野球部と自転車
「ほんと勘弁して欲しいよ。空回りしてるの自覚しろっての」
「野球経験ないくせに威張るんだよな、あいつ。気分次第で怒鳴り散らかすしよ」
俺が新しい監督について愚痴をこぼすと、隣で併走している友人が愚痴を追加した。
以前なら十八時前には終わっていた練習も、新監督になってから十九時を越えるのも珍しくなくなって、今も日が完全に落ちてしまっている。
野球部の練習場は公園の一部を借りていて家からはかなり遠く、ほとんどの生徒が自転車で通っている。俺もそうだし、隣で漕いでいる友人もそうだ。
公園までの道は木々の中を突っ切るように進むので、夏場は日陰になっていて涼しく移動は嫌いじゃなかった。
だけど、今は……。
「朝はいいけど、これだけ暗いとなんかやだよな」
「なんだよ、びびってんのか?」
「んなわけないだろ!」
友人の叫びが静まりかえっていた帰り道に響く。
ここは住宅地から離れた場所にあり、山が近いので声が山彦のように反響している。
思わず身をすくめた俺は動揺を悟られないように、あえて陽気に声を掛けた。
「そういや、さっき練習場の隅っこで何してたんだ?」
俺が自転車の鍵を何処かに落として探している間、こいつは待ってくれていた。
背を向けていて距離があったのでよくわからなかったけど、何かを蹴っていたような?
ボールでも落ちていたのかもしれない。
「あ、あー、あれか」
なんだ、この反応。
軽い気持ちで問いかけただけなのに言い淀んでいる。
後ろめたいことでもあるのか?
「なんだよ、何してたんだよ」
どうでもいい話題だったけど、そういう態度を取られると気になるってもんだ。
「練習場の入り口の近くに地蔵があったろ。むしゃくしゃしていたから……蹴っ飛ばした。あれって以外と簡単に倒れるんだな」
「はあっ!? なにやってんだ、罰が当たるぞ!」
「バチって、お前はじいちゃんかよ」
鼻で笑っているが悪いことをした自覚はあるようで、頬が引きつっている。
「ちゃんと元に戻して謝ったんだろうな」
「お、おう」
……嘘臭い。
明日、早めに行って確認して手を合わせておこう。
しかし、監督のせいでむしゃくしゃしていたのはわかるけど、そういうことするかね。
友人付き合いを考え直した方がいいかも。
「そういうところよくないぞ。物や人に当たるのは最低だ。それじゃ、あの監督と一緒だ」
「はいはい、悪かったって。そんなに怒らなくてもいいだろ」
友人はすねてしまったのか、それからは何も話さず黙々とペダルを漕ぐ音だけが夜道に流れていた。
自分から話しかけるのは負けたような気がするので俺も黙っていたのだけど、周囲の薄暗さと沈黙に耐えきれず、何か話す切っ掛けはないかと辺りを見回す。
右手は急勾配になっている山の斜面、左手は鬱蒼と生い茂る林。
少し下り坂なので漕ぐのは楽な筈なのに妙に脚が重く感じる。
まるで、坂を上っているかのような――
「チェーンが錆びてんのか。なんか、漕ぎにくいんだけど」
なんでもいいから話がしたかったので、大きめの愚痴をこぼしてみる。
……反応はない。
まだ不機嫌なのか。意固地なヤツだ。
ここで先に折れるのは負けた気がする。だけど、この不気味さに耐え続ける方が辛い。
横目で隣を確認しようかと思ったタイミングで、ようやく声が聞こえた。
「ぞいなもでうそ」
えっ、今なんて言ったんだ?
聞き間違えか?
まったく理解できない言葉が耳に届いた。
「すまん、今なんて?」
聞き返すと
「たっいてっ ぞいなもでうそ」
やはり、言葉の意味がわからない。
耳を澄まして集中していたので、声はハッキリと聞き取れた。
でも……。
「おいおい、からかうなよ。悪かったって。俺をびびらせるつもりかよ」
さっきの発言を根に持って、今度は俺を驚かそうという魂胆なんだろう。
まあ、この状況と相まって一瞬だけ、びびりかけたのは認める。
「うがち」
「だから、もういいって。怖い怖い、俺の負けだから」
淡々と意味不明なことを言う友人。
悪ふざけにしては度が過ぎる。そもそも、こんなにしつこく嫌がらせをするようなヤツじゃない筈なんだが。
気になって視線を横に向けようとしたのだが――頭が動かない。
「えっ」
何度力を入れても左右に向くことができない。
ど、どういうことだ!?
