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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

通知表

作者: 七里田発泡

 6年1組のエアコンは昨日から故障したままだった。


 生徒たちは窓から差し込んでくる午後の太陽の日差しにあてられ、夏の暑さに対し口をそろえて文句を言っている。不満を口にしたところで何が変わるわけでもなく、容赦ない暑さは生徒の体力をジリジリと消耗させていく。


 窓際の後ろから二番目の席に座っている佐藤は額に球のような汗を浮かばせながら、生唾を飲みこんだ。さっきから滝のごとく汗を流し、視線を床へと落としているのは自分の名を呼ばれる瞬間が刻一刻と近づきつつあるからだ。


 今回こそはA判定をもらいたい。それに見合う努力をしたとは言えないが、何かの間違いや奇跡によって自分の通知表にAの一文字が書き込まれていやしないだろうかと夢想する。


 成績の振るわない通知表を親に渡す時のあの緊張感と恐怖は何とも名状しがたく避けれるものであれば避けたい。佐藤の今の心境は、さながら死刑執行の瞬間を待つ囚人に近かった。


「遠藤くん」


 担任から名を呼ばれた遠藤の表情は佐藤とは対照的に自信に満ち溢れている。目鼻立ちの整った顔にスラリとした体躯。容姿も優れている上に成績優秀でスポーツ万能とくればクラスの女子が放っておくはずもなく、彼の一挙手一投足に黄色い声があがり、肩で風を切るようにして歩く彼の背中に誰もが注目した。


「遠藤くん。よく頑張ったわね」


「先生のご指導あっての事です。こちらこそありがとうございます」


 教壇に立つ担任からの労いの言葉に微笑みを浮かべながら彼は自分の名が記載された通知表を両手で丁寧に受け取り、クラスメート達の視線を一身に浴びながらゆっくりとした動きで自分の席につく。


 そして彼は通知表の中身を改めることなく、そのままランドセルの中にしまい込んだ。確認せずとも自分の成績はオールA判定だということを確信しているのだ。


 ――嫌なヤツ。


 佐藤は彼に怪訝な目を向け、内心で毒づくだけに留めた。遠藤の悪口を一度口にすれば彼の親衛隊から羨望からくる男の見苦しい嫉妬だと糾弾されてしまうかもしれない。


 女子の反感を買うと残りの小学校生活は地獄を見ることになること間違いなしなので遠藤に関する話題については佐藤は口を固く閉ざすことにしている。火の無いところに煙は立たないからだ。



 時は刻一刻と過ぎ、ついに佐藤の順番が回ってきた。


「佐藤くん」


 名を呼ばれた佐藤は肩を落としながら絞首台へと続く階段を昇る。死刑執行人である担任は感情の伴っていない爬虫類のような目で佐藤を見捉えたまま通知表を彼の胸の前に突き出した。遠藤の時とは180度違う担任態度に佐藤は恐れ慄きつつも震える手でそれを受け取る。


「2学期は頑張りなさい」


 佐藤に奇跡は起きなかった。担任から掛けられたその言葉だけでクラスの平均より自分の成績が下回っていることを理解し、佐藤はがっくりと肩を落としたまま席に着く。


 ◆◆◆◆


 ホームルームが終わると1年生から順に体育館に集まるまでは教室に待機することを担任から命ぜられ、6年生の番が来るまでは自由時間が生徒には与えられた。夏休みの宿題を今のうちに少しでも終わらせようとする生徒や読書に耽る生徒もいる。


