2.幻想
鉄人はその日結局朝まで牌を触っていた。仲間四人で卓を囲む、それは彼にとって心底心地好いと思える瞬間だった。
「ふぅ、貫之の野郎、いっちょ前の口ききやがって。楽しみじゃねえか、この野郎」
そう呟いて見上げる視線の先には一艘の客船がその巨体を誇りながら停泊している。それは所謂豪華客船というやつで。
巡航客船イリュジオン、仏語で幻想の名を持つその船は一般的にいうラグジュアリークラス。外からでもわかるその絢爛な装飾は乗客の如何に係わらずその場を訪れた人々の足を止めた。
「なりだけは大層なもんじゃねえか」
鉄人は楽しそうにその船を見つめる見物客に一別をくれ、それに向かって歩みを進めた。乗降口には黒服が並び立つ。その内の一人に彼は二枚の紙切れを渡した。
一枚は彼の元に届いた招待状。そこには今日の日付とこの船の運航スケジュール、そしてギャンブルの腕に自信のある者の参加を期待するという文言が綴られている。
そしてもう一枚はドル建ての小切手、そこにはゼロが六つ並ぶ。これは保証料を兼ねた参加料で万が一にも手持ちの資金が足りなくなった際はそこから支払われるという事になっていた。
ちなみに鉄人がこの日の為に用意した資金はゼロの数をもう一つ増やした小切手が三枚、これは彼の現金資産の殆どに相当する。
それでも今この船に乗る者の中では決して多すぎる額では無かった。
「それではごゆっくり。貴方に幸運の女神が微笑まん事を」
黒服の一人がそう言って恭しく頭を下げる。それは言葉尻こそ丁寧だったが、サングラス越しの瞳は僅かも微笑みを湛えてはいない。
「ふん、何が幸運の女神だ。乗客の誰が勝ってもお前らにとっちゃ同じ、胴元はさぞ愉快だろうよ。だがな、俺にとってはお前らが潰れるか、俺が潰れるか、二つに一つ」
タラップに足を踏み出し、鉄人は独り言ちる。それはこの船の実質的なオーナー、バレンティノ第一王子に対する宣戦布告であった。
グスタン・バレンティノ、それは中東に位置するグスタン王国の王位継承序列第一位を指す名前である。
一般に馴染みの無いその王国は、かつて石油利権で急成長を遂げ、それを元にした高性能の武器開発及びその密輸で今尚莫大な資金をその懐に仕舞い込んでいた。
そして引退間近と噂される現国王に代わって実質的なリーダーと目されているのがこの巡航客船イリュジオンを運営するバレンティノ王子である。
「さあ、行こうか。狂乱の宴の始まりとしようじゃないか」
タラップを昇りきったところで鉄人は振り返って足を止める。その眼下にはこの船を物珍しげに見上げる通行人の群と、朝靄に薄っすらと射した光が拡がっていた。
この船で鉄人に割り当てられたのは一人には広すぎるスイートルーム。尤も全室がスイートのこの船にあっては何処も大差は無い。部屋はカードと網膜認証式のオートロック、なるほどセキュリティは万全といえる。
「さて、と」
特にする事も無い様子で鉄人はベッドに転がり、船内の案内に目を通した。
「見渡す限り海しかねえのに、そん中でプールたぁ思えば滑稽だよな」
客室以外の施設は屋外に展望デッキと二つのプール、屋内に大型パーティーフロア、ダンスホール、遊技場、複数のレストランに複数のバー。そしてカジノ。
乗客の殆どがカジノを目的にこの船に乗り込んでいる。尤も鉄人の様にギャンブラーを自称するその道のプロばかりという訳では無く、寧ろそれを趣味としている者、所謂ギャンブル好きという連中が殆どだろう。その乗客に選ばれる乗船の為の条件は一つ、多くの金を持っている事。
であれば、何故この船に乗るのか、カジノなら世界中何処に行っても楽しめる、そう思う者も多いだろう。その答えはこの船で行われるギャンブルのレートにあった。
レートとは要は掛け金の事で、つまるところギャンブルとはリスクとリターンのやり取り、その掛け金には上限が定められる。
これは当然の事でそれが無ければ破綻者が後を絶たなくなってしまうからだ。
但しこの上限に満足出来ない者も少なからず存在する。一定以上の資金を持つ者にとってはギャンブルがギャンブルで無くなってしまうのだ。勝っても負けても刺激にならない、それはある意味で強者が抱える業である。
「カジノのゲームはポーカー、バカラ、ブラックジャック、ルーレット、スロット。なるほど、ゲーム自体は他と変わらんわけだ」