まるで、頭を両手で誰かに捕まれているかのように首から上が動かないっ!
「えっえっえっ」
状況に脳が追いつかない。
なんで、頭が動かない?
えっ、どうして?
なんで?
「なあ、頭が動かねえぞ!」
俺が叫んでいるのに隣からは反応がない。
自転車を漕ぐ音だけが流れてくる。
「なあっ、なあって! 返事ぐらいしてくれよ!」
声をかけているのに無視。
俺の異常さは伝わっているはずだ。こんなにも必死に叫んでいるのだから。
だけど、隣からは――きぃきぃきぃ、と漕ぐ音だけが。
あまりの異様さにどうにかなりそうだ……。
確認しようにも頭は固定されている。
自転車を漕ぐのを止める……気にはなれない。
理由も根拠も何もないけど、今ここで足を止めたら――終わる気がした。
何が終わる、のかも、わからないけど。
ただ「止まるな!」と本能が訴えかけている。
脚は相変わらず重い。
夏の蒸し暑い空気が粘着力のある液体のように体にまとわりついている、かのような錯覚まで感じ始めている。
それにもう一つ、さっきから気になることがあった。
きぃきぃきぃ
隣から聞こえるペダルを漕ぐ音。
きぃきぃきぃ
それが耳元で聞こえるのだ。
併走しているのなら漕ぐ音はもっと下から聞こえるはず。
だけど、音の位置が高い……ように感じる。
練習着に染みこんでいた汗が一気に零度まで冷えたかのように、背筋に悪寒が走る。
見たい。
見ない方がいい。
せめぎ合う二つの意思。
隣を見れば答えはハッキリする。
頭は相変わらず動かないが、視線を限界まで横に向ければ少しは現状が確認できる。
なのに目が動かない。
違う。
眼球を動かしたくない。
だけど、俺の意思に反して視界がゆっくりと横にずれていく。
正面だった風景が横に、横に、横に。
視界の隅にタイヤの一部が見えた。
普通の自転車のタイヤ。なんら、おかしな点はない。
……見た目は。
問題はその位置だ。
頭の高さにタイヤが存在している。
地面ではなく、俺の頭の横でタイヤが回っている。
「はあっ?」
あまりにも予想外すぎて恐怖を通り越し、純粋な驚きの声が口から出た。
訳がわからない。
なんで、ここにタイヤがあるんだ。
だとしたら、本来タイヤがある地面の方には……?
恐怖よりも好奇心が勝った俺は、躊躇うことなく視線を下に向ける。
――何もない。
地面に接しているはずのタイヤもない。
何か恐ろしいものが見えるのではないかと身構えていたのだが、ほっと安堵の息を吐く。
途端、ペダルを踏む足が弱まり速度が落ちた。
結果、隣が俺より少し前に進んだ。
さっきまではタイヤの先端しか見えていなかったのだが、その全貌が明らかになる。
逆さになっていた。
隣で走っている自転車と乗っている友人が――逆さだった。
上下を百八十度回転させている。
友人の頭が地面すれすれの位置に。タイヤが上に。
その状態で平然と自転車を漕ぐ友人。その目は正面をじっと見据えている。
「どう、なってん、だ」
限界まで目を見開き、ただ、ただ、その光景を見つめていた。
自転車と一緒に逆さで宙に浮いている友人。
地面に叩き付けられることもなく、その状態が当たり前かのように走り続けている。
俺の声に反応した友人がゆっくりとこっちを向いた。
逆さ向きの笑顔がやけに不気味に見える。
「よだんたしうど」
また、わからないことを口走っている。
「なたっへらは かんな」
やめろ、やめろ!
何が言いたいんだよ。何がしたいんだよ、お前は!
普通の状況なら「下らないこと言うな」と笑えるが、今、こんな状態で笑えるわけがない。
このままでは頭がおかしくなる!
友人から目を逸らして、再び前だけを見つめようとした――その時。
あることに気づいた。
いや、気づいてしまった。
いつからだ?
俺はいつから……後ろ向きに進んでいるんだ!
さっきまで正面を向いて道に視線を落としていたせいで気づかなかった。
普通なら周りの景色は後ろに流れていく。前に進んでいるのだから当たり前だ。
だけど今は 景色が前に流れている。
ペダルを漕いでいるのに俺は後退していた。
慌ててもっと強くペダルを踏む。
景色が早く流れるようになった――前に。
なんでだよ! なんで、前に進まないんだ!
