〈親愛が執愛にかわるまで〉泡沫小編
――レン兄様
幼い頃、スゥはいつもそう言って俺の後ろをついて回っていた。
俺はレンと呼ばれている海坊主だ。浅い海の底では俺達海坊主が海のあやかし達を取りまとめている。人魚達はその中に存在していた。
かつての人魚は醜いばかりだったというが(人面魚と言われていた)、今はそうでもない。むしろ、西洋からの文化が入ってきたことでここ百年のうちに新しい概念のままその姿で生まれてきた者達が増えている。スゥはそんな人魚の中でも特に最近になって生まれた人魚姫だった。
『は、はじめ、まして……』
『……』
『レン様、この子、最近生まれたのですよ。まだまだ幼い子なのでどうか守ってやってくださいな』
『ああ……よく挨拶できたな。初めまして。俺は海坊主のレンという』
俺とスゥは姉人魚によって引き合わされた。最初はおどおどとしていたスゥは、俺に挨拶を返してもらえたのが嬉しかったのかパァッと明るい表情になったのを覚えている。
それからだ。姉人魚達はスゥの不安定性を気にして度々俺の宮へ遊びに行かせた。スゥはレン兄様、レン兄様と呼んで俺の後をついて回った。海坊主という、あやかしとしてはそれなりに力のある俺に懐く子どもは珍しく、よく戸惑ったものだ。
――レン兄様
まだ幼い頃からそう呼ばれ続けていたから、たぶん、気付かなかったんだ。その声が俺にとっては甘い猛毒にも似た、俺を捕らえて放さず破滅に向かわせかねないものだったということに。
俺がそれに気が付いたのは、スゥがよりによって人間と約束をしてしまったことを知った時だった。人は移ろいやすい。あやかしとの約束は見過ごされてしまうことが多いのだ。そうなったとき、スゥのような不安定さがあるあやかしは……最悪、消えてしまう。
だから、俺は衝動のままにスゥを閉じ込めた。裏切られた、と言わんばかりのあの顔をよく覚えている。だが、俺はどうしても――愛してしまっていたから。
――レン兄様、どうして……!
悲痛な声だった。だが、俺はそこに仄かに暗い喜びを覚えていた。これでスゥは俺の囲いの中にいる。だからどうしたって自由を奪った俺を恨むだろう。
君の中にはいつも俺の存在が刻まれるのだとひっそり笑った。
実は、スゥが眠りについている間、俺は彼女の寝顔を見守っていた。そのときその長い睫毛に一滴だけ真珠のようなきらめきが残っているのを見たことがある。
本当のところを言えば、忘れてしまえと願っていた。約束のことなど忘れてしまえ。時が来る前になら破棄することもできるのだから。俺を頼ってくれればすぐにでも……約束を消しに行くからと。同時に、閉じ込めていればいつか約束に囚われず俺を見てくれるかもしれないという細い希望を持っていた。
だが、三年が経ち、五年が経ち、あやかしの身にとっては短くも長く感じる時を経て、俺はその希望がいつかなくなると悟っていた。
愛していたんだ。いや、今も愛している。狂おしいまでに。
これはきっといつまでも俺の中にある――執愛とでも名付けられる狂った愛情に違いない。
Fin.




