第1話 珊瑚島リク
「これより、剛法乱捕を行う。最初の組は珊瑚島と国分寺。前へ」
「はい!」
透明なポリカーボネートとクッション材で作られた頭部をガードするための防具、指が出る小さめのグローブ、胸部から金的までをカバーする剣道の胴のような防具に身を包んで、俺は立ち上がった。
防具の下に着ているのは、柔道着よりも薄く、空手着よりも厚い仕立ての少林寺拳法の道着だ。汗を吸い込んでいるため少し重たい。帯は茶色で「珊瑚島リク」と俺の名が刺繍してあった。
『今日こそ、ぶちのめしてやる!』
目の前の国分寺の目が、そう言っていた。
色白で筋肉質、背は俺よりも少し高い。幅広の肩をゆすり、ウォーミングアップのつもりか、軽く飛び跳ねている。
うちの部の人数は十八人だが、こんなことを考えながら乱捕をやっている奴はこいつくらいのものだ。俺は内心うんざりしながら、自分の立ち位置を今一度確認した。知らないうちに壁際に追い詰められたりしたらシャレにならない。
床は見渡す限り板張り、左手の壁一面は鏡張りで、ここからの距離はだいたい四メートル、右手奥はウェイトトレーニング用のマシーンが設置してあるエリアで、その手前に防具をつけた部員たちが胡坐をかいて一列に並んでいる。マシーンに激突しないようにという配慮もかねての人間の壁だ。ここからの距離はやはり四メートルくらいだろうか。
試合場ではないので、フィールドを区切るラインはひいていないが、実質、八メートル四方の空間がバトルフィールドになるわけだ。
うちの高校は、柔道部、剣道部、空手部には大昔に建てた武道場を練習場所に割り当てていたが、俺たち少林寺拳法部の練習場所は新興クラブということもあって体育館の二階で、ダンス部と日替わりで使用することになっていた。武道専用のスペースではないので、壁や床に安全対策を施しているわけではなく、練習するにあたってはいろいろ注意が必要だ。
俺と国分寺が準備を整えると、審判役の小柄な三年の先輩が俺たちの間に立ち、開始位置に移動するように手招きした。俺たちは、ギリギリ手の届かない間合いで立つと、姿勢を正す。
「お互いに礼」
目元が涼しい小柄な先輩の合図で、顔の前で両手を合わせた。
視線は相手に向けたまま、頭を下げたりせず正面を見据える。
「はじめ!」
『上段!』
開始早々、国分寺の長い脚が跳ね上がり、右上段回し蹴りが唸りを上げた。
俺は左足を引き、重心を後ろにずらす。目の前を薄汚れた足の裏が通過した。
『裏拳、中段!』
国分寺は蹴り足が着地する勢いを使って、一気に間合いを詰めてきた。
そのまま、俺の顔面に右の裏拳を叩き込もうとする。
俺は右腕を跳ね上げて、これを迎撃し、直後、鳩尾を狙う左の拳を右腕で打ち払う。
『くっそ!』
国分寺は連撃をかわされ、焦燥に駆られた。
そのスキをついて、俺は左足で床を蹴り、間合いを詰める。
そして、相手の脇腹肋骨の下あたりに中段突きを叩き込んだ。
胴が乾いた音を響かせる。
「勝負あり!」
先輩の澄んだ声が響き、俺は連続攻撃で相手をたたみかけることなく、素早く後退した。
「くっ!」
闘気をむき出しにして、なおも俺に詰め寄ろうとする国分寺を小柄な先輩は片手で制した。
『往生際の悪い野郎だな』
「交代だ、互いに礼!」
俺は構えを解き、合掌する。国分寺も渋々の体で俺に倣った。
『畜生、ムカつく! くいつめもんの移民の子のくせに生意気だ』
俺に中段突きを決められた国分寺は、みんなの列に戻りながら、武術の腕前とは全く無縁のことを持ち出して、心の中で俺を罵っていた。
『しかし、相変わらず、勘のいい一年だな。相手の攻撃が読めてるのか?』
着座した俺に、小柄な先輩は興味深そうな視線を向けていた。
そう、俺は相手の心が読めた。
相手の視線や身体の動きで攻撃が予想できるというレベルではない。
細かい心の機微や複雑な思考を読み取るのは難しいが、言語化された思考は言葉になって聞こえたし、強い想いは表情に出さなくても感じ取ることができた。
