記録20 決定的な名前
歌っているのはティルダだ。意識を取り戻したらしい。
すでに体の半分以上が消えているが、薄緑の目で動物の謝肉祭を見据えて歌っている。
ティルダが音を口ずさむたび、そばに浮く杖から閃光が飛ぶ。
杖に、特定の音程で発動する魔術のショートカットを仕込んでいたのだろう。
動物の謝肉祭は、穴の開いたコートを撫で上げて元どおりに直すと、「なるほど」と呟く。
「私語は禁止だが、歌は禁止とは言っていない。劇場だしな。はっはあ、これは盲点だった。付け足しておこうか」
動物の謝肉祭は指揮棒で空中に文字を書いた。
劇場ルール10・指揮者の許しなしに歌ってはならない。
ティルダが「んっ」と声をあげて歌うのをやめた。しかしその目はまだ敵意を宿して動物の謝肉祭を睨んでいる。
「諦めな、嬢ちゃん。劇場においては指揮者こそが最高権力者で独裁者なんだよ」
ウィストールは胸が張り裂けそうなほど叫びたくてたまらなかった。
ティルダのアイディアは良かったが、こうもあっさり封じられてしまっては手詰まりだ。
ところが、ティルダは自らの力を急速に奪われながらも「あなたは、強すぎる」と口にした。
ウィストールは何か意図があって敢えて話しているのだと直感的に悟り、ティルダの言葉に耳をすませた。
「そうだろうとも」動物の謝肉祭はあっさり言った。「人間と俺とでは比べものにもならないだろうよ」
「でも――なんでもありだなんて、ありえないわ。そういういうのって、たいてい条件付きだもの。でしょう、指揮者さん」
ティルダの言わんとすることがわかり、はっとした。
――この魔物の倒し方がわかった。
ただの一度でいい、もう一度攻撃する必要がある。
しかしティルダも自分も余力がない。できるとすればアウルだ。
すぐさまアウルに目配せする。二千年連れ添った相棒は、それだけでこちらの意図を理解してくれた。
アウルの指が、微かに一本立てられる――「一度だけならいける」ということだろう。
動物の謝肉祭は余裕を持って構えているようで、その実は一分の隙もなくこちらを警戒している。下手に動けばあっさり音楽にされてしまうだろう。
絶体絶命の今になって頭が冴え渡り、もうひとつ切り札を持っていることに気づいた。
グリーンスリーヴスが例の記述を見せてきた本当の理由を悟ったのだ。
「動物の謝肉祭。最後に聞いてほしい……」
掠れた声で呟くと、動物の謝肉祭は勝ち誇った笑い声をあげてそばへ来た。
「遺言か、いいだろう。書き留めてヤギの餌にしてやるよ」
彼がこちらの口元に耳を近づけてきたとき、ウィストールは決定的な言葉を囁いた。
「……ワンドリールを知っているか」
その名前を出した途端、動物の謝肉祭の瞳孔は獲物を見つけた獣のように縦に狭まった。
その名は、国立図書館にまで出向いて調べ上げたものだ。
結果的に図書館全ての膨大な蔵書を全て記録するまで見つからないほどに、その名はただ一つの些細な資料にしか残っていなかった。
図書館の地下深くにまとめて保存してあった、当時の手紙。
そのただ一枚の手書きの紙ペラを探すために、どれほど苦労したことか。
しかしその名は、動物の謝肉祭を動揺させるための武器となった。
「ワンドリール。それが君が仕えた主人の名だ。そして君はカミーユと呼ばれた男だね。彼が領地の次期当主となったあとに、急に現れて側近になった男だ」
動物の謝肉祭――カミーユは、獣の目を揺らがせてウィストールを見つめ返した――その目は「なぜそんなことを知っているんだ」と言わんばかりだったが、やがて無理やり軽薄な嘲笑を取り戻す。
「……ああ、俺は確かにカミーユと呼ばれた。だが、俺はあいつに仕えてなどいない。まあ、それもいいと思っていたところだが」
カミーユの声音が急に冷えた。
「実を言うと、アルタージの座をいただこうと思ってね。噂じゃ、その称号を得ると力が増すんだろ? 俺は、俺の力の恩恵をあいつに分け与えてやりたいと思っていたのさ」
それこそが彼の本音に違いない。
「誰に恩恵を与えたいって?」
「だから、ワンドリールだって!」
カミーユの目は必死だ。
「それで、あいつはどこにいる? 学校にいるはずなんだが。お前、知っているんだな。答えろ」
「……どこにいるって……?」ウィストールは彼がとてつもない勘違いをしているような気がして、青ざめてしまった。
「まさか……」
その刹那。
「はああッ――!」
アウルがカミーユに手を向け、インクの波を発射する。
アウルはそれきり気を失ってしまったが、立派に役目を果たしてくれた。
キィィ――……ン。
硬質な金属音が反響する。
インクは、狙った場所に的確に命中した――カミーユの持っていた金の指揮棒は、天井高くまで吹き飛んだ。
カミーユは息を飲み、明確な焦りを顔に浮かべた。
❧ ❧ ❧
指揮棒が空中でくるくると回る。
あの指揮棒こそが、この霊域の鍵だ!
