記録19 記録の魔物
『ティルダレッテ』が奏でられ続けている。
思春期の少女のようだった悩ましい曲調は、徐々に彼女の人生を遡って表現しているのか、飛び跳ねるような楽しい調子へ変調する――ティルダは、もう膝まで消えてしまった。
「頼む。やめてくれ」
ウィストールは消え入りそうな声で訴えた。
「大切な娘なんだ。消さないでくれ……」
しかし動物の謝肉祭は、ウィストールの悲痛な訴えにも耳を貸さない。
「そんなのは俺が決めることだ」
口を開くたび、どんどん力が抜けてゆく。霞む視界で動物の謝肉祭を見上げ、声を絞り出した。
「何が、目的だ……?」
「興味があるんだ」と動物の謝肉祭は歌うように目を閉じた。
「あらゆる生命の音。あらゆる景色の音も。音に変換して世界のかけらを収集するのが趣味でね。頼まれなくとも、小娘のあとにはお前たちを演奏してやるさ。今晩は長編交響曲が楽しめそうだ」
その言葉の半分は、きっと嘘だ。
しかし彼の本音を探るのなんて後だ。今はティルダを助けなくては。
なんとか立ちあがり、杖を構える。なけなしの力で攻撃魔術を流星群のように降らせたが、動物の謝肉祭は指揮棒の一振りですべてを鉄琴の音に変換して消し去ってみせた。
どうやら何かを音楽に変換する能力らしい。
いったいなんの概念を司っているんだ!?
演奏の曲調がさらに変わる――小さな小さな女の子が、やんちゃに暴れまわるような元気いっぱいの曲調へ。もう胸まで消えてしまっている。
「ティルダ! ティルダ、目を覚ませ!」ウィストールは攻撃を続けながら叫んだ。横でアウルも、精一杯名前を呼んでいる。
動物の謝肉祭は大袈裟に「んー、ハエの羽音のように耳障りな雑音だ」と片耳を覆った。
「く……っ」
このまま攻撃魔術を放ったところで無意味だ。
ならば、もはや出し惜しみは不要。
気を抜けばすぐに倒れてしまいそうだが、奥の手を出すしかない。
ウィストールは自らの霊域を展開しようと試みた。
劇場の景色に穴が開いたように、かつて観測してきた遠い場所の街並みが顔を覗かせる――城の塔の端が。要塞が。集合住宅が、動物の謝肉祭に向けて突き出てゆく――観測し、霊域に記録してきた大質量だ。これで押し潰してしまえば彼とてたまらないだろう。
これには流石に動物の謝肉祭も驚いたように目を見張った。
「おい……おいおい、なんだそりゃ!」
動物の謝肉祭はぎょっとしながら指揮棒を振り、次々に突き出てくる建物群を音に変換してゆく。音の洪水が劇場内に溢れ、その振動がびりびりと背骨を震わせる。
ウィストールは彼の頭上に、記録したばかりの講堂のピアノを落とす。動物の謝肉祭は短い叫びをあげて飛び退いた。
「お前、ただの魔術師じゃないな!?」
動物の謝肉祭はそこで、はっと息を飲んだ。
「――お前か」
驚愕に見開かれた獣の目が、ウィストールを凝視する。
「お前が、2番――記録の魔物か……!!」
「そうだよ、動物の謝肉祭」
ウィストールの額に隠れていた第三の瞳が、ゆっくりと開かれる。
今にも泣き出しそうな、涙の青。
すべてを観て、記録し尽くす瞳。
「僕の大切な人たちを返してもらおう」
❧ ❧ ❧
人間だった自分が魔物へと変生したのは、1564年前。アウルとの契約から452年目のことだった。
その頃の僕は、とある恐怖に苛まれていた――生来から絶対記憶力を持っているはずなのに、ぽろぽろと物忘れが現れ始めたのだ。
1年前の同日に食べた献立を思い出せない。
10年前に出会った人の服の模様が思い出せない。
今まではすべて覚えていられたのに!
