記録25 青とは心の穴にすまう色
空がすっかり暗くなった頃、その場はお開きとなった。
ルシミアの体調は問題なさそうなので、ティルダとともに寮の部屋に帰ることになった。
中央廊下でウィストールたちと別れたティルダは、ルシミアと語らいながら部屋へ向かう。
「でね、契約したカミーユなんだけど、勤務中でも口が悪くて」
カミーユはティルダを命の恩人だと思っているらしく、ぶつくさ言いながらも頼み事は聞いてくれる。
ただ、とても、やかましく、文句は言う。
それから驚いたのは、彼と契約してから動物の心がわかるようになったことだ。
窓辺の鳥が歌ったり、湖の魚が跳ねた音を聞くと、本当になんとなくだが考えていることが伝わってくる。大抵は「けっ、人間がじろじろ見やがって」とか「パンをちぎって投げたまえ」といった、しょうもないことだが。
でも、自然の音を聴くのが好きなワンドリールならきっと喜ぶだろうな、とも思う。
ルシミアは一度はカミーユに襲われているというのに、興味津々で話を聞いてくれた。
「何の仕事をさせているの?」
「図書館で本を借りてきてもらったり、薬草学で使う狐の尻尾を育ててもらったり、ピアノのレッスンを見てもらったりかな」
「報酬は?」
「私のお小遣いの3分の1だから、月100タパンだね」と、ティルダはこの国でコーヒーが2、3杯飲める程度の金額を言った。
そんな話をしているうち、中庭の渡り廊下へと差し掛かる。
「あ、そうだ。ワンドリールにも、いろいろ話さなくっちゃ!」
ティルダは弾んだ気持ちで足先を踊らせた。ルシミアは一瞬だけ表情に影を落とした気もしたが、すぐに目をいたずらっぽく光らせた。
「愛しのワンドリールね」
「ちょっと、やめてよ。聞こえたらやだ」
遠目に、月明かりの元でいつものように彼が楽譜を書いているのが見えた。
「そうだ、ルシミアのことを紹介させて! でも変なことは言わないでね」
「わかってるって」
ティルダは笑いながらルシミアの手を引いてワンドリールの元へ駆け寄った。
「ワンドリール!」
呼びかけると、ワンドリールは顔をあげて――その表情を曇らせた。
もしかすると、あの楽譜がきっかけでカミーユに遭遇したことを、申し訳なく思っているのかもしれない。
でもあれがなければ、カミーユを見つけるまでに回り道を繰り返しただろう。ルシミアを助け出すのも遅れてしまったかもしれない。だから、まったく責めてなんかいないのに。
「楽譜のことなら気にしないで。それは後で話そう。話したいこと、いっぱいあるの。きっとびっくりするよ! それから」
ティルダはルシミアの肩を抱いて「じゃあん!」と親友を自慢した。
「この子がルシミアだよ。前に話したでしょ、私の親友! 見つかったし、無事だったよ!」
ルシミアの肩が細かく震えていた。
ワンドリールも、口を閉じたまま何も言わない。
沈黙の意味がわからず、ティルダはルシミアの顔を覗いた。
ルシミアは気まずそうに目を泳がせていた。
「……あ、あのさ、ティルダ」
「何? どうしたの?」
ルシミアは唇を噛んだ。やがて意を決したように小さく言う――。
「誰と話してるの? 誰も、いない……」
「へ? 何言って……」
目の前のワンドリールを見る。
ワンドリールは眉根を寄せ、悲しそうな顔で「ごめん」と呟いた。
「え? あ……」
「言わなくちゃと思っていた。でもつい、きみと話すのが楽しくて、言い出せなかった。……ごめん」
周囲の音が、ふうっと遠ざかって、何も聞こえなくなった。
足先が崩れてゆくような感覚がして、ふらつく。
「そんな……」
――ああ、どうして気づかなかったんだろう。
ワンドリールとは、いつも中庭周辺でしか会えなかった。
私と視覚や感覚を共有するという満月ちゃん以外とは、他の誰とも直接言葉を交わしていなかった。
でもまさか、こんなにもはっきり見えていて、言葉を交わせる彼が――幽霊、だなんて。思うわけないじゃない。
でも、そう。パパに言われたことがあった――「ティルダの目は、特別だ。他の誰も見えないようなものでも、その目は拾って見ることがあるよ。僕らと暮らしてきた影響かもしれないね」って。
そんな、そんなことって――。
目の前が真っ暗になった。
❧ ❧ ❧
「きみだから、あの楽譜を渡したんだ」
暗い、どこだかわからない場所で、ワンドリールの声が響いた。
「ティルダ。きみになら、彼を託せる。彼は純粋なんだ。人間の悪い部分を見たとき、一緒に腹をたててくれる。……カミーユをよろしくね」
ティルダは、暗闇の中で眠るように目を閉じて浮いていた。
「勝手に、押し付けていかないで。私……あなたのこと、好きだったのに」
「僕も……、いや」ワンドリールは言いかけて、「僕には言う資格がない」と呟いた。
それに対して、「ずるいよ」と叫んでやりたい怒りもあったが、それよりも悔しくて、悲しくて仕方がなかった。
「ワンドリールは、これからどうなるの?」
「そうだね。どうしようかな」
「……カミーユに会ったら、未練がなくなるんじゃないの?」
「まだ彼には、僕が死んだことは受け入れられないと思う。きっと彼は、きみと過ごしてゆくことによって人間についてや、人間の時の流れの早さを知るだろう。……彼に会うのは、それからでいい」
ティルダはたまらなくなって、目を開けて叫んだ。
「またずっと、この学校を彷徨い続けるってこと!? そんなの辛いだけでしょ!」
ワンドリールは、泣きそうな微笑を浮かべた。
ティルダが大好きだった、寂しげで、誰かを愛おしく想っている、そんな笑み。
「待つのはわりと得意なんだ、大丈夫さ。……でも、きみはもう夜の中庭には来ないで。……新しい未練が、できてしまいそうだから」
「ワンドリール……!」
浮いていた体が、急速に彼から離れてゆく。手を伸ばしても、もう届かなかった。
❧ ❧ ❧
ティルダは、はっと目を覚ました。
見上げると、見慣れた天井がある。自室のベッドに横たわっていた。
「あ……、ティルダ」
ルシミアが心配そうな顔で声をかけてきた。
ベッド脇から、ひょいひょいと小さなふわふわたちの頭が覗いて、半月型の目でこちらを見てくる。
「……ルシミアぁ……」
ティルダは親友に抱きついて、声にならない息を漏らしながら、ひっくひっく喉を鳴らして大泣きした。
ルシミアは今は何も聞かず、肩を涙でびしょびしょにされても、背中をさすり続けてくれた。
ティルダの初恋は、あまりにも痛い失恋の記憶となった。




