4.逃走
それは二十回戦を超えた頃だった。この麻雀を持ち掛けたスーツ姿の男、バレノが両手を高らかに挙げおどけた調子で口を開いた。
「流石は日本一のギャンブラー、ミスター陸乃目、いやお強い。こうも大差になるとは私も予想外でしたよ」
見ると他の三人のチップが大方鉄人の元に集まっていて。
「おいおい、もうお仕舞いか? 少なくともおたくの持ち金はそんなもんじゃねえだろうがよ」
鉄人の言葉にバレノが笑う
「はは、もう気付いているんでしょう? 私が誰なのか」
不敵に笑うバレノに鉄人も笑みを返した。
「お前さんが誰かはどうでもいいが、客じゃねえんだろう三人とも。この麻雀には肝心なものが無え。場代だ。胴元の利益が全く無えんだよ。それはおかしい、正月の家族麻雀じゃねえんだ。だからお前さん達がその胴元なんだろう?」
その事に鉄人は気付いていた。そしてそれをチャンスだと受けとりこの勝負に乗った。主催者からの直取り、これが一番手っ取り早い。
「で、どうすんだよ。俺としちゃレートでも上げてくれりゃ万々歳なんだがよ。俺の手元にチップ三十枚程か。三千億円、てめえにとっては大した額でもねえだろ、なあ、バレンティノさんよ」
「ご冗談を。確かに貴方のいう通りそれはまだ大した額では無い。まだ、ね。ですけど、それを続けられてはいずれ困る事になる。ですから提案なんですが」
そう言ったバレノを名乗る男の顔に先程までの笑みは無く。
「私共のところに来て下さい。元々優秀な方をスカウトする為に始めた今回の企画ですから。報酬は言い値で構いません」
その言葉に鉄人が僅かに口許を歪める。そしてバレノを見据える瞳には拒絶の色が滲んだ。
「ふん、そうですか。嫌ならそれで結構です。その場合はお持ちのチップと共にお引き取り下さい。貴方のこれまでの勝ち分はもちろん保証します。後は船を降りるその時まで、ゆっくりとお過ごし下さい」
それはこれ以降カジノに立ち入る事が出来ないという宣言だった。
「もう十分でしょう? それとも貴方、この船を、いやグスタン・バレンティノを潰す気ですか?」
くっくっく、と笑い声を漏らすバレノに、しかし鉄人は鋭い視線を向ける。
「ああ、潰す気だね。それ以外に何がある? 一度始まった勝負、俺が潰れるか、お前らが潰れるか、どっちかしかねえだろうがよ」
「貴方何者ですか? 我々に恨みでも?」
「恨み? そんなもん無えよ。お前らが俺をこの船に乗せた、それだけだ。俺が何者か? それくらい調べとけよ、俺はな」
ギャンブラーだ!
その声は狭い部屋に静かに響いて。
「仕方ない、仕方ないですね。貴方が潰れるか、こちらが潰れるか。なるほどそれなら」
貴方に潰れて貰う他無い、とバレノ。
いつの間にか数人の黒服が卓を取り囲み、アラジンと名乗ったアラブ系の男がその列に加わっている。そしてその彼が胸元に手を入れ黒く光る拳銃を抜こうとした瞬間だった。
「動くな!」
咄嗟に椅子を蹴り、飛び退き様に鉄人は自らの拳銃を構えた。そしてその銃口の先にあったのは、学生風の青年、ゼロと名乗った男の姿だった。
「何故?」
バレノの口から呟きが漏れる。
「ん? バレノ、お前にその風格は無え。だが確かにこの部屋にはバレンティノが居ると俺の感覚が告げている。だったら残るはそこの坊主しか無えだろうがよ」
そしてそれが正解である事は、動きを止めた黒服一同を見てもわかる。もしもその銃口の先にいたのがバレノだったとしたら、今頃鉄人の身体にはいくつもの穴が空いていた事だろう。
しかし鉄人にとってもここで引き金を引いて終わり、という事では無い。バレンティノを撃ったところでそれは鉄人の勝利を意味しない。
先程の勝負の熱はまだその体に残っている。その熱を残しながら一方で冷静に状況を分析する。
こうなった以上、選択肢は一つ。まずはここから逃げる。扉は二つ、入ってきた入り口か、何処に続くのかわからない奥の扉か。
入り口へ逃げればカジノの最初のフロアを通らなければならない。そうするとあの人混み、混乱の中で捕まる恐れが強い。だとしたら……
奥だ!
心の底から響くその声に鉄人は身を任せる。
銃口をゼロに向けたまま、瞬間身を翻し、奥の扉に走る。幸い扉は直ぐに開き、鉄人はその向こう側へと倒れ込んだ。
「逃がすな、追え!」
そんな怒号が扉の向こうから響く。
「畜生め、上手くいき過ぎるとこれだ、ろくな事が無え」
一旦逃げ切れば、少なからずこの船に乗る自分と同じような輩にこの惨状を訴え徒党を組む事も出来る。それぞれが自分と同様に武器を携帯している事だろう。そうなればバレンティノもある程度態度を軟化させざるを得ない。
しかし今は取り敢えず逃げなければ。
目の前には階下へと続く階段。その先に何があるのかはわからない。しかし鉄人の直感は確かに告げている。
迷わず走れ、と。
「はあ、はあ、しつこい奴らだ」
足を止めると怒号と足音が近付いてくるのがわかる。
と、それは唐突にやって来た。
「痛ぁい!」
「動くな!」
階段を転がるように目の前に落ちて来たのは見覚えのある女性、そう昨日の夜にルームサービスと偽り鉄人の部屋を訪れた女だった。
「あ、あれえ? あ、昨日のおじさん。どうしてこんなところに? と、そんな場合じゃないですよ、追手が来ますよ、逃げましょう」
そう言われると鉄人としても逃げるしかない。追手は確かに直ぐそこまで迫っているのだ。
「事情は後で聞く。とにかく来い」
女の腕を引っ張り、鉄人は一本道を走る。そして彼等が辿り着いた先、そこにはこれまでの華麗に装飾された扉とは様相を異にする、何やら怪しげな模様がまるで血文字の様に刻まれた一枚の扉。それがぼんやりと淡い光を放っていた。
「くっくっく、やっと追い付いた。おや、その女は誰だ? まあいい、何れ不審な侵入者、纏めて始末してしまえば問題無いか。残念だったな、そこは行き止まり、袋小路だ」
先頭で銃を構えるバレノが嘲笑う。その様子と目の前の扉を交互に見やり、鉄人は考える。
この男は今確かに行き止まりだと言った。だが目の前には扉。鍵が掛かっている? だが迷っている暇は無い。
「行くぞ!」
鉄人は隣でキョロキョロとせわしなく首を動かす女の腕を引き、扉の取手に手を掛けた。
そして……
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