記録7 ワンドリール
夜の帳が学園に降りる頃、ティルダはルシミアに見送られ、いつものように寮を抜け出た。そろそろ出歩いているところを見つかってしまえば咎められる時間だ。
以前までのティルダは、寮の規則は守る方だった。しかし2年前にルシミアに出会ってからはバレないくらいにこっそり夜の空気を吸いに行く楽しさに目覚めた。
ルシミアは厳しい家庭で育ったらしく、その反動で何かに逆らいたくなる時があるのだと言って、たまに授業をサボる。自分は授業をすっぽかせるほどの度胸はないが、ほんの少し憧れていたのだ。
そして半年前からは、毎夜のように中庭に足を運ぶ理由ができた。
あらゆる植物が枝葉を伸ばす中庭。薬草学の授業以外で立ち入る者はほとんどおらず、夜は静寂に包まれている。聞こえるのは、穏やかな夜風が草木をさわさわと撫でる音だけだ。
そんな中で、月明かりに照らされた石畳の一角に目をやる。そこに座っている彼の姿を見つけて、胸を高鳴らせた。
少年が、膝の上に抱えたノートに何かを書きつけていた。
寛ぐために自然と崩された足はすらっと長く、はらりと一房だけ顔にかかる金の髪は月明かりに透けて輝いている。長い睫毛が被さる瞳は、真剣にノートに注がれていた。
ティルダは前髪を整えてから、深呼吸をして歩み出す。
「こんばんは、ワンドリール。今日もいるんだ」
「ああ。こんばんはティルダ」
少年はティルダを見上げて柔らかく目元を細めた。
「君こそ、今日も抜け出して来たんだね」
「それはお互い様でしょ」
二人は小さく笑い合った。ティルダはまた前髪を撫でつけながら、少年の隣に座った。
少年――ワンドリールは、一つ上の学年の先輩だ。
音楽が好きらしく、いつもノートにピアノや管弦楽の曲を書きつけている。こうして中庭で自然に囲まれていると、作曲が捗るのだと言っていた。今も時折目を閉じては、風の音や、フクロウの鳴き声に耳を傾けている。
半年前に彼に出会ってから、夜のささやかな会話が毎日の楽しみになっていた。初めは作業の邪魔にならないかと気にしたが、毎晩別れる前に「じゃあ、また明日」と彼の方から言ってくるので、割り切っていろいろな話をするようになった。
ティルダは早速、今日の出来事を話した。
『魔物との契約』の授業で最前列をとるために、朝早くから並んだこと。
リインたちの授業で、シャンタナという蛇のような魔物に睨まれて怖かったこと。
父たちの授業中、アウルのおしゃべりが止まらなくなってしまったこと。
「――アウルくんたら、パパの昨日の寝相についてしゃべりだしちゃって。パパも慌てて止めようとしてたけど、私も恥ずかしかったよ!」
「あはは、それはたまらないな! アウルくんというのは、君がよく話している魔物の家族だよね」
「そうだよ。おしゃべりでうるさいけど、いつもご機嫌なの」
「最高じゃないか。それにしても、魔物か。さっき言っていたシャンタナも、君の家族も、どんな力を持っているんだろう」
「シャンタナは知らないけど……アウルくんなら、永遠に幸せな夢を見せ続けることができるんだって言ってたよ。この前のベギちゃん脱走の時もちょっとだけ使ってた。それに」
ティルダは得意げにニヤリとしながら「頭からゼリービーンズを出してくれる」と言うと、ワンドリールは「なんだそれ」と吹き出した。
一頻り笑ったワンドリールは、羨ましげな響きを含んで「兄弟みたいな関係なんだな」と評した。
そうかもしれない、とティルダは肯く。
幼い頃はアウルを親だと思っていたが、いつからか兄や姉のようにも、友達のようにも思えるようになってきた。いずれにしても、楽しい家族だ。
「――そういえば、ワンドリールは兄弟っているの?」
「……まあ、ね。あれを兄弟と言っていいのかはわからないけれど……」
彼にしては珍しく言葉を濁したので、彼もルシミアのように複雑な家庭なのかもしれないと直感してすぐに話題を変えた。
その日は、弾いたことのあるピアノ曲の話や、初めて劇場でのコンサートに連れて行ってもらったときの思い出を語り合った。
いつも、あっという間に月の位置が変わってゆく。
月が真上に登る頃、ワンドリールが「さて」と立ち上がった。
「そろそろ戻らないと」
「そうだね」
「と。その前に」
ワンドリールは近くの茂みの中に分け入ったと思うと、間も無くして黄緑の花がついた植物を持って来て、冗談っぽく笑いながら差し出して来た。
「なにこれ?」
「クレマティス。蛇の魔物が怖いって言っていただろ」
受け取りながら、薬草学の授業を思い出した。クレマティスは蛇を追い払う植物だ。でも確か、下準備が必要だったはず。それは……。
「「クレマティスを、ヌマアマガエルと一緒にすりつぶす!」」
二人は薬草学の教科書を同時に誦じた。ティルダが「ウヘェ!」と舌を出すのを、期待通りとばかりにワンドリールが笑った。
「実習でもなければ、二度とやりたくない!」
「そんなんじゃ立派な魔女になれないぞ」
そんなやりとりをしながらも、ワンドリールが摘んでくれたクレマティスをその場に捨てることはできず、部屋に持って帰ることにした。
「――じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
軽く手を振り合って、自分の寮へと足を向ける。
廊下の角を曲がった時、体の中から湧きいでるようなリズムに乗せて、思わずぴょんと飛び跳ねた。