記録13 黄金の昼下がり
夢を見た。
二千年以上前の、気が遠くなるほど遠い過去の記憶を。
金の陽射しが降り注ぐボートの上で、僕らは初めて出会ったのだ。
頬を撫ぜる涼やかな風と、微かな水音で目を覚ました。
「……ん」
眩しい光が瞼の隙間から入り込んできて、目を瞬かせた。周囲に広がる水面が、金の陽射しを反射してきらきら輝いているのだ。
そして自分は、ボートで揺られている。水は川のように流れてはいないので、湖畔なのだろう。
美しい場所だ。周囲では水草がさわさわと音をたて、岸の方では花が咲き蝶が舞っている。水気を含んだ空気は清らかで肺を心地よく満たす。
絵具の中から理想の色だけを選び取って描いた絵画に入り込んでしまったかのよう。
そう――あまりにも美しすぎて、違和感がある。特に金の陽射しが柔らかく煌きすぎている。現実味がないのだ――まるで補正のかかった思い出のように。
そのときやっと、ボートの正面に誰かが座っていることに気づいた。
狭いボートの上で、思わずぎょっと身を引く。相手はインク色の上品なシャツを纏い、櫂でゆっくりと水を掬っている。シャツと同色の髪に金の瞳の少年だ。
そして、左目の下には二つの泣きぼくろ――少年時代の僕の顔だ。
「やあ、こんにちは」
少年は僕の声を柔らかく響かせて挨拶をし、陽だまりのような微笑みを湛えた。
「僕は、黄金の昼下がり。正式名はティップントップ・ジュンズリース・ライムライト・ゴールデンアフタヌーン」
「え……?」
「ああでもね、以前の契約者にもらった、アウルという煌めくような素敵な呼び名があるんだ。うんうん、きみもぜひ、アウルと。そう呼んでね。よろしく!」
その名を聞いて、自分がここにいるわけを思い出した。
彼――アウルに封印されてしまった兄を助けるために、自らアウルの霊域へと接触を図ったのだ。
魔物の霊域の中では、相手にほとんど太刀打ちできないという。真正面から戦っても勝ち筋がない。
しかも、アウルは永遠の概念を持ち、決して死なない存在だということも以前の契約者から聞いていた。
本来は霊域から脱出するには、魔物の殺害か説得の二択になるらしい。
しかし今回は必然的に、説得しか道がない。
――ヴィクターを解放して欲しいとアウルを説得しなくては。
「わかったよ、アウル。きみは自分の名前が大好きなんだね」
僕は相手の機嫌を損ねてしまわないよう、慎重に言う。
アウルは嬉しそうに頷いた。
「そうとも。アリソンがくれた名前なんだあ。名前をもらうということが、どれほど特別で素敵なことかわかるかい?」
「特別だということはわかるよ。……ところで、どうしてきみは僕と同じ姿をしているの?」
アウルは得意げに両手を胸にあてた。
「ああ、これ? アリソンの記憶を参考にしたんだ。彼女にも好評だっだし、僕自身、ほくろがいっぱいあっておしゃれで気に入っているよ」
「へ、へえー、そう……」
まさか知らない間に自分の姿を使われていたとは。アリソンからはそんなことは一言も聞いていなかったので、恥ずかしいやら嬉しいやら複雑な気持ちだ。
僕の姿でにこにこしている魔物を見つめながら、徐々に警戒心が薄れてゆくのを感じていた。
なんというか、自分で言うのもなんだが弱そうだ。
これが概念的に最強の魔物だって? 会話だってできるし、案外なんとかなるかも。
単刀直入に言ってみた。
「……今、ヴィクターを捕らえているだろう。彼を解放して欲しいんだ」
答えは明快。アウルは笑顔を崩さぬまま、「嫌だね」ときっぱり言ったのだ。
「……なぜ嫌なの?」
「だって、外の世界は地獄だ。彼は今、僕の中で幸せな夢を見続けている。なぜわざわざ苦しませる必要があると?」
「それは、本人が望んでいるの?」
「んー、今はまだ、永遠の幸福の素晴らしさに気づけないみたい。でもじきにわかってくれるさ」
直球な交渉は難しそうだ。永遠の幸福が最も素晴らしいものであり、みんなはそれに気づいていないだけだから気づかせてあげないと、という彼の思い込みは強すぎる。
仕方なく、事前に考えていた搦手の作戦を切り出した。
「なら、提案がある。僕と新しく契約して欲しいんだ。アリソンが支払ったものよりも多くの対価を渡そう」
僕が主人になれば、アウルは命令を聞いてくれるだろう。
しかし返ってきたのは思いに反するものだった。
アウルはやはり穏やかな笑顔のまま、口を大きく動かして「い、や、だ」と言った。
「い…、嫌だ? 嫌だと言ったのかい?」
「そうだよ、何かおかしい? 僕を機械やプログラムと同じだと勘違いしていないかい? 僕にも心があり義理がある。確かに僕の契約条件は前の契約者よりも大きな代償を差し出すことだけれど、きみがどんなに多くの条件を積んだとしても、僕が自動的に下僕になるわけじゃない。――わかる?」
アウルは僕の胸を人差し指でとんとん突いて覗き込み、囁いた。
「僕が、主人を、選ぶんだ。……理解できた? へなちょこなドードー鳥くん」
「――……」
切り札をあっさり否定され、言葉に詰まってしまう。
アウルはそんな僕に構わずぺらぺらと喋り続けている。
「僕の理想は高いよ。笑い声が素敵で、お花のお手入れが上手な人がいいね。それに、ユーモアのセンスがある人がいい。きみはどうやら最悪みたい。言われたことない?」
「うるさいな、僕だって冗談くらい言える!」
「うっそだあ。まあでも? 何を企んでいたのかは知らないけれど? きみのことは歓迎してあげるよ。だってアリソンの親友だもの! きみの望みも叶え続けてあげる」
ざあ、と絵画に絵具をぶちまけたかのように周囲の景色が急速に変わってゆく。
「ま、待っ……!」
まずい!