「遠藤。お前、また『屍山血河』読んでるのか」


 遠藤が読んでいる『屍山血河』は矢車俊作が京應占拠時に体験した出来事を書き連ねた自伝であった。


「オレは将来、村井少尉と井田少尉のような立派な軍人になりたいんだ」


「精が出るなぁ。俺なんて身体が弱いから、村井少尉達のように100人斬りなんて絶対できないよ」


 視線を左斜め下に泳がせながら種吉芳次はコンコンと2度咳ばらいをし、血の混じった痰をポケットティッシュのうえに吐き出した。


 3年前に大病を患ってしまった彼はクラスでただ1人だけ徴兵検査にパスすることができなかった。


 自助努力で解決できない身体的なコンプレックスを抱えているが故にクラスメートと接する度、彼の胸の内には嫉妬と羨望の入り混じった薄暗い感情が渦巻き、彼を煩悶させる。


「君の家は相変わらず鼻水粥ばかり啜って貧しいみたいだね、それでは体力もつかないだろう。まぁそんな酷い環境の中でも君はよく頑張っている方だと思うよ」


 何度も読み返しているためについたであろう皺まみれのページをパラリパラリと捲りながら遠藤はまるで突き放すような口調で種吉にそう言った。


 種吉は拳が白くなるほど強く握りしめ恥辱に耐えた。下肥汲みのような仕事しか従事できない父親のことを何度、種吉は呪っただろうか。


 父親の不出来な種のせいで情けない身体を持ってこの世に生まれてしまった。そのことを嘆き、怒り、いくら怨嗟の声をあげたところで現状何も変わらないというのは分かっているはずなのに何かを恨まずにはいられない。そんな自分を種吉は恥じた。


「君、判定は?」


「E」


 期末試験内容は応用問題がほとんどだ。授業で未履修の範囲まで平気で出題されるために参考テキストや家庭教師を雇う費用を捻出できない家庭はどう足掻いてもE判定しか収めることができない。


「身体が弱いんだからせめて頭くらいはなんとかしたらどうなんだ?電気が通ってないんだとしても近くの池にいる蛍とかひっ捕まえて、その光で勉強するとかいろいろあるだろ?まさしく蛍雪の功ってやつだ。軍人になれなくてもお国のために命を捧げることはできるんだからさ。もっと頑張ろうぜ」


「……」


 遠藤が言った国のために命を捧げるという表現は比喩でも何でもなかった。


 この国では学生時代にA判定の成績優秀な人間は持ち合わせている多くの自分の時間(寿命)を指導者様に捧げることが何よりも名誉なこととされ現在、体育館では生徒達の寿命を回収していく作業が特殊な機械によって行われている真っ最中である。


 全国の優秀な成績を収めた学生らから回収された時間は指導者様に割り当てられ、指導者様の延命に役立てられる。


 学生時代に優秀な成績を収めた者は褒美として砲弾が飛び交う激戦区の最前線に送り込まれ、名誉な死を遂げることができ、遺族は優秀な人材を輩出した功績を国から称えられ褒美として様々な恩恵を賜ることができる。


 国に捧げること時間の総量は小学生の頃はAからE判定ごとに決まっている。


 中学生になれば非常に成績優秀な人間は個人の裁量で国に捧げる時間を決定することができるようになるが、E判定の成績の振るわなかった生徒に至っては自分の時間を1秒たりとも指導者様に捧げることができない。


 そのため、体育館に集まったところでE判定以外の生徒が国のため指導者様に時間を捧げて忠を尽くす姿を遠目で膝を抱え眺めることしか許されないのだった。


 まるで晒し者のような扱い。惨めな日々を無為に過ごす毎日に嫌気が差していた。


(あの人は……今、何をしているんだろうか)


 種吉が辱めを受けている時、かつて家の近所に住んでいた7つ年上の鈴木ヨシ子のことが決まって脳裏を過った。


 当時14歳だった彼女は年内に婚約相手も見つけることができなかったため、勤労奉仕団体「女子挺身隊」に強制配属され越後湯沢紡績工場で労働に従事することになった。


 容姿に特別恵まれている女性は『喜び組』に。容姿に恵まれなかった女性は『女子挺身隊』へ。


 種吉とヨシ子は同じ選ばれなかった側の人間だった。種吉は可哀想な鈴木ヨシ子の境遇に自分を重ね合わせることで安心感を得ていた。

 

 自分だけではない。彼女の存在は種吉の孤独を癒した。きっと今も彼女は自分と同じように苦しみながら何とか生き長らえているのだろう。


 越後湯沢紡績工場に旅立つ日、彼女は泣いていた。その時、彼女が流した涙の色を種吉は今でも昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。種吉は目の前の佐藤に悟られないよう小さくため息つきながら、目線を窓の外の体育館へと向ける。


(もっと指導者様に時間を捧げることができれば、俺だって……)