俺と友人は後ろへ、後ろへ、後ろへと進んでいる。
家からはどんどんと遠ざかり、出発地点である練習場へと近づいていく。
異変はそれだけでは終わらなかった。
寒い。異様に寒い。
日は落ちているけど真夏。冷房を入れないと眠れない熱帯夜が続いていた。
だというのに、さっきから震えが止まらない。
特に背中側が異様なまでに寒い。
その寒さは時間を追うごとに酷くなっている。
つまり、この寒さの原因に近づいている、ってことなのか!?
「ヤバい、ヤバい、ヤバい!」
逃げようと必死になって足掻くが、自転車の後退する速度が上がる一方。
このまま練習場にまで戻ったら、もしかして、この状況から抜け出せる、とか?
なんて淡い期待を抱きかけたが、背中の寒さが限界を超えて、まるで氷を押しつけられているかのような痛みへと変貌している。
理屈じゃなく、本能でわかってしまう。
このまま行くと……俺はっ!
「れあ」
沈黙していた逆さの友人がぽつりとこぼす。
言葉は意味不明なままだが、感情は伝わってきた。
辺りを見回して首を傾げている。その姿は相変わらず逆さのままだけど。
友人が首を異様な角度で後ろに曲げて、じっと何かを見つめていた。
その動きに釣られて俺も自然とそっちへ頭と視線が移動する。
さっきまで首から上が動かなかったという事実も忘れて。
「ひぃっ」
かすれた悲鳴が出た。
俺たちの後方には闇が佇んでいる。
黒以外が存在しない、見ているだけで吸い込まれそうな漆黒。
それだけでも恐怖なのに、その中心に優しく微笑むお地蔵様がいた。
それも逆さの状態で。
かなり後方にいるというのに、その姿がハッキリと見えた。
後方に進んでいるせいで姿が徐々に大きくなっていくのだが、距離からしておかしい。
本来は俺たちの膝ぐらいの大きさしかなかったはずなのに、今は俺たちと同じぐらいの大きさに見える。
出尽くしたと思っていた冷や汗が、更に大量に湧き出た。
泣き喚きたくなるところをギリギリで抑えて、強引にでも冷静になろうと正面に向き直る途中に友人の顔が見えた。
後悔と怯えが入り交じった表情で大粒の涙を流している。
「いさなんめご いさなんめご」
言葉は不明なままだけど、懸命に謝っているのが伝わってきた。
が、
その情けない姿を見た瞬間、恐怖を怒りが凌駕した。
「お前、元に戻すどころか逆さにしたのかよ!」
大声で友人を怒鳴りつけた。
泣きながら何度も頷いている。
こいつのせいで巻き込まれているのか!
その横っ面をぶん殴りたくなったが、そんなことをしている余裕も時間もない。
背後の地蔵がどんどん近づいてくる。
いや、俺たちが自ら近づいている。
「どうにかしないと、どうにかしないと」
自分に言い聞かせるように何度も呟く。
冷静になれ、冷静になれ。
この現状は元友人のせいで間違いない。
お地蔵様の罰が当たっている。
再び後方をちらっと確認すると、距離が縮まっている。
よく見ると、お地蔵様の口角がさっきよりも吊り上がってないか。微笑みではなく、満面の――醜く歪んだ笑みへと変貌していた。
「ふっ、はっ、はっ、はっ」
慌てて顔を逸らした。
もう二度と振り向かない!
「なたっへらは」
不意に元友人が話しかけてきた。
さっきまで号泣していたのが嘘のようにとぼけた顔をしている。
こいつ……お前のせいでこんなことになっているのに、その間抜け面はなんなんだ。
現実逃避なのか、それとも既に精神状態がおかしくなっているのか。
逆さまで自転車漕いでいる時点でまともではないが。
「くいにいく」
えっ。ずっと意味不明なことばかり言っていたのに今のは聞き取れたぞ。
食いに行く、って言ったのか?
もしかして、こいつは意味不明なことを話しているのでは……ない?
「もう一回言ってくれ」
怖かったが、この現状を打破する何かになるのではないかと淡い期待を込めて問う。
「か くいにいく かんな」
少し言葉は変化したがほとんど同じだ。
ちゃんと意味のあることを話している、のか?
