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連絡をくれる友人達に対するリスペクトが止まらない

 親や友人など、近しい人を亡くしたことがない私が語れる事は少ないのですが、死は急に訪れる、と思っています。


 多分怖い話ではないはずので、聞いてください。


 物心つく前を除くと、最初のお葬式は小学校低学年のころ、アパートの隣に住んでいたおじいさんでした。どちらかというとおばあさんと仲が良くて、たまに家に上がらせてもらっては飴とかをもらっていました。

 おじいさんが亡くなってお葬式をした後、おばあさんは引っ越して行きました。この時、居なくなるという意味では一緒なのだと、死と引越しの違いがあまりわかってなかった気がします。


 二回目のお葬式はもう少し後、反対側の隣に住んでいたおじさんでした。高校生の娘がいて、今思えば早すぎる死でした。将棋がアマチュア4段でもの凄く強く、将棋雑誌を譲ってもらっては勉強させてもらっていました。

 死因は教えてもらえませんでした。もう将棋を指してもらえないことに、初めて明確に死を意識した気がします。慕っていた娘さんも、私に幾つかの思い出の品をくれて、引っ越して行きました。それ以来会っていません。


 3回目のお葬式は小学校高学年、私自身が一軒家に引っ越した少し後の事でした。やはり隣に住んでいた1歳年下の男の子です。太々しい性格のいじめっ子だったからあまり仲良くなかったけど、彼の弟とは仲が良くて一緒に遊んでいたから、お葬式の後、彼も居なくなってしまってショックだった気がします。


 人はすぐに居なくなる。


 この時、そう感じました。小学生の頃に、毎年のように死とそれに伴う別れを経験して、死は人が居なくなる理由の一つだけど、死でなくとも、もう会えなくなるという悲しさはあると感じるようになっていたんだと思います。


 その後は、親族以外のお葬式に参加したのは大学時代に住んでたアパートの大家さん(アパートの庭で野菜を作っていて挨拶をする仲だった)くらいですが、いつも考えてしまいます。


「連絡が途絶えてしまえば、それはもはや死と変わらないのではないか?」


 さすがにこれは言い過ぎかもしれませんが、言いたい事は、連絡が取れるなら取ろう、いつでも出来ると思っていると、前触れなくできなくなってしまい、後悔するという事です。


 どこかなタイミングでそう考えるようになり、中学の友人、高校の友人、大学の友人、会う機会が有ればなるべく会うようにしています。いつが最期になるかわからないので……

 高校の頃に拾った猫の里親を見つけてくれた彼女にお礼を言う事はもうかないません。ちゃんとお礼を言えなかった当時の自分を張っ倒したいです。


 よし、とりあえず親に連絡しよう。3週間前に話したばかりだけど。


 死にまつわる短編を読んで考え過ぎました。

 というわけで、未だに連絡をくれる全ての友人をリスペクトしたいです。


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