変わるのはそのレート。もちろん全てが全て青天井という訳でも無い。チップの種類によって部屋が分けられ、持つ者だけがそこに入る資格を得られるようになっている。
「VIPルームまではルーレットでいいか、その方が手っ取り早い。まあ、焦る必要も無いが……」
鉄人はゆっくりと目を閉じる。
海上の無法地帯、どうせ再び陸地に着くまでは帰ることも出来ない。
もちろん船内のカジノは朝夕無く扉が開いており、今からでも享楽に身を投じる事は出来る。だが鉄人はそこに足を運ぶのは陽が沈んでからと決めていた。
それまでは惰眠を貪り鋭気を養う。
鉄人が微睡みの中に沈んだ頃、船はゆっくりと港を離れた。世界中の都市から乗客を拾い集め、香港のついでとばかりに寄った横須賀が最後の停泊地、これより巡航客船イリュジオンは太平洋のど真ん中へと航海を始める。それはまさしく宴の始まりで。
船の窓越しに見えるのは一面の漆黒。既にそこは海と空の境界線を無くし、夜空に輝く星々の光もその小さな窓からは窺い知る事が出来ない。
時刻は二十時を回ったところ、鉄人はシャンデリアが煌びやかなホールを抜け、カジノへと向かう。
深みがかったダークチェリーのシャツに紺のジャケット、首もとには朱のネクタイが映える。そのネクタイを少し弛めたそれが鉄人にとっての所謂勝負服だった。
「おう、人がわんさかいやがるな。盛況じゃねえか、結構なこった」
その絢爛に装飾が施された扉を潜り、カジノの活況ぶりに目をやりながら、人混みを掻き分け鉄人は奥のもう一つの扉を目指す。射幸心をこれでもかと煽るアップテンポのミュージック、機械からチップが払い出される音、人々の喧騒、その中で時折グラスを持つバニーガールの微笑みを受けながら開いた扉の先は、打って変わって落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「お飲み物をどうぞ」
すかさず飛んで来たバニーガールからスパークリングワインのグラスを受け取り、代わりに小切手を渡す。遊戯用のチップに交換してもらう為だ。
「百万ドルチップ20枚、残りは十万ドルチップで」
鉄人がルーレットの席に着くと先程のバニーが指示されたチップを持ってやって来る。そして左隣の空いている席にちょこんと腰を下ろした。このフロアでは一人に一人、専属の接客が付くようで、なるほど黒髪の彼女は見た目も麗しい日本人女性だ。
高額のプレイヤーに対するこれは至れり尽くせりのサービスにも思えるが、当然彼女達は監視の役目も負っている。通訳も兼ねる彼女らは客同士のトラブルを未然に防いだり、時には暴走する客を取り押さえたりもする。その洗練された見た目とは裏腹に一定の水準で格闘術等も心得ていた。
「ありがとう」
そう言って鉄人は目の前に積まれたチップの山から十万ドルチップを一枚、彼女に手渡した。普通に考えれば多すぎるその額を、しかし彼女は当然のように受け取り、一つ大きな微笑みを返すに留めた。そう、ここでは既に常識的な額の如何は意味を成さなくなっているのであった。
コロン、とルーレットの球が数字の書かれた穴に落ちる。それだけの行為が何度も何度も繰り返され、その度客は結果に一喜一憂する。
「赤に」
哲人は安い方のチップの一枚をそっと赤のマスに置いた。
「ノーモアベット……15、ブラック」
鉄人の一枚がディーラーによって没収される。これまでの結果は赤、黒、黒、赤、黒、黒、そして今回の黒。鉄人は黒と赤を交互に選び、その結果勝ったり負けたりを繰り返していた。
ルーレットのルールは単純で、1から36の数字に0、00を加えた三十八マスのホイールにディーラーが球を投げ込み、プレイヤーはどの数字に球が入るかを当てる。一点を狙った賭け方から二択に絞った賭け方までいくつもやり方はあるが、鉄人は赤か黒かの勝負を好んだ。
これまでの結果が表示された掲示板にちらりと目をやり、鉄人は新しい煙草に火を着け大きく息を吐いた。
と、その途端隣に座るプレイヤーが鉄人を睨み、声を上げた。
「おいにいちゃんよ、さっきからちまちまと張りやがってみっともねえな、おい。まあそんなしけた煙草加えてる様な貧乏人にはお似合いだがよ」
このテーブルは喫煙が許された席、現に声を掛けた男も高級葉巻を咥え、辺り一面盛大に煙を撒き散らしている。その無礼な様子に注意を促すべく立ち上がろうとしたお付きのバニーを、しかし鉄人は片手で制した。放っておけ、という事だ。