小さい頃は、この程度はみんなが持っている能力だと思っていた。
相手の顔色を読むことは他の人間だってやっているからだ。俺の能力は、それをグレードアップしたようなものだ。
しかし、小学校の低学年くらいの時に、この能力は普通の人間にはないことに気がついた。と同時に他人に知られるとまずい能力だということもわかった。
誰でも心の秘密を他人には知られたくはないだろう。だから、俺は親にも友達にも、この能力のことは明かしていない。
格闘技をやるうえで、心が読める能力は大きな武器だった。同じ時期に少林寺拳法を始めた同級生に後れを取ったことは、今のところ、ない。
しかし、黒帯の上級生が相手となると話は別だ。多少動きが予測できてもスピードとパワーについていけないので、先日、この小柄な先輩と乱捕をしたときは一方的に攻め立てられた。
「次、氷川と鹿島」
俺と国分寺の組と入れ替えで次の一年生の組が呼ばれた。ポニーテールの女子とベリーショートの女子だ。
「はい!」
二人とも声をそろえて礼儀正しく、前向きな態度を示していたが、腹の中は、まるで違う。
『はぁ、乱捕は嫌だな。ケガしないようにしなくちゃ』
『国分寺、だっせぇ。下層民のリクなんかに瞬殺かよ』
練習にやる気を見せないベリーショートの鹿島に対し、ポニーテールの氷川の方は、俺に悪感情を向けてきた。
俺は心の中に嫌な気分を抱えながら、頭に被っていたポリカーボネート製の防具を脱いだ。
蒸し風呂のような空気から解放され、熱くなっていた頬の温度が一気に下がる。
大きく深呼吸して正面を見ると、数メートル向こう側の鏡に自分の姿が見えた。
汗にまみれた肌は浅黒く、濡れた黒髪は波打っている。純粋な日本人の顔じゃなく東南アジアや南太平洋によくいるタイプの顔だ。
自分的には、草食動物のような優しい目をした、甘いマスクのイケメンだと思っていたが、残念なことにクラブの女子はそう思っていないらしい。貧乏な下層民。抱いているのはそんな印象だ。
俺の父親は今は海面下に沈んでしまった南太平洋の島国の出身だった。政治難民の受け入れには渋い日本国政府も、政治紛争に巻き込まれる恐れがない温暖化難民の受け入れには積極的だった。父親たちは安価な労働力として受け入れられ、少子化の影響で労働力の足りない業界へと誘導された。だから、経済的に恵まれていないというのは事実だ。
幼い頃から家が貧しいという理由で蔑まれてきた俺は、舐められないようにするために強くなりたかった。
新入生へ向けたクラブ紹介で華麗な組演武を見た俺は、アクション映画のワンシーンを切り取ったような素早い突き蹴りと派手な投げ技に魅了され、このクラブへの入部を決めた。
しかし、入部して四か月たっても大した種類の技は使えなかった。そして、いくつか教わった技も実戦で使いこなせるレベルとは言い難い。来年の四月には先輩たちのような華麗な組演武ができるようになっているのか、自分自身に疑念を抱いている今日この頃だ。
「一学期の練習は本日で終わるが、各自、鍛錬に励むように。次に会うのは八月末の合宿だ」
練習が終わり、制服に着替えて体育館の入り口前に集合した部員たちに、金縁のスクエア型眼鏡をかけた目つきが鋭く背の高い『主将』が、ミーティングの最後を締めくくった。
日はすでに大きく西に傾いていたが、日差しは強烈で、半そでの白いワイシャツから露出している顔や腕は焼けるようだった。黒い制服のズボンは太陽光を吸収してとても熱い。
だから早めに終わったミーティングに俺たちはホッとし、いつも以上に返事に張りがあった。
「はい!」
『やったぁ、夏休みだぜ』
『夏といえば、ナンパだな。練習なんか絶対にしねぇ』
『やだなぁ、合宿』
統制の取れた返事とは裏腹な、雑多な心の声が俺の頭の中に入ってきた。何の役にも立たない無駄な情報の洪水だ。
俺は心を読めることが便利だと感じたことはあまりない。頭の中が騒がしいし、知らなければ気にしないですむ俺に対する悪感情も容赦なく、知らされてしまうからだ。
「では、解散」
「ありがとうございました!」
