幻の村
もう長いこと、ボクら三人を乗せた車は、山あいの曲がりくねった道を走っていた。
いつかしら……。
白濁色の霧が路面をはうように流れ、やがて周囲の雑木林をものみこんでゆく。
「地図を見てみるか」
お父さんはいったん車を止めると、駅でもらったこの地域の観光名所のパンフレットを開いた。それから地図上の道を指先でなぞり始めた。
「白川温泉に行く標識、ここに出てただろ。そこから入って、ここらあたりを来て……」
「霧で道をまちがったんじゃない?」
お母さんが助手席から地図をのぞきこむ。
「かもしれんがここまで来たんだ。せっかくだからもう少し行ってみよう」
お父さんに夏休みの休暇が急に取れ、ふとした思いつきで旅行をすることになった。
行先は白川温泉という名の宿場のある温泉地なのだが、あわてて決めたので宿泊先は着いてから探すことになっている。
朝早くに家を出て、こちらの町までは電車、駅からはレンタカーでやってきた。お父さんはパンフレットをたたむと、ふたたび車を走らせた。
霧が徐々に薄らいでゆく。
それとともに車が山肌に沿って走るようになり、前方の視界も広がることが多くなった。
「おい、あそこ!」
お父さんがスピードをゆるめ、フロントガラス越しに前方を指さした。
ずっと遠く見下ろす位置、そこには細長い平地が広がっており、数軒の民家と畑らしきものが見えた。
「ねえ、あの白い煙みたいなの、あれって湯煙みたいじゃない?」
お母さんも指さす。
「だいたい温泉は、こんな山奥にあるもんなんだ。また、そこがいいんだよ」
お父さんの声は、さっきまでとはうって変わって明るくなっていた。
車はカーブの多い道路を下り続け、山道を下りきると、山の上から見えた平地が現れた。
道路と平行して小さな川が流れ、もう一方には畑が細長く伸びており、その向こうには小高い山がせまっていた。
道路脇の畑の中。
こちらに向かって大きな看板が立っていた。
お父さんがその看板の前で車を止めた。
黒の太い文字で―ようこそ黒谷村へ―。その下に赤い文字で―黒谷温泉―とある。
「ねえ、ここって白川温泉じゃないよ。ほら、黒谷って」
ボクは車の窓を開けて指さした。
「ここでもいいじゃないか、温泉にはちがいないなんだからな」
「そうよね。それに、じきに日が暮れそうだし」
お母さんが空に目を向けて言う。
そのお母さんにつられるように、ボクは夕暮れ空をあおぎ見た。
太陽は山の峰に半分ほどかくれ、最後の光を道路や畑に投げかけていた。
お父さんがパンフレットを広げた。
「とにかく旅館を決めないとな。ところで黒谷温泉って、この地図のどのあたりなのかな? どこにも名前がないみたいだが……」
「湯煙が見えたじゃない。そこまで行けば、泊まるところはあるんじゃない?」
「でっかい看板が出てるんだからな」
お父さんはパンフレットを閉じると、ふたたび車を道なりに走らせた。
その途中。
カーラジオのスイッチを入れたが、ガーガーと雑音ばかりが出る。
「ダメだ、電波が入らない。そうとう山奥ってことだろうな」
夕闇が濃くなり、すでに遠くの山々は闇の中に姿を隠していた。すれちがう車もなく、あたりは不気味なほど静かだった。
お父さんが車のライトをつけた。
ライトの光がまわりの闇をいっそう濃くさせる。
「明かりだわ!」
お母さんの声に前方に目を向けると、家の明かりがあちこちで見えた。
道路をはさんで両脇に二十ほどある。
最初のものは小さな店でタバコの看板が出ていた。
ほかの明かりもほんのり弱く、それらのどれもが民家のようだった。
「もうすぐのはずだ」
お父さんが車のスピードをあげる。
集落を通り過ぎると道路が極端に狭くなり、すぐに谷間を走り始めた。川の向こうは切り立った崖で、それがときおり車のライトに浮かび上がる。
同じ所を何度も走っているような……ボクはそんな気がしていた。暗くてまわりの景色がよく見えないせいだろう。
やがて道の片側がわずかに開けた平地となり、川寄りの方向に大きな明かりが見えた。
白い湯煙も昇っている。
「あれだろ!」
お父さんの声がはずむ。
明かりに近づくにつれ、建物の形がはっきりとしてきた。
旅館にまちがいない。
お父さんは玄関前で車を止めた。