 ◆◆◆◆◆


「今回もありがとうございました先生」


「いいえ。これくらい当然の事ですよ。芳次くんが入学する際にお父様からはお土産を頂いているわけですから」


 その頃。面談室では6年1組の担任と種吉芳次の父親が向かい合うようにして話していた。担任の右手には煙草が握られ、窓を閉じ切った室内には紫煙が僅かに立ち込める。



「クラスでの芳次の様子は相変わらずですか?」


「ええ。相変わらずです。しかし本当にこれでよかったんですか?芳次くん辛そうですよ」


「後悔はしてません」


 芳次が1年生の時に学校で集団接種が行われた際に接種したBGCには免疫系を攪乱させるあるウイルスが含まれていた。


 そのウイルスは数年と長い潜伏期間を経て、彼の免疫系を乱し3年前のある日、彼はアレルギー性気管支肺アスペルギルス症を発症した。


 こうして私財の売り払い、両親から受け継いだ遺産も全て学校への『お土産』となった引換に種吉芳次は徴兵検査に受かるようなことはなくなり、常にE判定である彼の時間は1秒も指導者に捧げられることもなくなったのである。


「今の時代はどこの私立学校も資金繰りに頭を悩ませています。お父様のような方が一定数いらっしゃるお陰でどこの私立も何とか首の皮一枚で繋がっているのが現状です。ご援助は本当に感謝いたします。しかし担任としての心境は少し複雑なものがありますね。彼も軍人を目指していたでしょうに……」


「先生。人は生きてこそですよ。死んでしまってはおしまいです。死んだら何も残らんのです」


「どうも私には分かりません。ご子息である芳次くんの命が大事だということは分かります。しかしどうして彼の時間を指導者様に捧げることに対して、そう頑なに否定なさるのですか? 私がこうして吸っている煙草も1本吸うだけで寿命が5分も縮みます。煙草だけに限った話ではなく乱れた食生活や睡眠不足。日々のちょっとした行動が健康を害し、その人の寿命を縮めることは既にお父様もご存知かとは思いますが……それと指導者様に時間を捧げることは本質的には同じことではございませんか? 」


「芳次の未来は芳次自身が選択するべきです。芳次の時間は芳次のものですから……1分1秒でも長く生きていて欲しいと思う気持ちは親として当然かと思いますが」


「例え芳次くんの気持ちに反していたとしてもそれを親心と言えますか?」


「胸を張って言えますね。あと1、2年もすればこんな馬鹿げた戦争も終わり、支配体制も変わるでしょう。そして未来の生きる芳次はこう思うはずです。あの時、指導者様に時間を捧げなくて良かったと。おっと、今のはオフレコでお願いしますよ」


「もちろん」


 それは親心ではなく紛れもない彼の父親の単なるエゴだった。父親という名の指導者の掌の上で芳次は知らず知らずのうちに自分の人生を弄ばれている。恐らくそのことに彼自身が気づくことは一生無いだろう。こうして種吉芳次という1人の少年の人生は実の父親の手によって静かに握りつぶされていく。


 ◆◆◆◆◆


 種吉芳次の変わり果てた死体が発見されたのは、仄暗く薄汚い赤線地帯のゴミ貯めと化していた裏路地だった。死因は粗悪な密造酒カストリを浴びるように飲み、喉からせり上がってきた吐瀉物が気管に詰まってしまったことによる窒息死。


 戦後まもなく彼の父親は死んだ。頼る身内もおらず、職にもありつくことができなかった天涯孤独な彼は違法取引に手を染め糊口をしのぐようになった。


 しかしその商売も長くは続かず、公衆衛生面などの問題点により規制が強化され、わずか数年で彼は仕事を畳まざるを得ない状況に陥る。


 それからの数年は世捨て人のように道行く人々の慈悲を乞い、手元にある僅かばかりの金で粗悪な品質の『カストリ』を買う。酒に溺れる変わらぬ日々を種吉はおくり、誰に看取られるわけでもなく死んだ。その死に様は呆気なかった。


 ブルーカラーのつなぎ服を着た清掃員2組が鼻を押さえながら種吉の亡骸に近づいてくる。


「こんなところでくたばりやがって」


 1人がシューズの爪先で彼の頭部を蹴りあげると種吉の首は、嫌な音を立てながらあらぬ方向に折れ曲がった。


 2人は特殊な抗菌シートで遺体を包むと、表通りに停めておいた回収車の荷台へ担ぎ込んで車を出す。舗装されていない砂利道を通る度に回収車は大きく上下に揺れた。それに追従するように荷台の上では廃品と共に種吉の死体が所狭しとミミズがのたうつように有機的に蠢く。


 北へと真っすぐ伸びた細く寂しい畦道を種吉の死体を積んだ回収車だけが走っていた。ある夏の暑い昼下がりの出来事だった。


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