怯える僕に、アウルは言った。
「僕らは長い時を歩んできたからね。きっと、きみの魂に刻める記憶容量を超してしまったんだろう。これからは、必要性の低い記憶から忘れていくかもしれないね」
「――嫌だ……」
僕は飢えた獣のような声を絞り出した。
「必要のない記憶なんてない……僕は全部覚えていたい……」
僕は、記憶への執着が異常なのだそうだ。かつてヴィクターにも指摘された。
どんなに小さな思い出でも忘れたくないと思うのは、そんなにおかしいだろうか?
僕はただ、誰かと交わした言葉も、そのときの表情の動かし方や声音や香りや、そのときに流れていた音楽や、頬をくすぐった風も、すべてすべて忘れたくないだけなのに。
アリソン――大好きだった彼女との思い出も、ずっとずっと愛で続けていたい。
宝石を宝箱に入れて見つめ続けるのと同じだ。宝石が増えて宝箱に収まらなくなったからといって、愛着のある古い宝石を捨ててしまうことは耐えがたい。
「僕は忘れない。絶対に、すべてを忘れない……友人たちのことも、彼らが愛した世界のことも、何一つ忘れるものか……!」
僕はアウルに久々に命令をした。
「アウル、きみは永遠だろ! 僕の記憶が消えないようにどうにかしてくれ! きみの中に僕の記憶を永遠のものとして封じるんだ!」
アウルは、なぜだか嬉しそうに体を震わせながら、狂気的に笑んだ。
「もちろんだとも、僕の最ッ高の契約者……!!」
それが、きっかけだった。
僕の記憶への偏執と、アウルの『永遠』の概念が悪魔的に相性良く噛み合ってしまったことで、人間ではありえない容量の記録を持ち続けることが叶った。
そのせいで、僕は人ならざるものへと成った。
そうして世界のあらゆる事象を観る能力を手にした。
その力で世界の観測を続けるうち、いつの間にやらアウルの永遠に頼らず、自らの霊域に観測データを保存していけるようになった。
街を、風景を観測し、そっくりそのままのコピーを霊域に保存してゆく。
子どもの無邪気な積木遊びのように、霊域内には『世界のコピー』が並べられ続ける。
霊域内の街を自由に探索することもできるし、その気になればコピーを現実世界へそっくりそのまま取り出すこともできた。
『世界を破壊可能である』とされ、2番と呼ばれた所以はここにある。
観測してきたあらゆる街並みや景色を現実世界に取り出せる――取り出したとき、そこにあった現実の景色は飲み込まれてしまう。
そして、もはや霊域に記録されている千年分の街並みや景色は世界ひとつの体積ではとても収まるものではない。『観測した情報によって、現実世界を塗り替えてしまえる力』だ。
――僕は、恐ろしき記録の魔物に成ったのだ。
❧ ❧ ❧
大質量の建物群が、動物の謝肉祭目掛けて降り注ぐ。
彼は防御のためにそれを音に変換し続けるだけで精一杯のようだ。いつのまにか『ティルダレッテ』の演奏は止まっており、音楽にもなりきれぬ音だけが濁流のように溢れ返っていた。
「しつ、こい!」
真横から飛んできたどこかの広場の銅像を音に変換しながら、動物の謝肉祭が喘いだ。
「諦めろ! いくらお前が2番だろうと、ここは俺の霊域だ!」
「諦められるわけがないだろう! ティルダは大切な娘だぞ!」
「――はっ」
動物の謝肉祭が軽蔑するように昏く笑った。
「永遠と記録の魔物に育てられた娘だなんて、ぞっとするね。その娘も退屈に間延びした人生を送るのか? 生命は輝かしい終章を迎えるべきだ!」
その言葉に、無遠慮に心臓を鷲掴みされた。
僕たちがティルダを育てたのは間違いだっただろうか?
彼女にも永い人生を、と少しでも迷ってしまうのは罪だろうか?