旅館は木造の二階建で、玄関横の看板には黒谷旅館という文字が見えた。ずいぶん古そうで、部屋の数もそんなにあるとは思えない。
「ここで待っててくれ」
さっそく旅館に入ったお父さんだったが、それからすぐに首を振りながら車にもどってきた。
「今夜は団体客でいっぱいだそうだ。でもすぐ先にもう一軒あって、たぶんそこは空いてるだろうって」
ボクらは教えられた旅館に向かった。
その旅館は道なりに五分も走るとあった。
先ほどの旅館よりさらに小さく、部屋数もそんなにあるとは見えなかった。
玄関先だけが妙に明るい。
その玄関から、この旅館の主人なのか、おじいさんと呼べるほどの人が顔を出した。
「空いてるって聞いたんだけど?」
お父さんが車から降りて声をかけると、その人は顔をほころばせ、腰を折って頭を深く下げた。
「ええ、空いてますよ。どうぞこちらへ」
主人が部屋まで導いてくれる。
ロビーから薄暗い廊下を進み、一番奥の部屋に通された。
その部屋にはテーブルがひとつあるだけで、ここも電波が届かないのかテレビもない。
「食事まで汗でも流していてください。露天がよろしければ、すぐ裏にありますので」
主人は露天風呂の場所を教えてくれ、食事はお部屋の方に用意しておきます、と言って退いた。
露天風呂はこわいほど静かだった。虫の鳴き声のほかは何も聞こえない。
いつしか小雨が降り始めていた。
三人で風呂に入って部屋にもどると、テーブルに料理が並んでおり、それらは山奥らしく山菜料理がメインだった。そして、味の方もなかなかのものだった。
食事が終わったのを見はからったように、主人が部屋に入ってきて、手ぎわよく食器の片付けを始める。
「静かで、いい所ですねえ」
お父さんが窓の外を見やり話しかけた。
「それだけが、ここのとりえでして」
なにせこんな山奥なもんですからと言って、主人は口元に苦笑いを浮かべた。
雨の音が強くなっていた。
外にも出られず、テレビもないのでなにもすることがない。
ボクはさっきからあくびばかりしていた。
お父さんとお母さんもあくびをしている。今朝早くに発ち、ずっと電車と車にゆられ続け、三人ともひどく疲れていたのだ。
「寝るか」
お父さんのひと声で、さっそく布団に入ることになった。
電灯を消すと、外の闇が一気に忍びこんできた。
雨の音がやけにはっきり聞こえる。
それからどれくらい眠ってのことだろう、ボクは物音で目をさました。
すぐにだれかが立ち上がる気配がして、部屋の明かりがついた。
電灯の下にお父さんが立っている。
「ねえ、どうしたの?」
「目がさめたのか?」
お父さんは布団の上にドタリと座りこんだ。
お母さんも目をさましていた。やはり布団の上に座り、時間が気になるのか腕時計を見ている。
「今、何時?」
「まだ夜中の一時よ」
「ねえ、どうしたの?」
「気味の悪い声が聞こえてくるんだ、ほら!」
お父さんがくちびるに人さし指を立てる。
耳をすますと、雨の音にまじって人の泣く声が聞こえた。
女の人のすすり泣くような声だ。
「だれが泣いてるの?」
「わからないわ。でも、となりの部屋からよ。せっかく静かで、よく眠れると思ったのに」
「だけど泊まり客、ほかにいなかったはずだよ」
「たぶん夜遅くに着いた客がいたんだろう」
とぎれとぎれであったが、すすり泣く声はあいかわらず続いていた。
「何か事情があるんだろう。文句を言うわけにもいかないし、がまんして寝るしかないだろう」
お父さんは立ち上がって電灯を消した。
布団をかぶる音がする。
ボクも布団にもぐりこんだ。
「何だか気味が悪いわ」
お母さんは寝る気になれないらしく、まだ布団の上に座っているようだった。
朝、雨はやんでいた。
「あれからずっと眠れなかったのよ。あの声、明け方まで続いてたんだから」
お母さんが夕べのことを話す。
「それにしても、今はやけに静かだな」
お父さんはタバコに火をつけてから、さぐるような目でとなりの部屋とのさかいの壁を見やった。
と、そのとき。
ノックの音がして、あいさつの声とともに主人が部屋に入ってきた。
お父さんがすかさず文句を言う。
「変な声で夜中に起こされたよ」
「変な声ですか? 夕べの泊まり客はおたく様だけなんですがね」
「たしかに聞こえてきたんですよ。それもほとんどひと晩中でしたわ」
