第二十五話【悲報】星空の下、彼女の記憶と俺の毛根が散る
美瑛の丘でのヒグマとの遭遇という、予想外すぎるサバイバル体験を乗り越えた俺、平凡太と白雪 忘は、ハーレム号(中古ワゴン)の中で、しばらくの間、荒い息を整えていた。アドレナリンが全身を駆け巡り、心臓はまだバクバクと激しく脈打っている。生きた心地がしなかった。
「…マジで…死ぬかと思った…」俺はハンドルに額を押し付け、ようやく絞り出した。
「…うん…怖かった…」助手席の忘も、まだ声が震えている。顔面は蒼白で、瞳には怯えの色が残っていた。
俺たちは、しばらく無言で、ただ互いの存在を確認するかのように、そこにいた。車内には、荒い呼吸の音と、エンジンのアイドリング音だけが響いていた。北海道の雄大な自然は、美しいだけではない。時として、こうして牙を剥くのだということを、身をもって体験した。
(…でも、忘を守れた。よかった…)
恐怖はあったが、それ以上に、彼女が無事だったことへの安堵感が大きかった。俺が手を引いて走った時、彼女の小さな手から伝わってきた温もりと、必死に俺についてきてくれた健気さが、妙に胸に残っている。
やがて、少しずつ落ち着きを取り戻してきた俺は、忘に向き直った。
「忘、本当に大丈夫か? 怪我とかしてないか? どこか痛むところは?」
「う、うん…大丈夫…。凡太さんが、ずっと手を握っててくれたから…転ばなかったし、怪我もないよ」忘は、俺の顔をじっと見つめて言った。その瞳には、恐怖の色が少しずつ薄れ、代わりに安堵と…そして、何か温かい感情が宿り始めているように見えた。
「そ、そうか。なら良かった…」俺は少し照れながら視線を逸らした。手を握っていたのは、正直、俺の方がパニックになって無我夢中だったからだが、結果的に彼女を支えられたのなら良かった。
「…ねえ、凡太さん」
「ん?」
「今日の予定、どうする…? もう、ペンションに向かう?」忘は不安そうに尋ねる。さすがに、ヒグマに遭遇した後では、これ以上観光を続ける気分ではないのかもしれない。
俺も少し考えた。確かに、今日はもう安全な場所でゆっくり休みたい気持ちもある。だが、同時に、このまま恐怖体験だけで一日を終わらせてしまうのも、なんだか悔しい気がした。せっかくの小旅行なのだ。忘にも、楽しい思い出を作ってほしかった。
「…いや」俺は意を決して言った。「もう一箇所だけ、行かないか?」
「え?」
「忘が言ってたろ? 綺麗な星空が見たいって。この近くに、めちゃくちゃ星が綺麗に見えるって評判の、小さな展望台があるらしいんだ。そこに行って、満天の星空を見てから、ペンションに向かうってのはどうだ?」
もちろん、リスクはある。夜道を走ることになるし、また何か予期せぬ出来事が起こるかもしれない。だが、今日の恐怖を上書きするような、美しい体験を、二人で共有したかった。
俺の提案に、忘は少し驚いた顔をしたが、すぐにその瞳に好奇心の光が灯った。
「…星空…」
「ああ。きっと、最高の景色が見られるはずだ。今日の嫌なことは全部忘れて、最高の思い出を作ろうぜ」俺は、できるだけ明るい声で言った。
忘は、しばらくの間、じっと俺の目を見ていたが、やがて、ふわりと微笑んだ。
「…うん! 行きたい! 連れてって、凡太さん!」
その笑顔は、さっきまでの怯えが嘘のように、明るく輝いていた。
「よし、決まりだな!」
俺は再びハーレム号のエンジンをかけ、星空スポットとして有名な展望台へと車を走らせた。日が暮れていくにつれて、空の色はオレンジから紫、そして深い藍色へと変化していく。車窓から見える景色も、昼間とは違う、静かで神秘的な表情を見せていた。