聞いた話では、理想の世界を構築されると完全にアウトだ。
幻想の世界にいることすら自覚できなくなり、脱出するという意思すら消えてしまう。
景色が、ミルクを入れたティーカップのようにぐるぐる混ざる。
止める間も無く、景色が変わった。
❧ ❧ ❧
慣れた実家の離れで、僕は目を覚ました。
金の陽射しが窓から差し込んで、描きかけのキャンバスを照らしている。僕は椅子に座ったままうたた寝でもしてしまったらしい。
どうにも頭がぼんやりする。長い夢でも見ていたようだ。
「ウィズ!」
画板を抱えた少女が、輝くばかりの笑顔で呼びかけてきた。
綺麗な黒髪に、大きなグリーンの瞳。滑らかな白い肌は赤みがさしている。
なんて可愛いんだろう。
そうだ、一緒に絵を描こうと誘ったのだった。
「アリソン」
僕が呼び返すと、アリソンはそのまま目の前まで近づいてきた。
シャンプーとおひさまの香りがふわりと鼻腔をくすぐる。アリソンはそのまま楽しげに僕の膝に乗り、頬を撫でてきた。
緊張で呼吸が止まりそうになる。そしてアリソンは徐に顔を僕の顔に近づけてきた――。
「――やめてくれ」
僕は口づけをしてこようとした彼女を止めた。
「やめてくれ、アウル」
告げた途端、アリソンのグリーンの瞳が見開かれ、陽射し色の金に変わる。
アリソン――いや、アリソンに化けていたアウルは呆然としながら「早すぎる」と呟いた。
「アウル、少し話をしよう」
冷静に説得しようとはしているが、内心では苛立ちを抑えきれなかった。
アリソンの姿を勝手に使ってこんなことをしようとしたアウルが許せない。アリソンの尊厳を傷つけることだ。
なにより――自分が許せない。アウルは、僕の深層心理を読んで僕の望むことを叶えようとしたはずだ。興奮して暴れかけた心臓が、あんなことを望んでいた自分が、殺したいほど許せない。
アリソンが僕を好きになるはずがないのだ。
……彼女には恋人がいた。恋人を裏切って僕にあんなことをするような子じゃない。
アリソン・アウルは悔しそうに顔を歪め、手を上空にあげた。
「……今回はだめだったか。次こそはうまく楽しませてあげよう」
「アウル! 僕はそんなのいらない!」
必死に叫んだが、再び急速に景色が変わり始めた。
❧ ❧ ❧
「もう、ウィズはこんなところで寝て」
透き通った少女の声が響く。
誰かが、肩にふわりとブランケットをかけてくれた。
僕はふと目を覚ました。
大きなガラス窓から、金の陽射しが降り注いでいる。
ここは僕の家の居間だ。
「あ、起こしちゃった? ごめんね」
ぼんやりする視界で見上げると、華奢な少女が肩を竦めた。
「――アリソン。ありが、……ッ!?」
ブランケットを寄せながらお礼を述べようとして、息を詰まらせる。
アリソンの髪が長い。彼女の髪は肩につかないくらいの長さのはずだ。「伸ばしてみようかな」なんて言っていたけれど、叶えられないままに死んでしまったから。
ありえないんだ。ありえないんだよ、彼女があの先を生きていることなんて。
「アウル。もうやめよう」
アリソンのグリーンの瞳が、見開かれた瞬間に金に変わる。
アリソンに化けていたアウルは、ぐしゃっと顔を歪め「なんで」と呟いた。
「なんでわかるんだ……おかしい、おかしいよ。僕の幻想は強くて完璧なものだ。多少の不都合も違和感も感じさせないはずなのに!」
「僕には効かないよ」
「そんなはずない!!」
再び景色が急速に変わり始める。
「――……」