お母さんは納得がいかないようだ。
「それって、若い娘さんの泣き声じゃ?」
何か思い当たることでもあるのか、主人の声色が変わったのがわかった。
「ええ、そうでしたけど。でも泊り客はいなかったって。なら、だれが泣いてたんです?」
「だれと聞かれてもこまるんですがね。見た者がいないもんですから」
「じゃあ、まるで幽霊みたいじゃないですか?」
「おそらくその幽霊でしょうから」
「どういうことなんです?」
「おたく様たちだけじゃないんですよ。お客様で、ほかにも何人か聞いておるんです。それも夕べのような雨の降る夜にかぎって……」
主人が声の正体について話し始める。
「やはり雨の日だったんですがね。一年ほど前、若い娘さんを泊めたんですよ。その娘さん、何かひどくつらいことがあったらしくて」
話しにくいことなのか、主人はここで話すのをやめてしまった。
「もしかしたらその娘さん、となりの部屋で自殺をしたとか?」
お父さんが主人の言い残した先を継いだ。
「そうなんですよ。あのときは大変でした。警察の方がたくさんやってきましてね」
「じゃあ、その娘さんの幽霊?」
お母さんが信じられないという顔をする。
「ええ。事件があるまで、そんなことは一度もなかったですし。それに泣き声が始まったのは、それ以来ですから」
「こわくない?」
ボクは聞いてみた。
「まあ、ちょっとはね。でも出ていこうにも、ほかに行く所がないんでね。それに幽霊が、悪さをするってこともないもんで」
あきらめているのだろうか。それとも居直っているのか、主人は小さく首を振って笑った。
八時前。
ボクらは早々に出発した。
来た方向に向かって車を走らせる。
車はすぐに黒谷旅館の前を通りかかった。
昨日のことがウソのようにひっそりとしている。
宿泊客は旅館の中にいるのか、すでに出発したあとなのか、一人として姿を見かけなかった。
夕べのことを話しているうち……。
車は谷あいを抜け、集落のあった場所までやってきた。家の明かりばかり見て、あっという間に通り過ぎたところだ。
タバコの看板の出ている店の前で、お父さんは車を止めた。
そこは小さな雑貨屋だった。
ガラス越しに店の中がかいま見え、日用品やお菓子などが並べられてある。
「タバコを買ってくる」
お父さんが車から降りて店に入っていく。
追うように、ボクとお母さんもあとに続いた。
「いらっしゃい」
店の奥からしわがれた声がして、おばあさんがゆっくりとした足どりで出てくる。
お父さんはタバコを買ってから、おばあさんとふたことみこと言葉をかわした。
「黒谷旅館に?」
おばあさんがおどろいたふうな顔をする。
「いえ、そこはもういっぱいで。その先にある小さな旅館に」
「では、あの幽霊旅館にかい?」
おばあさんの顔つきが、さっき以上におどろいたのがわかった。
「あの旅館、幽霊旅館って呼ばれてるんですか?」
お父さんもびっくりという顔をする。
「そうなんよ。三年ほど前、主人が首をつってな。その主人の幽霊が出るってよ。それからなんよ、そう呼ばれ始めたんは。だけど、あれからずっと閉まったままなんだけどねえ」
幽霊は若い娘だった。
おばあさんの話は、あの旅館とは別の旅館のことなのだろうか。そのことが気になったのか、お父さんもすぐに聞き返した。
「幽霊って、若い娘さんじゃ?」
「たしかに若い女の自殺はあったがな。その女の幽霊というのはただのうわさでな。ほんとのところは旅館の主人が幽霊なんよ」
おばあさんは顔の前で手を振ってから、声をひそめて話を続けた。
「女の幽霊のうわさがたって、客足がバッタリ切れちまってな。それで自殺したってわけなんよ。しかもその直前、下の黒谷旅館に火をつけちまってな」
「まあ! どうしてそんなことを?」
「うわさをたてたのが下の旅館の者だって思ったらしいのよ。それがほんとなら、下の旅館につぶされたってことになるんでな」
「そんなことが……」
「でな、丸焼けになったんよ」
「丸焼け? 下の旅館、たしかにあったよなあ」
お父さんがあいづちを求めるように、振り返ってボクらの顔を見る。
「ええ。でも、きっと建て直したのよ」
「いや、そんなことはないはずだ。だって、そうとう古かったじゃないか」
お父さんはおばあさんに向き直った。