「くいにいく」だけは理解できる。でも、他の部分がわからない。
くっそ、こいつだけ暢気な顔をしているのが無性に腹が立つ。
逆さのくせになんで焦らな……あっ、いや、待てよ。
逆さの元友人。
逆走。
逆さ地蔵。
瞬間、疑問が氷解してすべてが繋がった!
「全部、逆さまか!」
そう、言葉までも逆さまになっているんだ!
だから「くいにいく」だけは普通に聞こえた。
謎は解けた。法則も理解した。だけど、ここからどうすればいいんだよ!
「って、答えは一つか」
お地蔵様がこれをしているなら、逆さまのお地蔵様を元に戻すしかない。
そして、必死に謝って許しを請う。
これしかないだろう。
「おい、今からお地蔵様を元に戻すぞ」
「?ん」
「だから、お地蔵様を元に戻して謝るぞ」
「だんてっいをにな」
今のは「何を言ってんだ」ってことだよな。
ああ、そうか。こいつは逆さ状態だから俺の言葉が逆さに聞こえているのか。
ということは。
「すどもにとも をまさうぞじお」
「でんな」
こいつ、まだ現状を把握していないのか。
「いいから、言うことを……えがたし らかいい」
「んう、う」
俺の迫力にびびったのか渋々だが頷いている。
自分が悪いという自覚が少しはあってくれよ。
「らかるいでんすす にさかさまい」
これで間違ってないよな?
「くづかちにうぞじ でいこできんほ」
自転車漕いだまま逆さ言葉を考えるのしんどい!
今、人生で一番頭を使っている!
「かとこういうそ」
パンッと手を鳴らして大きく頷いている。
言葉は通じてくれているようだ。
「すども にとも をうぞじ」
「たっかわ」
何とか会話が成立した。
あとは腹をくくって……全力で漕ぐ!
サドルから腰を浮かして、体重をかける。
寒気が酷くなっていくがこれしか方法が思いつかない。
後ろを見ないように気をつけながら周囲を確認する。
左手の方向に練習場のフェンスが見えてきた。
もう少しだ。
背中が寒いどころか、巨大な冷凍庫に閉じ込められたかのように全身が冷たくなっている。
歯がガチガチと鳴り、全身が小刻みに震えているが、無視だ無視!
フェンスが途切れ、練習場入り口の門が視界の隅に映る。
「行くぞ。じゃない……ぞくい」
元友人に一声かけて、大きく息を吐く。
二度と振り返らないと決めていたが、意を決して振り返るしかない!
息を合わせるために元友人を経由して後方に視線を移動させ……いない。
隣にいるはずの元友人の姿がない!
辺りを見回すと、前方に小さくなっていく元友人の背が見えた。
「一人で逃げやがった!」
逆に進んでいるのを知って、方向転換したのか!
あのくそ野郎!
こっちは今更止まれない。もう、一人でやるしかない!
急いで後方に顔を向けると――お地蔵様の顔があった。
じっとこちらを見ている。
人間だったら呼吸を感じる距離。
心臓が止まりそうになるぐらい驚いたが、悲鳴も恐怖もかみ殺して自転車から飛び降り、お地蔵様に抱きついた。
「すみません! すみません! すみませんっ!」
両手に感じる石の冷たさと重み。
何度も声に出して謝りながら、お地蔵様を回転させて正常な体勢にして地面にそっと置く。
「本当にごめんなさい! あいつにも必ず謝らせますので、どうかお許しください!」
目を閉じて手を合わせて、何度も何度も謝罪の言葉を繰り返す。
どれくらい時間が経過しただろう。寒気と体中にまとわりついていた違和感が跡形もなく消え失せた。
恐る恐る目を開けると、目の前には穏やかに微笑む――お地蔵様がいた。
「許して、もらえたのか」
全身の力が抜けて、その場にへたり込む。
しばらくは立てそうもない。
少し前までは恐怖の対象でしかなかったのに、今は側にいるだけで安心できる。
その事実が罰の終わりを告げていた。
「お、おーい、無事かー」
背中越しにカスの声がする。
振り返る気力もなければ返事をする義理もないのでシカトした。
「なんかさ、普通に進めるようになったから……あっ、いや、そうじゃなくて。お前が心配だから戻ってきたんだよ! 大丈夫そうでほっとしたぜ!」
早口で言い繕っているが今更何を言っても無駄だ。
まだ、背後で言い訳を並べている元友人――現クズ野郎を無視して、お地蔵様に手を合わせた。
「こいつは罰として、お地蔵様と同じ状態にして、そこの木にでも吊しておきますので」
「まさか逆さま!?」