僕は彼と対決する覚悟を決めて、変わりゆく景色を静かに見つめた。
❧ ❧ ❧
「……アウル」
呼びかけると、アリソンの瞳が金色に変わった。
「アウル」
呼びかけると、親友の瞳が金色に変わった。
「アウル、無駄だ。僕にはわかる」
呼びかけると、アリソンの瞳が金色に変わった。
そうして僕たちは、幾度も幾度も対決した。
103回目の幻想の中で、ついにアウルは言った。
「きみほど疑り深い魂は初めてだ。なぜそこまで心を開けない? いつもきみは、たった数秒足らずで夢から覚めて、ここが現実じゃないと気づいてしまう。すぐに僕の存在を認識する! あまりにも、早すぎる……!」
「僕は疑り深いわけじゃないよ」
僕はきっと、悲しみに満ちた顔をしていただろう。
それでもアウルをまっすぐに見つめ返し、真摯に向き合おうとした。
「僕は昔から記憶力がいいんだ。どんなに細かいことでも、何年昔のことだろうと覚えている。一度見たものも聞いた音も忘れることはない。
そんな僕が毎日毎日、心の底で望みながらもありえないと否定してきた光景ばかりをきみは見せてくるんだ――この願いが決して叶うわけがないということが、暗示のように魂に刻み付けられているのに。だから叶った瞬間に、これは幻想だと気づいてしまうんだよ」
アウルは悲鳴のような声をあげて取り乱した。
「そんなの、あんまりだ! 最も叶えたい願いが、絶対に叶わないなんて!」
「それはもういいんだ。人生って、きっとそんなものだろ。すべてが叶うわけじゃない。他の小さな願いがいくつか叶えば充分だ」
アウルは頭を抱えて狼狽ていた。髪や口元からはインクのような液体がぼたぼた滴り落ちている。
「ああ、ああ、忌々しい。なんて忌々しいにんげんだ……!」
人の望みを叶え、その幸福を永遠に見つめることが存在意義であるからこそ、それが絶対にできない相手に初めて向き合った動揺は相当なものなのだろう。
――このまま僕が幻想を破り続ければ、この魔物は死なずともプライドがずたずたになって弱っていくな。
そう気づいたが、アリソンと親しかった彼を必要以上に傷つけたくはない。
僕はそっと声をかける。
「どうか、話だけでも聞いてくれないかな」
「……わかった」アウルは全身からインクを滴らせながらぼうっと呟いた。「わかったよ、いいよ。それがきみの望みなら。僕は誰かと話すのが大好きだから……」
僕は意を決して切り出した。
「僕と契約して言うことを聞いてくれるなら、きみの望む代償をあげる。僕に用意できるものなら、なんでもいい」
アウルの目元がぴくりと動いた。
「……なんでも?」
「うん」
アウルは口端を吊り上げて不気味に笑んだ。
「じゃあ、代償として、約束をしてほしい。僕を決して孤独にしないという約束を。僕を置いて死なないで欲しいんだ」
「なんだって……?」
「常々思っていたんだ。にんげんがよくするように、一緒に過ごすパートナーが欲しいって。アリソンが死んでしまったとき、僕は本当に後悔したし、きみの悲しみもよくわかる。だから、僕たちは同じ時を歩もう? 大丈夫、きみには僕が永遠のプロテクトをかけてあげるから、寿命なんて心配いらない」
「――それ、は……」
重大な岐路に立たされているのを感じた。
それは、アウルとともに永遠になるということじゃないか?
――想像がつかない。今、適当に返事をしてしまったら、未来の僕は後悔しないだろうか?
100年後は? 300年後の僕はどう思う?