ティルダはカミーユとかいう魔物の表情を見て確信した。
おそらく強力すぎる力の代わりに、あれがないとルールの書き換えも力の行使もできないという条件が付き纏う。
逆に、指揮棒さえ手にできればカミーユでなくとも有利になるはず!
ティルダは舞台から飛び出した。指揮棒がカミーユの手から離れた瞬間から、ティルダの体は元に戻っていた。
カモシカのように元気な足で、指揮棒目掛けて走る。
指揮棒は、くるりくるりと回りながら、一階の客席のどこかに落下した。
付近の動物たちがざわめく。ティルダは迷わず動物たちの群れに飛び込んだ。
驚いて声をあげた象に踏まれそうになり、鳥に髪を引っ張られ、逆にネズミたちを踏まないようにワタワタしながら、金の指揮棒を目指す。
指揮棒は動物たちの足に蹴られて、あちこちへ移動した。
ひどい大混乱だ。水槽はひっくり返って魚は跳ねているし、キリンたちは首をぶつけて絡み合ってしまったし、鶏はびっくりして卵を生んでいるし、羊たちはメーメー泣いている。
ティルダは動物たちに押しつぶされないように床を這いながら、必死に手を伸ばした。
「静かに!! ああくそ、俺の自慢の羽をもぐな!」
自らも指揮棒を捜しながら、怒り心頭のカミーユが叫んだ。
そのとき、鋭い閃光がカミーユを襲う。
一時的に劇場ルールが緩んだことで立ち上がれたウィストールが攻撃したのだ。
被弾したカミーユはその場に蹲り「この死に損ないが!」と呻いた。
しかし指揮者でなくとも、カミーユは劇場オーナーだ。
「演奏を続けろ、俺はこの劇場の主人だぞ!」
彼の怒号を受けて、『ティルダレッテ』は再び続きから奏でられた。
「――ああっ!」
ティルダはまた胸から消え出した。しかも、「テンポアップだ! さっさと二曲目に行きたいからな!」とカミーユが指示したことにより、消えるスピードが明らかに早まる。
あと少しで手が指揮棒に届くところだったのに、その手すら半透明になり始めた。
あと数秒足りない。この曲は、幼少期のこの章節を経てもうすぐ終わる。自分自身のことだからこそ、よくわかる。
「うう……」
絶望のあまり涙が滲んだ。
しかし、人生というものは何も物心ついてから始まるものではない。世の中のことをまだ認識していない赤ん坊の頃だって、人生には含まれているのだから。
ティルダ自身も知らない音楽が、ゆったりと流れ始めた。
きらきら瞬くような、星のピアノの音。
愛し子を寝かしつける子守唄のような、優しくて、どこか切ない旋律。
こんな曲、知らない。
……ううん、知っているかもしれない。そう、昔――まだ赤ちゃんだった頃に、誰かがピアノを弾きながら歌ってくれたことが、あったかもしれない。小さなアパートの、ささやかな一室で。
「……お父さん」
口が勝手に、呟いていた。
ティルダがつい動きを止めたのは、一瞬だった。
まるで子守唄がティルダを守るように響いているうちに、ついにその手は指揮棒を掴んだ。
「指揮者は私に交代!」
ティルダはぼろぼろになった姿で、指揮棒を高らかに掲げる。
途端に体は元に戻り、金の光を帯びた。
「これで私が最高権力者で独裁者ね」
カミーユはもみくちゃになった姿のまま、「ぐ」と口元を歪めた。
「……嬢ちゃん、何をするつもりだ」
「そうね、あなたを聴いてあげる。みんなも聴きたい?」
さっきまで混乱していた動物たちから、わっと拍手が沸き起こった。動物たちはいそいそとそれぞれの席に着き始める。
「……嘘だろ?」
カミーユは顔を引きつらせながら、さあっと青ざめた。
「俺の演奏が聴きたいんじゃなくて、俺を聴きたいってか? ま、待てよ」
ティルダがゆっくりと指揮棒を頭上に振り上げる。
「やめろ――!!」
カミーユの絶叫が劇場中に轟く。
そして――。
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