵する〖風〗を起こさなければならない。

日本と善良なる人々を守る為の青く、(あお)い風を。


過去と今と未来を守ることが出来るのは、今を生きる私達と未来を生きる人達だけである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