動揺してつい攻撃の手が緩みかけたのを、動物の謝肉祭は見逃さなかった。
「お前もそうだろう、2番。お前だってどうせ、7番に執着されて終章を迎えられないまま、望まぬ永遠を奏でているんじゃないか?」
その言葉は、アウルに止めを刺した。
隣で倒れていたアウルが「あ」と声を漏らす。目から光が抜けてゆき、髪や肌が灰色に色あせてゆく。
アウルは手足の先からインクになって溶け始めた――アウルが死んでしまう!
襲いきたのは、世界が滅びてしまうようなどうしようもない恐怖だった。
「アウル!」
膝をついて抱き寄せる。
「アウル、嫌だ、死なないで……」
アウルの唇からは、小さな一言だけが溢れた。
「僕の永遠に付き合わせて……ごめん……」
「違う……それは違うよ!」
動物の謝肉祭はすかさず、無防備になった二人を奏で始める。
綺麗に重なりあった和音が、劇場内に寂しく響いた。
そんなことに構っていられない。泣きながらアウルにみっともなく縋り付き、震える声で心のうちをぶちまけた。
「この二千年は、望まぬ永遠なんかじゃなかった! 後継者を探したいなんて嘘だ、本気じゃないんだ。僕は死にたいわけじゃない――ただ、どこかで『死ななくちゃいけない』ような気がしていて」
今までは、永遠を死ねない呪縛だと思っていた。
だが、気がついたのだ。
孤独な永遠の、隣を歩くためのものなのだと。
二千年、アウルのことを記録してきた。いつも隣で笑ってくれたきみを。
旅先の料理のどこから手をつけたとか、ほっぺたが落ちそうだと目を細めたときの表情の柔らかさとか。
笑ったときに足をばたばたさせるきみが好きだ。
可愛い顔が台無しの変顔をするきみが好きだ。
美しい景色を見たときのきみの言葉選びも好きだ。一字一句、覚えている。
きみは僕の最高の記録対象だ。
世界という長編映画の主役なのだ。
僕を生かし続けるきみは、僕の生きがいでもあるのだ。
「また紅茶をいれるよ。千年後の運勢をいれてあげる。だから、いつもみたいにハッピーに笑って。ずっと隣にいて……」
結局僕たちは、永遠を愛する魂と、記録し続けたい魂。
どちらも終わりを拒絶する、似たもの同士。
僕はとっくに、アウルを愛してしまっていた。
二千年もこじらせた、定命の人間ではありえないほど重い愛だ。
「永遠に向き合うのが怖くて、今まで打ち明けられなかった。でも、きみが好きだよ……」
アウルの冷たい額に心をこめてキスをし、囁く。
「……二千年も一緒にいたんだぞ。僕たちは伴侶のようなものじゃないか。きみは、永遠に最高の記録対象だ……」
そのとき突然、アウルは目をぱっちり開いて僕をまじまじと見返した。
「え……」
驚いてこちらも見つめ返す。
シュールな数秒が過ぎ去ったのち、アウルが呟いた。
「は、伴侶? 永遠に、最高の記録対象?」
「うん」
「僕がいちばん?」
「あだりまえだろぉ」
アウルは「わ、わ、わ」とぷるぷる震えながらみるみる色を取り戻していった。
頬には赤みが差してゆき、ふにゃあととろけそうな笑みが浮かべられる。
「――うおおお!」
アウルは急にポーンと飛び起きて、ぴょんぴょん跳ねながら細腕に力こぶを作ってみせた。
「僕、大復活ッ!! 僕は永遠に、最高の、記録対象だ〜!!!」
アウルは金色にぴかぴか光りながら、花火のように手足を広げて飛び跳ねまくっている。
「ええ? なんで……?」
びしょびしょの顔を拭いながら首を傾げると、アウルは金の輝きを放ちながら微笑んだ。
「永遠は、僕らが一緒にいるためのもの。そういうことだよね?」
「うん……!」
頷くと、アウルの輝きがより強くなる。
アウルの永遠という概念を補強できた、ということだろうか?
