記録2 ウィストールたち、学校へゆく
あれはアウルとの契約から2016年目。
緑が溢れ出す初夏、首都の魔術学校へ向かうボート上でのことだった。
「はあ、緊張するなあ……」
眩しい昼下がりの中、ウィストールはボートに揺られながら、本日十七回目の情けないため息をついた。
水面を覗き込むと、青いマントを着た金髪の青年が、お揃いの表情で見つめ返してくる。
涙のような青い目と、左目の下にこぼれた二つの泣きぼくろは本当に泣いているかのようだ。
「そんな顔しちゃだめだめ。笑ってウィズ!」
可愛らしい声が、初夏の風に乗って響く。
対面に座ってボートを漕ぐのは、美しい少女。
「新任教師なんて楽勝さ! きみが作るクリームシチューは絶品だし、ピアノも上手だし、シャンプーの泡で猫を作るのだって天才的だもの」
懸命に励ます少女の名は、アウル。
彼は契約してから二千年、変わらぬ調子で陽射し色の瞳を細める。
青黒いインク色のエプロンドレスに、艶やかな同色の髪。真っ白な肌に血の気の透ける頬は、絵画のよう。
いっそ現実離れした、あまりにも完成された美しさだ。
それもそのはず、契約者の理想の姿をとる彼の今の姿は、ウィストールの初恋の少女・アリソンのものだ。性別なんてないくせに、その姿がお気に入りらしい。
その姿をとられると青春時代の気恥ずかしさが蘇って落ち着かないのだが、『契約者の記憶の中からどの姿をとるか』はアウルの気分次第だ。
アウルは緊張をほぐそうとしてくれているようだが、励ましの言葉はどれも的外れで、これから教師になることへの不安を和らげてはくれない。
思わず十八回目のため息をつき、ポケットの中の胃薬ストックを確認した。
事の発端は五日前に遡る。
田舎町ヴィックスベルで『ウィズとアウルのなんでも魔術店』を営んでいた二人のもとへ、アルカディア魔術学校の校長が訪ねてきたのだ。
まるで敏腕の経営者のような雰囲気の校長、ヴァンガス・レーゼントは率直に言った。
「あなた方を、教師としてお招きしたいのです」
驚くウィストールたちに対し、校長は事情を打ち明けた。
「実は新学期から『魔物との契約』という授業を新しく用意していまして。魔物と契約を結び、使役するすべを学ぶという内容です。目玉カリキュラムにしたいと思い、大々的に宣伝していました。ところが二組招いたうちの教師がひとり、急遽来れなくなってしまいましてね……」
「なぜです?」
「一ヶ月前の今になって、経歴詐称が発覚したのです。いやあ、正直とても焦っています。そんなとき、たまたま新聞の魔道具発明大賞のインタビュー記事で、あなた方をお見かけして」
校長が言っているのは、とある爆発的ヒット商品を生み出した魔道具開発者としてインタビューを受けたときのものだ。
記事では開発裏話の他に、ウィストールの店についてや、アウルという魔物とともにいることも書かれている(アウルの強い希望により、契約関係というよりはパートナーのように書かれていたが)。
特に校長の目を引いたのは、『魔物と契約している魔術師である』という部分だった。
この国において、魔物の存在は認知されているものの契約を結んでいる者は極めて少ない。
いたとしても、言葉を解さない低級の魔物となし崩し的にともに暮らしている程度で、いわゆるペット感覚である。力ある魔物を使役している魔術師などほとんどいない。
ゆえに、『魔物との契約』の教師としてはぴったりの人材というわけだ。
「もう一人の先生はまだお若く外国の方なので、学校としてはやはりもう一組の教師をお迎えしたいところです。……あなたも実際お会いすると相当お若そうですが……。あなた方はまさに理想通りだ。お二人一組として、まずは半年ほどいかがでしょうか。もちろん急なお話ですので、給金のほうも弾ませていただきます」
――半年の契約にしてはなかなかの金額を提示されたウィストールたちは、すぐに承諾した。
ヒット商品を生み出したにも関わらず、懐事情は寒々しかったのである――名が売れたせいで、詐欺のカモにされてしまったのだ。アウルときたら、『飲めば幸せ! ハッピーウォーター』なんていかにも怪しいものを三千本も買う契約書にサインをしてしまったのだから!