『統制』を務める金属フレームのロイド型眼鏡をかけた目元の涼しい小柄な先輩の合図で、俺たちは全員合掌した。
校門への道は桜並木になっていて、この季節は緑の葉が生い茂り、木陰を作ってくれているのがありがたい。
遠くから吹奏楽部が練習する金管楽器の音が聞こえてきた。
「これから、みんなで『武蔵坊ラーメン』でも食いに行こうぜ」
銀縁のスクエア型眼鏡をかけたスポーツ刈りの岩月が、みんなに声をかけた。
岩月はリーダーシップをとるのが好きな男だが、穏やかで嫌味がなく、ほとんど裏と表がなかった。
「いくいく」
『んで、岩月君の隣に座る』
白いブラウスに黒いスカートという高校の制服を身に着けたベリーショートの鹿島が、真っ先に元気よく岩月の隣に駆け寄った。金属フレームのロイド型眼鏡の奥に、岩月のためだけに愛想の良い笑顔を浮かべ、肉感的なボディを岩月の肘のあたりに摺り寄せる。
心を読まなくてもわかるくらい、彼女は岩月にご執心だった。練習が嫌いなのに部活に参加しているのは、ひとえに彼に近づきたいからだ。
ちなみに俺や国分寺は、路傍の石と同じ位置づけだ。
しかし、強烈な想いを岩月に向けているにもかかわらず、岩月の方は、鹿島の気持ちに全く気付いていなかった。とぼけていたり、気づかないふりをしているわけではない。残念なくらい鈍いのだ。
普段の彼の頭の中は、少林寺拳法の技術の向上と自分が将来クラブの『主将』になって理想のクラブにすることしか考えていない。
ちなみに、相手の攻撃をかわすことについては、相手の心を読める俺の方が一枚上手だが、突き蹴りのスピードやフォームの美しさは、彼の方が俺なんかよりもずっと上だ。
「鹿島が行くんなら、オレも行くか」
『鹿島の奴、岩月にべったりだな』
フレームレスの眼鏡をかけたポニーテールの氷川が、男言葉で鹿島の発言に続いた。
氷川はクラブの男子には興味がなかった。俺に対しては嫌悪感を抱いているほどだ。変な趣味があるわけではないが、同性の鹿島と遊ぶ方が楽しいと思っている。
「あそこの丸鶏スープはうめぇからな」
『大盛にして、チャーシュー飯もつけるとするか』
ハーフリムタイプの眼鏡をかけた国分寺もラーメン屋に行く流れだ。
彼は常に様々な欲望に支配されており、今、この瞬間は食欲で頭がいっぱいだった。
『ん、珊瑚島はどうするんだ?』
「珊瑚島も来ないか」
一番後ろを歩き、傍観者のような態度をとっていた俺に、岩月の方から声をかけてくれた。
彼は、国分寺や氷川と違って俺に対して黒いものを抱えていない。
『おいおい、あんな奴も呼ぶのかよ』
『貧乏くせぇから、くんじゃねえ』
国分寺はハッキリ表情に出して、氷川は無表情のまま、心の中で俺を拒絶した。
「ごめん、家の手伝いがあるから」
俺の発言に、安堵したような気配が二人から漂う。
そう言ったものの、別に俺の家は商売をしているわけではない。働いている母親に代わって洗濯物を取り込んでたたむくらいの話だ。外食をする時間は十分にある。
俺が断った一番の理由は、氷川が罵った通り、俺が金に困っており、外食費用が惜しかったからだ。
「そうか」
『みんなで仲良くまとまりたいんだが、残念だな』
岩月は、心の中と同じ表情を浮かべた。
「じゃあ、合宿で」
みんなが行く『武蔵坊ラーメン』と俺の住む家は方向が違う。
古びた石張りの校門の前に来ると、岩月は俺に向かって片手を顔の前に挙げ、合掌礼の真似事をした。
「ああ」
俺も同じ礼を返すと、みんなに背を向けた。
内心、もっと、みんなと仲良くしたいという気持ちはあった。
しかし、潤沢に小遣いをもらっているわけではないので、どうしようもない。
一学期の授業が終わり、練習も終わったので、早くバイトを見つけて稼がないと最悪、合宿にすらいけなくなる。
そう思いながら俺は、住宅街に設けられたアスファルト舗装の坂道を自宅の方に向かって下っていった。潮風が頬を撫でる。行く先には海が広がっていた。
背後からは、同級生のみんなが楽しそうに談笑している声が聞こえてきた。