「はん、言い返してもこねえか、肝っ玉の小いせえ野郎だぜ」
そう言って男は自分のチップの半分程を赤のマスに置いた。ここまでの二回、男は赤に張って大きく負けている。その事は周りの様子をくまなく観察している鉄人には当然知れている。黒、黒ときて次は赤、そう思ったに違いない。
「黒に」
哲人は小さいチップをやはり一枚、黒のマスに置く。その男は自分に突っ掛かってくるくらいだから相当負けが込んでいる、落ち目の逆をいく、所謂逆張りというやつだ。
「ノーモアベット……28、ブラック」
カラン、という音と共にディーラーの声が響く。そしてその瞬間、ドン! と音を立てて男がテーブルを叩いた。半分になった男のチップががさりと崩れる。
「けっ、赤に全部だ! 見てろ、勝負ってのはこうやってやるもんだ」
「黒に」
再びの逆張りに男は目をぎらつかせて鉄人を睨んだ。それを無視して鉄人は煙草を燻らす。
「ノーモアベット……4、ブラック」
隣の男のチップが没収され、鉄人のそれが二枚に増える。ふう、と息を吐いて手に持った煙草を揉み消し、ふと鉄人が隣に視線を向けると、件の男は既に無言で立ち去った後だった。
鉄人がやはり何事も無かったように視線を戻す。その瞬間だった。一条の光が体中を駆け巡るような感覚に鉄人は思わず笑みを零した。
ぞわり、と全身が粟立ち、ここだ! という声が頭の中に響く。
「赤に、全部」
目の前に積まれたチップの全てが赤のマスに移される。それは先程までの落ち目の男が去ったからだとか黒が続いたからだとか、そういう小手先の理屈では無い。
もはや鉄人は先程の男の事などこれっぽっちも覚えていない。鉄人の感覚が、理屈の向こう側にある何かが、そう言うなれば世界の全てが彼に告げているのだ。
次は赤が来る、と。
そして一時の静寂の後、カラカラとホイールを巡った球は吸い込まれるようにして27と数字の書かれた赤いマスに落ちた。
「凄いわね、おめでとう」
隣の彼女が微笑む。それに鉄人は無言で頷きを返した。まだだ、まだ切らしてはいけない。そんな思いで鉄人は言葉を紡ぐ。
「赤に、全部」
戻されたチップがそのまま赤のマスに移る。そして球は赤に入りチップが倍に増える。増えたチップは当然のようにまた赤に張られる。
最初はきゃっきゃと盛り上がっていたバニーガールの彼女も、四度目にディーラーが、レッドと震える声でその色を告げた時には、無言で目を見開き、鉄人の顔を只々見つめるばかりとなっていた。
「19……レッド」
そして五度目に赤が告げられ、その堆く積まれたチップを鉄人が再び赤に置こうとした時だった。上の一枚がコロリと転がり、黒のマスに掛かるように落ちた。
「ここまでか」
哲人はその全身から急激に熱が冷めるのを感じていた。その転がったチップ一枚を黒のマスに残し、隣で固まるバニーの彼女に告げる。
「今日はここまでだ。俺は明日、VIPルームに入る。このチップを精算しといてくれ」
「……あ、はい、只今。ええと、明日は何時頃、お迎えにあがりましょうか?」
しばらく惚けた様子で口と目を大きく開いていた彼女だったが、直ぐ様正気に戻りプロ根性を見せた。
「いや、迎えは結構だ。気が向いたらまた来る」
その返事を待っていたかのようにルーレットを滑る球が黒のマスに落ちた。
チップの精算を終え、戻ってきたバニーが鉄人に一枚の磁気カードを手渡す。これはこの船に乗船している間の残金を示すもので、乗船時に登録された生体データとリンクしている。
その為、極論無くても構わない代物なのだが、ゲームに使用されるチップと同様に、場の雰囲気を盛り上げる為の小道具として採用されていた。
そのカードを受け取り、鉄人は手元に残ったチップの内の一枚を彼女に握らす。そしてもう一枚をディーラーの青年に渡した。
流石の彼女も最初のチップの十倍の価値に、今までとは質の違う笑顔を鉄人に向ける。
一方のディーラー君は困った様に苦笑いを浮かべた。これだけ負けたのだ、後でどんな制裁を受けるかわかったものでは無いが、それは鉄人にとって全く預かり知らぬところであった。
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