そんなこんなであっという間に教師となることが決まり、学校へ向かっているというわけだ。
魔術学校は首都の北外れにある。大きな湖の中心部にそびえている城のような建物だ。そのため、こうしてボートで向かうしかない。
本来は専門の漕ぎ手がついてくれるが、それを断ったアウルは自ら櫂を握り、ご機嫌に歌っている。
「おひさまは風船のように空高く♪ おお、なんて美しい、輝く昼下がり!」
歌の通り、晴天の青空のもとで日の光がきらきら反射して眩しい。透明度の高い水は魚の影すら見ることができる。
歌に釣られるように、一羽の白鳥がやってきてボートと並泳した。越冬を終えて戻ってきたのだろうか。白鳥は歌声に合わせて首をゆらめかせ、水面に優美な波跡をつくってゆく。
まるで穏やかな夢のような光景だ。
先程までは緊張からナイーブになっていたが、アウルの歌声を聴きながら白鳥と一緒になって水面をくすぐっているうち、自然と心が晴れやかになってくる。
心地よい水音と柔らかな風を感じながら、アウルの肩越しに聳えている魔術学校の全景を眺めた。
石造りの城を基礎とした建物は、一見古めかしい。しかし実際に古い部分は全体の六割ほどで、残りはテイストを合わせて近代に建て増しされたものだという。600年も続く名門らしい歴史の重みと、最新設備とが共存している独特の雰囲気だ。
きっとこの場所で、二千年を超える人生が変わる――ウィストールはそんな予感を胸に抱く。
授業を通じて、若い人々が魔物に興味を持ってくれたら――もしかすると、誰かがアウルとの契約を引き継いでくれるかもしれない。
ちらっとアウルを見やる。
主人がこんなことを考えているなどと知る由もなく、アウルは楽しげだ。
アウルのことが嫌なわけではない。けれど、いずれは彼との契約を終わらせなければと思っていた。
二千年以上もずるずるとともにいたが、永遠に生きるなんて間違っていると本能が訴え続けている。
教師になることは、後継者を探す大きなチャンスになりうる。
対岸に着くと、アウルは弾んだ足取りで地を踏み締めて歓声をあげた。
「着いたあ! 素晴らしきかな、アルカディア魔術学校! 若き魔術使いたちの青春の学舎よ!」
正門を抜けると、開放的な噴水広場がウィストールたちを迎えた。普段は生徒たちの憩いの場だろう。白い石で鯨を象った噴水は雄大で、気分を上げてくれる。
そんな噴水広場も、今は人通りがない。なぜなら生徒は夏の休暇の真っ最中。生徒の多くは帰郷中だ。
ウィストールたちは、新学期が始まるまでに授業の準備を整えるため、事前に招かれているのだ。
ところが、呑気に「ちょっと広場で休んでいこうか」なんて言ったのも束の間。空の機嫌というのは、突然変わるものだ。
ふと空は陰り、一気に雨粒をこぼし始めた。
「わーっ! わーっ!」
一張羅のマントに雨水が点々を描いていくのを見て大騒ぎしかけたが、アウルが腕を大きな翼に変化させ、屋根のように覆ってくれた。噴水広場を足早に通り抜け、校舎に駆け込む。
正面の玄関ホールに着いて、息をひいひいさせながらやっと立ち止まった。
「ありがとう、アウル。それにしても、なんだかツイてないなあ」
服はすっかり湿ってしまった。唇を噛みながらも、すぐさま杖を振るい、本来はあって然るべき詠唱もなしに魔術で服を乾燥させる。
ツイてないことは続いた。守衛に教師ではなく生徒だと間違われてしまったのだ。アウル曰く「人生経験のなさが顔に出てるんじゃない? ほっぺたのあたりとか」とのこと。二千年生きていてもだめなのか。
校長室までの渡り廊下を、しょんぼり項垂れながら歩いていると、誰かとぶつかりそうになって足を止めた。