記録17 じきに開演だ、と彼は言った
ティルダは講堂のピアノの前に座り、ワンドリールから渡された楽譜をじっくり見つめた。
そう複雑な曲ではないが、初見で弾くのは難しい。譜読みして全体的なメロディラインを掴むと、ピアノの譜面台に置いた。
ひとりきりで訪れた講堂はひどく静かで、物音ひとつひとつがやたらと響く。窓から見える紫がかった夕陽色の空は、どこか不穏だ。
「……ふう……」
深く息を吐くと、緊張で強張る指先をそっと鍵盤に乗せ、音を紡ぎ始める。
ゆっくりとぎこちなくメロディが響いてゆく。
いつもワンドリールが書いている曲よりも、躍動感がある。
そして、まるで何かの鳴き声を形容するような、不思議な音節が時折混じる。タイトルからして、きっと鷹の鳴き声だ。
譜面を再現するのに集中していたティルダは、ふと楽譜をめくろうとしたときに真後ろに何かがいる気配に気がついて体をびくつかせて振り向いた。
「きゃッ――」
ピアノに倒れ込んだ拍子に、叩きつけられた鍵盤が不協和音を奏でる。
夕陽に照らされてそこにいたのは、たてがみをもつ巨大な獣。
勇壮な獅子だ。鋭い眼光で射抜くように、じっとこちらを見つめている。
息がしづらいほどの圧を感じる。シャンタナと相対したときと同じ類のものだ。
震えて身動きが取れずにいると、獅子は轟くような低い声で言った。
「なぜその曲を知っている」
「……え……」
乾いた喉から細い声を発しながら、楽譜と獅子を見比べる。
いったい何が起きているのかわからない。
返答を間違えれば、すぐにでもその大きな口で食いちぎられてしまいそうだ。
「あなた、魔物ね」
「いかにも」
流暢に話す獅子を観察しながら、思考する。
こいつは少なくとも中級以上。授業で対処法を学んでいるとはいえ、一人で相手をするには危険だ。なんとかしてこの場から離脱しなければ。
そんな考えを見透かすかのように、獅子は悠々と歩んできた。
「逃げるなよ」
先ほどまでの堂々とした態度は嘘のように、急に声音が軽薄なものに変わった。
獅子はティルダに歩み寄りながら、その姿を瞬時に変化させる。
いつのまにか、羽毛のような白い髪の男に顔を覗き込まれていた。
――人間の姿をとった。上級……!
この姿なら人の中に混じることもできるだろう。
しかしいくら人の姿を形取ろうとも、魔物を見慣れたティルダの目はごまかせない。男の瞳は虹彩が開ききっていて、人のものではない。
恐怖で声が出なくなったティルダに構わず、男は優美な顔立ちに嘲笑を浮かべる。
「驚いて声も出ないか? 質問には答えて欲しかったがなあ。まあいい。おまえを聴けばいい話だ」
「私を……どうするって?」
やっと問い返しながら、杖を掴む。不意打ちで目眩し術を唱えようとした口は、男の手で乱暴に掴まれ塞がれた。
「聴くのさ、おまえを。今晩は客が大勢待っていてね。一曲でも増えれば客が喜ぶ」
「……!?」
そのとき、胸ポケットから満月ちゃんが飛び出して男に牙を剥いた。
「てぃりゅだになにする!」
満月ちゃんは男のコートの胸元に噛み付いた。
男は会話を邪魔されて苛立ったように眉をひそめ、金の指揮棒を取り出して一振りした。
次に起きた一瞬の出来事は、ティルダに衝撃を与えた。
たった数小節ばかりのトイピアノの音が鳴り響いたと思うと、空気の潰れるようなプキュッという音を最後に満月ちゃんはほどけるように消えてしまったのだ。
直感的にわかった。満月ちゃんは、たった数秒ぽっちの音楽に変換されてしまったのだ。
「ン――!!」
泣きながら絶叫することしかできなかった。
男は暴れるティルダを片手で抑えたまま、シィー…と息を吹いた。
「さ、じきに開演だ」
男を中心として、周囲の景色が急速に渦を巻いて変化してゆく。
――ああ、そんな。
ティルダは講堂の景色が全く違う景色に塗り替えられてゆくのを見ながら、暗い絶望に突き落とされた。
この魔物は、ウィストールもリインも口を揃えて「出会ったら死ぬ前に逃げろ」「とにかく霊域を展開させるな」としつこく言っていた――……特級だ。
❧ ❧ ❧
ウィストールたちが動物たちに話しかけて回っているときだった。
「ああっ!?」
アウルが突然叫んだ。
どうしたのかと問う前に、アウルは茫然とした顔で言った。
「……ティルダに預けていた僕の分霊が消えた……」
「な――」
体が冷たくなって固まりかけたが、頭を振ってなんとか思考を取り戻す。
「――っ位置は! 直前まではどこに!?」
「こ、講堂のあたり」
「行こう!」
アウルは翼を形作り、ウィストールを抱えて一気に講堂の方へ飛んだ。
近づくとすぐに異様な魔力が放たれているのを感じた。
この感覚を、よく知っている。
特級の魔物が霊域を展開しているときのものだ。
講堂周辺は今や現実と霊域とが曖昧な空間になっている。今なら講堂の扉を開ければ霊域に通じているだろう。
アウルと頷きあい、扉に手をかける。
「ウィストール!」
若い青年の声が呼び止めた。駆け寄ってくるのはリインだ。彼もこの周辺の魔力の異常を感じ取ったのだろう。
リインはウィストールの腕を掴んで止めた。
「――入るのは危険だ。霊域では、すべての事象が相手の有利に働く。あなたも痛いほど知っているだろう」
アウルが切羽詰まって喚いた――「そんなことわかってるよ! でも、ティルダが中にいるんだ!!」
「なんだって!? ああまったく、あなた方の娘さんときたら!」
リインは嘆いたが、「それでも危険だ」と制止の手は緩めない。
「そうだね」
ウィストールはやんわりとリインの手をどかす。
「でも、僕はティルダのパパだから」
リインはくっと唇を噛んだ。
「――なら、俺も一緒に」
「いいや、君はここにいて」
「シャンタナがいなければ役に立たないと思っているのか?」
「違うよ、君の魔物に対する容赦のなさを買っているんだ。僕たちは内部でなんとか隙を作らせるから、結界が綻びかけたら追撃を頼みたい」
リインは刹那の間ためらったが、すぐに頷いた。
「わかった。信じて待とう。どうか二人とも無事で」
「ありがとう」
ウィストールとアウルは手を取り合い、扉の向こうへと飛び込んだ。




