涙
旅館にたどり着いた時には、涙も乾き、心も乾いた。大泣きしたから、胸がすっきりしている。旅館の入り口に足洗い用の水道があるので、それで足を洗い、砂利を流した。水がしみる。涙まみれの顔をザブンと洗うと、全身がしゃきっとして、元気が出てきた。そのまま、二階の部屋に上がって行った。
洋一はテレビを見ていた。小さく「お帰り」と言っただけで、あたしに背中を向けたままバラエティに見入っている。食事の膳は下げられて、布団が二つ並んで敷かれてあった。
冷蔵庫を開けると、缶ビールとジュースが並んでいる。無性に、ビールが飲みたくなった。
「ビール飲む?」
と聞くと、反応が無い。聞こえなかったのか、ともう一度、
「あたし缶ビール飲むけど、あんたも飲む?」
と聞いた。洋一はテレビを向いたまま、頷いた。
二缶出して、一つは洋一の脇に置き、自分の分をプシュっと音を立てて開けた。喉に流し込むと、炭酸の刺激が心地よく、先程までの惨めな気分もかき消えるようだった。
最初はイヤではなかったんだ。そう、あのキスまではそれでよかった。でも、その後はひどい。あれって、暴行寸前じゃん。そりゃあ、好きになれば体だってあげる。今晩だって、心の片隅ではそんなことも期待してたんだ。でもあんな痴漢みたいな真似されちゃ、蹴飛ばしたくもなる。あたし、動物じゃないもん。
何かあたし、一人であちこち飛び回る蝶々みたい。蜜を求めて飛び回って、全然いいことが無い。この洋一も男だし、実際こうして同じ部屋で泊まっているけど、めちゃ不細工な男で、変なキスをされたこともある。あたしは、あっちにヒラヒラこっちにヒラヒラと飛んではみても、ちっとも落ち着くところが無い孤独な蝶々。
洋一はようやく缶ビールを手に取り、テレビを見たままグビグビと呷るように飲んだ。最後まで、息もつかずに飲み干した。それでも、あたしの方を見ようともしない。テレビでは相変わらずお笑いタレントが喋っている。こいつ、怒ってるな。部屋に一人で置いておかれて、腹を立ててこんな態度取ってるんだ。遠慮なく、
「あんた、怒ってるんだ」
と、言ってあげた。こいつに話すとき、あたしはどうしても意地悪になる。
「心配要らないよ。もう外には出ないから。今日はもう疲れたよ」
飲み干した缶を握ったまま、洋一は同じ姿勢で何も言わない。こいつ、いじけているのか。一言くらい何か喋ったらよさそうなものを。
「そんなにそのテレビが面白いの? 何とか言ったらどうなのさ、まったく」
語尾が荒れた。
その時、洋一の座った座布団の横に、白いハンカチが畳んでおいてあるのが目に入った。ウソ。それ、あの朝顔のハンカチじゃない。背筋にすっと寒気が走った。
「あんた」
洋一は空の缶ビールを口に当てさらに吸い取るように呷っている。なんだこいつ、あたしの後をつけていたのか。
「あんた、あそこに居たのね。ねえ、そっちばかり見てないで、こっちを向きなさいよ。さっきから何よ、黙ってばかりで。ねえあんた、そのハンカチどこで拾ったのさ」
答を待つ。10秒待つ。それでも洋一は動かない。
あたしは、テーブルに置いてあったテレビのリモコンのスイッチを切った。突然音が無くなり、部屋の空気がピンと張りつめた。それでさらに10秒待った。10秒間、二人は動かなかった。
あたしは洋一の脇にまでにじり寄った。片手で肩をつかみ、こっちを向かせようとした。すると洋一は顔を伏せ、抵抗する。業を煮やして、テレビと洋一に間に入り込み、下を向いた洋一を正面から見据え、
「顔を上げなさいよ! 何で下を向くのよ!」
といいながら、思い切り顔をビンタで殴った。骨ばったガチガチの頬にあたしの掌がぶつかり、猛烈に痛んだ。
「イタイ!」
とあたしは声を上げた。その途端、洋一が顔を上げ、あたしの目と鼻の先で鼻声を出した。
「大丈夫か!?」
あ、こいつ泣いていた。目から鼻からぐしょぐしょだ。それに、左目の下がどす黒く腫れている。頬も何筋か擦り傷がある。
「なんだよ、その顔、どうしたんだよ」
ただでさえ骨ばったニキビ面なのに、ますます腫れて歪んで見られたものじゃない。
「喧嘩したの? どこでさ! 何があったのさ!?」
唇も切れて、内出血している。腫れた目の辺りを片手で隠して、洋一はようやく喋り出した。
「心配だから、行った。由香里ちゃんの後を追ったよ」
「で、ずっと見てたわけ?」
「遠くから見てた。心配だから」
「それで、何で喧嘩したのさ」
「由香里ちゃんが蹴り入れて、逃げてきたろ。あいつ追いかけて来た。だから俺、飛び掛かったんだ」
「それでこんなにされちゃったの? で、あいつどうしたの?」
「やっつけたよ。大丈夫だよ。1発でやっつけた」
「じゃあ何であんたがそんな顔になっちゃったのさ」
「仲間が来てさ、あいつの。二人も。でも大丈夫。やっつけた」
「海辺に居たわけ? 仲間が?」
「あいつら、由香里ちゃんを三人で弄ぼうとしたんだろ。近くで待ってたんだ」
後の二人は疲れて寝てしまったというのは嘘だったわけだ。とすれば、あたしを三人掛かりで慰めものにしようとしたと言うのは、本当のことかもしれない。
「で、後の二人もあんたがやっつけたの? 本当? あんたそんなに強かったの?」
顔を抑えて血のにじむ唇を開いて、洋一が何かブツブツと言った。
「え? 何? 聞こえないよ」
洋一が、ヘンッ、と、咳払いを一つした。そして今度は聞こえるように、はっきりとあたしの目を見て言った。
「由香里ちゃんを傷つけるものは許せねえ。俺は命かけて守ってやる」
そしてすぐに、また下を向いてしまった。
10秒、20秒、あたしは何も言えなかった。そして座布団の上のハンケチを取り、立ち上がった。
せっかくさっき全部の涙を流したはずなのに、今度はまた違う涙がこみ上げて来るようで、見られたくない。窓辺に歩いて、夜空を見上げると、胸を、温かな液体が通過した。ああ、今度の涙は温かいんだ。ずっと遠くに星が幾つも瞬くのが見えたけど、段々それも滲んでぼやけた。
あたしはそれでも言ってあげた。
「何言ってんだ。あたしはもっともっといろんな所を飛んで回りたいのさ。いつもいつも付きまとうんじゃないよ、馬鹿」
ちょっと涙声になったんで、5秒休んだ。そして一言付け加えた。
「でも、今夜は有難うね」
了
ヒットソングに乗せてお送りする、「アラフォー青春シリーズ」第一弾でした。
次作は、「シングルアゲイン」です。