――予感がある。僕の人生がめちゃくちゃにされるような、どうしようもなくゾクゾクする予感が。
一方でアウルは、軽い気持ちで誘っているだろう。僕を忌々しいとのたまいながらこんな約束を持ちかけているのだから。
彼はただ単に、『パートナーをもつという人間の真似事』に憧れているだけだ。彼にとって僕はごっこ遊びに都合の良い人形でしかなく、相手は僕じゃなくとも構わないのだ。
これから発する一言一言が、僕の人生を大きく左右する。
そんな緊張から喉を震わせ、恐る恐る答えた。
「きみを置いて死なないという約束はできない。それはつまり、きみとともに永遠に生きるということだよね。それは……耐えられるか、わからないから」
アウルはとても悲しそうな顔をした。彼なりに本物の願いだったのかもしれない。
「こういう約束はどうかな」
ついに僕は、未来を決定づける言葉を口にした。
「きみにふさわしい次の契約者が見つかるまで、僕はきみを孤独にしない。きみが僕ではない人と過ごしたいと思うまでは、ともにいよう」
アウルは目をぱちくりさせてこちらを見返した。
「……きみ以上の代償を用意できる契約者が、他に見つかるとでも?」
「きっとどこかにいるさ。きみの生み出す幸福な幻想は、人によっては喉から手がでるほど欲しいものだろうから」
アウルは何か言いたげに口を開いたが、結局は何も言わなかった。
そして心底おかしいというように、意味ありげな笑い声を漏らした。
「ふ、ふふ。わかった、それでいい。僕のための約束――それを代償とし契約をしよう、善良なウィストール。いつも僕を見破る、忌々しいきみよ」
「ありがとう。……きっと僕らも良い友だちになれる。そう思うよ」
アウルはやんわりと微笑んだ。そして蝋のような白い手を差し出してきた。
「……さあ」
その手を握れば、もう後戻りはできない。
それでも、後に引くわけにはいかなかった。
震える手で彼の手をとる。手のひらが合わさると、アウルは額同士をつけてきた。その途端、ごうっと突風が巻き起こり、全身を取り囲む。
風圧で思わず閉じていた目を開いた時、目の前で額を寄せていたアウルの顔があった。
僕の理想を読み取るというだけあり、美しく妖艶に微笑むその姿は、どうしようもなく僕の心を乱してくる。
アウルと魂同士が契約で強固に結びついたのを感じた。
そして、自分がただの人間ではなくなったという感覚も。
僕は、不死になったのだ。
条件を満たさねば死を許されない、仮初の不死に。
今後あらゆる災厄や悪意が僕を襲おうとも、アウルが守ってくれるだろう。
同時に、いくら死を望むようになったとしても、条件を満たさねばアウルがそれを許さないだろう。
アウルは額を寄せたまま、甘い声で囁いた。
「なんでも言って、僕の新たな契約者。僕は、きみのためにどんなことでもしよう」
「――アウル。きみの契約者として、最初のお願いだ」
「うん」
「ヴィクターを解放して」
「……わかった。きみのお気に召すままに」
そして、ヴィクターは解放された。……変わり果てた状態で。
……アウルの永遠の幸福の中で過ごすうち、ヴィクターは途中で幻想だと気づいてしまうこともあった。脱出を図って恋人に化けたアウルを殺そうとしても、アウルは銃でもナイフでも火でも死なない。
絶望したヴィクターは、霊域内部で自殺をした。
けれどアウルはそんな結末を許さない。幸福であることを強制するのだ。
そうして、再び幸福な幻想をヴィクターに見せてやり直す。
ヴィクターはしばらくは幸福に過ごすが、5年後、10年後、あるいは50年後に幻想の世界であると気づいてしまう。妻も子どもも偽物であると気づいた彼は、再び自殺する――そんなことを、僕が助け出すまでのわずかな間に5044回も繰り返していた。
助け出したときのヴィクターは、すべてに怯え、すべてを疑っていた。
現実世界に戻ったということを何度言い聞かせても、常に「ここは現実か、幻想か」と疑ってしまう後遺症を抱え続け、死ぬまで自殺衝動が消えなかった。
45年後。ヴィクターは病床で、僕に言った。
「俺はじき死ぬだろうが、怖くはない」
「……そうなの?」
「ああ。あの魔物のせいで、もう幾度も経験しているしな」
僕は彼の白くなった髪と、しわの刻まれた横顔を見つめた。
かつて鋭かった目つきは、今は不思議と穏やかだった。
「死んでも、またすぐに次の人生が始まる気がしている。実際、あいつの幻想の中で俺はこの年まで生きたことが何度もある。今回もそんな気がしてな」
「今が、本物じゃないと思っているの?」
「いつだって夢か現かわかっていないさ」
たまらなくなって言葉を詰まらせた僕に、彼は、ふ、と口端を上げて見せた。
「柄にもないことを言った。気にするな」
数日後、彼は亡くなった。
葬式で彼の棺を覗き込んだとき、僕は覚悟していたはずのアウルとの約束の重みにぞっとした――老いた兄を、僕は変わらぬ若い姿のまま見つめている――その異様さを思い知らされたのだ。
落ち込んだ僕を、アウルは必死に慰めようとしてきた。
「ウィズ、泣かないで。ね、ね、僕がヴィクターになってあげる! 彼の姿も言葉も全部再現してあげるから。だから、幸せに笑って――」
やはりあの約束は過ちだったのだろうか?
けれど、僕は――……。