道中、俺たちは他愛のない話をした。好きな音楽のこと、子供の頃の思い出、そして、これから始まるかもしれない、他の「輝き」を探す旅のこと。忘は、ヒグマ遭遇の恐怖から立ち直ったのか、楽しそうに話し、よく笑った。その声を聞いているだけで、俺の心も温かくなった。
やがて、車は目的地である展望台の駐車場に到着した。周囲には他に車は一台もなく、まさに貸し切り状態だ。俺たちは車を降り、展望台へと続く短い坂道を歩いた。空気が澄んでいて、吐く息が白い。
そして、展望台の上に立った瞬間、俺たちは息を呑んだ。
そこには、言葉を失うほどの、圧倒的な星空が広がっていたのだ。
地平線の彼方まで続く、漆黒のキャンバス。そこに、まるでダイヤモンドダストを散りばめたかのように、無数の星々が瞬いている。天の川も、肉眼ではっきりと見える。都会では決して見ることのできない、本物の、宇宙の輝き。
「うわぁ……!」
忘が、感嘆の声を漏らした。その瞳は、空に輝く星々と同じくらい、キラキラと輝いていた。
「すごい…! こんなにたくさんの星、見たことない…!」
「ああ…本当に、すごいな…」
俺も、ただただ、その壮大な光景に圧倒されていた。ちっぽけな悩みや不安が、この宇宙の広大さの前では、なんて些細なことなのだろうか、と思えてくる。
俺たちは、しばらくの間、言葉もなく、ただ黙って星空を見上げていた。時折、流れ星がすっと夜空を横切っていく。
「…綺麗…」忘が、ぽつりと呟いた。その声は、感動で震えているようだった。
「ああ、本当に綺麗だ」
「連れてきてくれて、ありがとう、凡太さん」忘は、俺の方を向いて、満面の笑みを浮かべた。それは、これまで見たどの笑顔よりも、心からの喜びと感謝に満ちた、最高の笑顔だった。「今日、色々あって怖かったけど…最後にこんな素敵な景色が見られて…本当に嬉しい…!」
彼女の瞳からは、またしても涙が溢れていた。だが、それは悲しみの涙ではなく、純粋な感動の涙だった。
「私、今までずっと、自分の力が怖くて、楽しいこととか、嬉しいこととか、感じるのを避けてきた…。でも、凡太さんと出会って…少しだけ、変われた気がする。怖いこともあるけど、それ以上に、嬉しいこと、楽しいこともたくさんあるんだって、知ることができたから…!」
忘の感情は、最高潮に達しているようだった。星空の美しさ、ヒグマ遭遇からの安堵感、俺への感謝、そして未来への希望…。それらが渾然一体となって、彼女の中で、かつてないほどの強い「喜び」と「幸福感」を生み出している。
その瞬間、俺は再び見てしまった。
忘の身体から、あの虹色の、温かく力強いオーラが、満天の星空にも負けないくらい、眩しく溢れ出すのを!
車内で見た時よりも、明らかに強く、そして美しい光の奔流。それは、まるで彼女の魂そのものが輝いているかのようだった。
「わ…忘…!?」
だが、その美しさとは裏腹に、俺の胸には、再び強烈な嫌な予感が警鐘を鳴らす! まずい! この感情の高ぶりは、危険だ!
虹色のオーラは、星々の光と共鳴するかのように、ますます輝きを増していく。そして、忘は、恍惚としたような、それでいてどこか不安げな表情で、俺を見つめていた。
「凡太さん…ありがとう…本当に、ありがとう…大好き…」
その言葉を最後に、彼女の瞳から、ふっと光が消えた。
まるで、燃え尽きた星のように、彼女の身体から力が抜け、俺の腕の中に、ゆっくりと倒れ込んできた。
そして、彼女の瞳は、虚ろに、満天の星空を映していた。さっきまでの輝きは、どこにもない。
「…………あれ…?」
忘が、小さな、か細い声で呟いた。
「……ここ、どこ…? すごく、星が綺麗…」
俺は、息を呑んだ。
まさか。またしても…。
「……あなたは…だれ…? どうして、私を抱きしめてるの…?」
忘は、俺の腕の中で、まるで初めて会う人を見るかのような、怯えた、そして全く感情の乗っていない瞳で、俺を見上げていた。