第3話 通勤電車
腕時計型の携帯端末を自動改札にかざして武蔵浦和駅の構内に入った。
埼京線のほか武蔵野線も乗り入れているため、周囲が水上マンションという貧困地域であるにもかからわず乗降客が多く、駅中には飲食店やドラッグストアがひしめいている。
ホームに向かうエスカレーターも利用者が多く、心のつぶやきが勝手に頭の中に入ってきて、うるさくて仕方がない。
『暑いなあ』
『約束の時間に間に合うかしら』
『あのおっさん、鼻毛の手入れしないのか?』
『ちくしょう、むかつく。あの野郎、今度会ったらぶっ殺してやる』
『昼飯、何喰おうかなぁ』
武蔵浦和駅の埼京線ホームから見る景色は、ある意味美しかった。
隣に、東北、上越、北陸、長野という四つの新幹線が走る線路が並び、時折、青緑や淡いピンクに塗装されたアヒルのような顔の高速車両が猛スピードで通過していく。
眼下は見渡す限りの海で、そこから二〇~三〇階建てのマンションが、何本もニョキニョキ生えていた。その間を黒いゴムボートが白い波しぶきを上げながら行き来している。
埼玉県が、かつて『海なし県』と呼ばれていたことなど嘘のようだ。
草加市、八潮市、川口市、越谷市と呼ばれていた埼玉県の南東部の行政エリアは軒並み水没し、さいたま市や川越市の一部も今や海の下になっている。東京の、江東区、江戸川区、墨田区、足立区などいわゆる下町と呼ばれていたエリアも同様だ。丁度、荒川や利根川沿いのかつての沖積平野が、すべて海になった形になっている。
千葉県はかろうじて埼玉の一部と陸続きだったが、あと何メートルか海面が上昇すれば完全に島になってしまうらしい。無事なのは山手線から西のエリアだ。山手線は今のところ何とか水没を免れている。
やがて、埼京線の上り電車がホームに入ってきた。
俺はグリーンのラインがひかれた銀色の車両に乗り込む。電車の中は、満員というほどではなかったが、座れるほど空いてもいなかった。
『けっ、温暖化難民かよ。うぜえな』
『きれいな娘だな。どこに行くんだろう』
『よっしゃあ、アイテムゲットだぜ』
『腰が、いてえ』
当然、車両の中も雑多な心の声で満ちていた。
俺は、うんざりしながら扉の上部に設置された映像モニターに目を向けた。スポーツニュースをやっている。携帯端末をリンクさせ、音声が聞こえるようにした。こうすると、だいぶ心の声の雑音も紛れるのだ。俺は特に興味のないスポーツニュースに耳を預けながら、ドア横に立って、ぼんやり外を眺めていた。
海面に太陽の光が反射してキラキラ輝いている。時折、波の間から、高速道路やマンションの一部、工場の屋根などが顔を覗かせていた。
政府は親父たちを動員して浦賀水道に海水の侵入を防ぐための堰を作ろうとしているが、効果はあるのだろうか。せっかく完成しても、さらに海面が上昇する可能性だってある。
結局、今、地球を覆っている二酸化炭素を何とかしないとどうしようもないのだ。人類の英知をもってすれば炭素と酸素の化合物など、どうとでもできそうだが、何とかしなければならない二酸化炭素の質量が毎年何十億トンというとてつもない規模なので難しいらしい。
世界的には、サハラ砂漠、ゴビ砂漠、アリゾナ砂漠などを緑化して、光合成で二酸化炭素を処理するプロジェクトも進行中だが、いまだに十分な効果は上がっていなかった。
それどころか、温暖化によって、それまで海に溶けていた二酸化炭素やロシアの永久凍土に閉じ込められていたメタンガスなどが大気中に放出され、それがさらに温暖化を加速するという悪循環が続いている。
俺が心の中で大きなため息をついたころ、電車は東京都に入った。そして、進行方向右側、方角にして西側が陸地になった。左側は依然として海のままだ。