「アウル……!」
衝動的に、アウルを強く抱き寄せる。心臓が、若い青年だったころと同じように脈動する。
腕の中でアウルは嬉しそうに声をあげ、こちらの骨が軋むくらいの力で抱き返してくれた。
「……クソ」
動物の謝肉祭はアウルの復活に顔を歪め、指揮棒を振るった。
アウルを警戒し、さっさと音楽にして消してしまおうとしたのだろう。
しかし、響いたのは不気味なほどに長く終わりのない和音。いくら指揮棒を早く振っても、テンポアップを感じられない。
「無駄だよ、僕は永遠だもの! 音楽にしたって、いつまでも終わるわけがないだろう?」
アウルは徐に体を離し、しゃんと腕を振るとともにインクで剣を形作った。
「さあさあ白鳥くん。猫に追いかけられる覚悟はできたかい?」
「――気持ちの悪い音だ」動物の謝肉祭が吐き捨てるように言う。「終章のない生なんて反吐が出る」
「お前の言うことは、正解のひとつなんだろう」
ウィストールはアウルの隣で杖を構えて言った。
「でも、僕のように輝きを集める生き方も悪くないよ。隣に最高の相棒がいれば尚更ね」
終わりを迎える人生だけが正解だと断言されたくない。それも流星のきらめきのようで素晴らしいが、僕たちの生だって否定されて良いものではない。
きらめきを永遠に覚えていることは、僕たちにしかできないから。
なにより、アウルとの2016年間は楽しかったのだ! 動物の謝肉祭が何年生きているのか知らないが、同じ年数生きてから出直してこいというものだ!
「ハ。娘にも終わりのない長編交響曲を弾かせるつもりか?」
「それは、ティルダが選ぶことだ」
ウィストールは再び建物群を災害のように降らせた。アウルはその隙間を駆け抜けてゆき、動物の謝肉祭に斬りかかる。
「――ッ!」
肩口を裂かれた動物の謝肉祭は傷を抑えながらも応戦した。片腕で指揮棒を振るい、降り注ぐ災害を音に変換し、アウルの剣撃を指揮棒で受ける。手がいくつあっても足りるものではない。
次第に動物の謝肉祭はあちこちに傷を受けて動きが鈍っていった。
しかしそれはこちらも同じこと。動いているだけで劇場ルールに違反し続けているので、どんどん力が抜けてゆく。アウルも剣を指揮棒とぶつけるたび、急激に力を奪われているようだ。
「……っく……」
ウィストールはついに限界を超え、膝を着いてしまった。もう攻撃を続ける力も残っていない。
アウルが「ウィズ!」と名を呼び、攻撃の手を止める。
動物の謝肉祭は息を切らしながらも素早く指揮棒を動かし、空中に金の文字を書きつけた――。
劇場ルール9・派手なマントを着ているもの、および金の瞳のものは、床に伏せていなければならない。
「えっ、そんなバカな! ――うぐっ!」
急に重力が増したように、ウィストールの華奢な体はビタンと床に叩きつけられた。アウルまで「ぎゃぴっ!」と奇怪な声をあげて倒れている。
まさかの事態に青ざめた。
こいつは霊域に適用されるルールを後付けできるのか!?
そんな前例は見たことがない。たとえアウルや僕でもできない芸当だ。
反則的に強すぎる……!
「あばよ。まずはお前からだ」
気取ったブーツの足先が近づいてくる。
永遠であるアウルの弱点は僕であると見抜いたのだろう。
けれど、もうぴくりとも体を動かせない。
「偉大なる記録の魔物よ、化石のように安らかに」
流石にここで死ねば、アウルの永遠のプロテクトは機能せず本当に死ぬだろう。
いざそのときが迫るとぞっとするほどの恐怖に駆られた。
ティルダは助けることができるのか?
今までに記録してきた世界のデータは失われてしまうのか?
アウルを、独りぼっちにしてしまうのか?
それはだめだ!
そのとき。
――歌が、聴こえた。
歌詞もない、シンプルな音程のみの歌。
同時に、背後から動物の謝肉祭を鋭い閃光が襲う。
「――ッ……」
動物の謝肉祭は、コートに穴を開けられて舌打ちした。