「ほんとはどういうことなんです?」
「ほんともなにもないがね。さっきしゃべったとおりなんでな」
おばあさんの表情は、ボクらをからかっているふうにも、ウソをついてるふうにも見えなかった。
「でもですね。黒谷旅館って看板の出た旅館、じっさいにあったんですよ。泊り客も見たし……。それにですね。わたしら、夕べは幽霊旅館ってやらに一泊したんですから」
「あんたらが見たのは幻だったんよ。下の旅館、今じゃ跡形もないんだからね。火事のとき、泊まり客が大勢いたんだが、運悪くみんな焼け死んでな。夜中だったんで逃げ遅れたんだねえ」
おばあさんはここまで話すと口を閉ざした。
話の続きを待つように、ボクたちはじっとおばあさんの口元を見ていた。けれど、それからは貝のように閉ざされたままだった。
「でもね、ここに来るとき、黒谷温泉って大きな看板が出てたよ」
畑の中の看板のことを思い出し、そのことをボクはたずねてみた。
おばあさんが重くなっていた口を開く。
「それも幻だったんよ。みなが、そろって幻を見るんよ。わたしはね、あんたらのような旅行客に、何回も同じような話を聞かされてきたんでな」
おばあさんは念を押すように話してから、最後に口元をゆがめて笑った。
不思議な思いを胸に、ボクらは雑貨屋をあとにしたのだった。
道路が山に入る直前。
「あの看板、たしかここにあったよな」
お父さんが車を止め、首を伸ばしてあたりの畑を見まわす。
「ええ、ここよ。まちがいないわ。でも、どうしてないのかしら?」
「わけがわからんな」
「ほんと、どうなってるのかしら?」
看板は一晩のうちに、なぜか跡形もなく消えていたのだった。
黒谷村に別れを告げる。
道路が山あいに入ると、車はカーブの多い坂道をのぼり続けた。
下に見える黒谷村の民家や畑が遠く小さくなってゆく。
頂上付近で霧が漂い始めた。
白い霧が道路の上をはうように流れる。
やがて霧の白さはますます濃くなり、遠くも近くもすっかりのみこまれてしまった。
「昨日も、ここらあたりで霧が出なかったか?」
「よく覚えてないけど、言われてみればそんな気も……」
「たぶん、そうだったよ」
お父さんは首をまわし、確認するように外の景色を見やった。
三十メートルほどの前方でさえ、霧で道路の輪郭がうっすらとしか見えない。まるで雲の中を走っているようだった。
お父さんはひたすら前だけを見て、ねっとりとした濃霧の中を慎重に運転していた。
下り坂が続くようになった。
それとともに霧も少しずつ薄れてゆく。
遠くの眼下に電車を降りた町が見えてきた。
駅へと続く並木道で、お父さんは車をガソリンスタンドに乗り入れた。
「満タンね。ついでに洗車も頼むよ」
「では、洗車がすんだらお呼びしますので、それまでどうぞ中で」
店員に導かれ、ボクらは事務所に入った。
お父さんはカウンターにいた店員に声をかけ、持っていた地図を広げた。
店員が地図をのぞきこむ。
「黒谷温泉? そんな名前の温泉、ここらあたりにはありませんが」
「ほんとに?」
「はい、ないですね。その地図にも載ってないと思いますが」
「たしかにそうなんだが。でもね、じっさいそこに行ってきたんだ。たぶんここらあたりだったと思うんだけど」
「そこらは山しかありませんよ」
「じゃあ、ここじゃなかったのかな?」
「あのー、もしかしたらそこには雑貨屋があって、おばあさんと話をしたとか?」
店員は何か知っているふうだった。
「ああ、話したよ。タバコを買ったときにね」
「やっぱり。で、そのおばあさん、幻うんぬんって話をしたでしょう」
ボクらはおもわず顔を見合わせた。
「でも、どうしてそれを?」
「これまでも同じような話を、何度かお客さんから聞いたことがあるもんですから。みなさん、給油したのがレンタカーだったんで、どこかからの帰りのようでしたね」
「で、そうした人も黒谷村って?」
「ええ、たしかそんな名前でしたね。でも、あそこらに人は住んでいませんよ。雑貨屋のあった村こそ幻なんじゃないんですか?」
店員は少し笑ってみせてから、自分の持ち場へともどっていった。
電車が駅のホームを離れる。
車窓から流れ去る家並みを見ながら、
――この町も幻なのでは……。
ボクは昨日からのことをぼんやりと考えていた。