埼京線で池袋まで行き、そこで山手線に乗り換えて上野駅に着いた。
駅の西側に海は見えないが、東側は少し離れたところに海面が光って見える。俺の目的地は西側だ。
山手線に乗ってからというもの、あまりにも人が多すぎて、心の声が頭の中に幾重にも反響して気分が悪かった。やっぱり都会には来ない方がよかったかなと少し後悔する。
しかし、改札を出たところに設置されているデジタルサイネージには、俺がわざわざ上野でバイトする動機が表示されていた。
国立東京博物館、企画展『古事記の世界』、八月九日から、などという文字が踊り、出来の悪いフライの衣のような錆に覆われた三又の鉾が、ゆっくりと画面を横切っている。眼鏡の拡張現実に、特別展示『天逆鉾』などという追加説明が表示されていた。
画面を横切った『天逆鉾』は夢に出てきた三又の鉾にそっくりだった。俺はこれが気になって、わざわざ国立東京博物館のバイトに応募したのだ。
時刻を確認すると、朝九時四十五分。博物館までは歩いて一〇分くらいかかる。俺は肩にかけたトートバックを身体に押し付けると、キョロキョロしながら小走りに駆け出した。
「あ~、ちょっといいかな」
『こいつ、俺たちを見て走り出したな』
駅構内を出た途端、メタルフレームの眼鏡をかけた二人の警察官が俺の進路を遮った。
眼鏡の拡張現実は『警視庁 警察官』と二人が本物であることを表示していた。
「すみません、急いでいるんですが」
『別にあんたらを見て走り出したわけじゃない。自意識過剰だろ』
「いや、お手間は取らせません。すぐ終わりますから」
『怪しい野郎だ。不法入国の外国人じゃねえの?』
『刃物とか持ってたら、即、逮捕だな』
二人とも桜の代紋をつけた顔の分かるヘルメットに、防弾、防刃機能を有する黒いつなぎの服を着ていた。暑いのにご苦労なことだ。
一人は角ばった顔で目の細い三〇代くらいの大柄の男性、もう一人は痩せて目のギョロギョロした二〇代くらいの若い男性だった。俺に話しかけてきたのは年長の大柄の方だ。
一瞬、無視して通り過ぎようとしたが諦めた。二人がかりで巧妙に進路をふさいでいるし、是が非でも職務質問をしてやろうという気に満ち溢れていた。
最近は銃を使用した凶悪犯罪が増えたこともあって警官の重武装化が進んでおり、しかも、武力の行使に躊躇がなくなっている。下手に逆らって、もみ合いにでもなったら厄介だ。素早く視線を走らせて彼らの装備を確認すると、内部にスタンガンを仕込んだ電磁警棒と、連射能力を有するごつい自動拳銃が腰に下がっていた。
「で、どうしますか?」
俺は警官を振り切るのをあきらめ、ムスッとしながら警官たちに目を向けた。
『この野郎、生意気な態度だな』
こういう時、心の声が聞こえると本当にイラっとする。消極的とはいえ協力する意思表示をしているのに何様なんだろう。
「荷物の中身を確認させてもらえますか?」
腹の中とは違って、さすがに表面上、発言は丁寧だった。
俺は黙って、合皮製のトートバッグのチャックを開け、二人の前に開いて見せた。二人は俺に注意を払いながら、交代でバッグの中を覗き込む。
バックの中身は、汗拭き用の水色のスポーツタオル、着替えの白いTシャツ、扇子、ポケットティッシュだ。
『盗品じゃないようだな』
『刃物とか入ってないのかよ、つまんねーな』
一体、俺のどこがどう犯罪者に見えるというのだろう。無性に腹が立った。
「もう、いいですか?」
「お手数かけました。御協力ありがとうございます」
相変わらず、表面上は丁寧だったが腹の中は酷かった。
『ちっ、取り締まりの点数は稼げなかったな』
『今日の職質のノルマ達成まで、あと五件か』
携帯端末を確認すると、時刻は九時五十三分。俺は眼鏡に地図情報を投影し、国立東京博物館に向かって駆けだした。