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27 洗い流されるのは血と泥と因縁

 人々が巨大ゴーレムから逃げ惑う中、一人だけ町から出るコースとは違う順路をひた走る姿があった。

 それは外套を着込んで顔を隠しながら突き進んでいく。

 余裕があれば目立つそれに誰かが気付くのであろうが、誰もが戦々恐々として他人のことなど構ってはおられず、結果そいつは町の深くまで易々と入り込めていた。


 されど左右を壁に囲まれた路地でこんな騒動の最中、悠々とその壁に背を預けその疾駆を阻む存在があった。



「――よお、遅かったな」



 影が差す暗闇から現れる顔は――アレンである。

 彼はまるで知己と再会したかのように、その外套姿の人物に向かってフランクそうに声を掛けた。



「なぜお前がここにいる? ゴーレムの相手はしなくて良いのか?」


「あれの相手はアオイたちがやるだろうさ。俺の相手はお前だよ――()()()



 対峙する男は言い当てられ無言で外套のフードを脱ぐ。

 それは確かにこの町を騒がせ、この事態を引き起こした吸血鬼(ヴラド)だった。


 アレンの耳には今も薄っすらと葵と巨大なゴーレムの死闘の音が聞こえてくる。

 家が弾け飛ぶのを遠目に確認できる恐ろしい戦いだ。

 冒険者だとか町の兵士だとかそんなレベルは越えている。軍単位で対抗すべき存在に一人で立ち向かっていた。

 


「本当ならあっちに加わるのが筋だとは思ったんだがよ。あんなでかいのにみんな目が行くだろ? そしたらお前は好きに動き放題だなって思って屋根の上からおかしな動きをしているやつがいないか見張ってたんだよ。昨日、聖女の襲撃に失敗したのならもう一度懲りずに来るんじゃねぇかなってな。予想が当たって嬉しいぜ」



 本来であれば天恵持ちのアレンはゴーレム戦で重宝されるべき存在だ。

 仮に剣自体が効かなくても顔の前で飛び回せばそれだけできっといくつかの隙ができて、チャンスは生まれていたろう。

 されど彼は混乱を極め大人数がひしめく中をこっそりと抜け出し、聖女がいる男爵家の近くの場所で網を張ることを選んだ。



「なぜそんなことを? こちらは捜す手間が省けたがてっきりどこかで縮こまっているかと思っていたぞ」


「俺がここにいるのはお前にリベンジしたいからだよ。負けっ放しじゃいられないだろうが。それにお前なんかを野放しにしていたら夜も眠れねぇ」


「馬鹿な。実力差が分からないはずもないだろう?」



 ここにいる理由が私情。

 しかも力量の差がある相手にとくれば非合理的な行動と言わざるを得なく、それがヴラドの思考にノイズが走る。



「聞いてるぜ? お前、アオイたちに手ひどくやられたんだろ?」


「それで勝機が生まれたと? とんだ計算違いをしている」



 ヴラドは腕を気にする素振りを見せ、アレンはその返答に肩を竦める。



「かもな。つってもよ、お前のせいでこっちはパーティー解散の危機でいい迷惑なんだよ。お前が去り際に『お前の親しくしている人間を殺す。いつでも見ているぞ』なんて言いやがったせいでな」


「だからなんだ? 恐怖に怯える日々はさぞ辛かったか?」


「あぁ辛かった! あいつらと一緒にいると狙われるから()()()距離を置くことにした。そのせいで喧嘩の真っ最中だよこの野郎! 兵士たちにこっそりあいつらを警護してもらうようにも頼んだが、それでも不安で不安で堪らなかった! だからその不安を断ち切るために俺はあのでかぶつを捨ててお前だけに絞った」


「くだらない……。お前たちはそう言われるとたいてい顔を引きつらせ同じ行動をする。こちらにそんなつもりがなくても解体前の豚のように身を震わせ、いつ来るとも知れない襲撃に怯える。滑稽だよ」


「大切なやつらを守りたいと思う気持ちを利用して嘲笑(あざわら)っているお前には分からねぇよ!」


「大事を目の前にして小事に目を向ける。やはり愚かだお前たちは。こうしている間にもティタンに無残に踏み潰されるとは思わないのか? 私を倒せば英雄にでもなれるとでも勘違いしたのか?」


「違ぇよ! こんな自分勝手なことをするやつが英雄なんかなわけがねぇ。でもな、自分の大事なもん守れないなら俺は英雄なんてなりたくもない。それがよく分かった。悩むまでもねぇ、あいつらを守るためなら、守れないなら、そんなもん要らねぇんだよ! 英雄なんてなれなくていい。一冒険者で俺はいい! それにな、あっちにはアオイもいる。あいつらはあんなデクの坊にやられるタマじゃねぇよ!」



 幼少期からアレンの憧れだった『英雄』という称号。

 しかしその称号を戴く者は常に大衆の味方でなければならないと彼は思っている。

 もしそんな立場なら町を荒らすゴーレムと対峙するべきであって、ここで仲間の安全を守るために私情で勝手に持ち場を離れるなんてことはしてはならない。小を生かすために大を切り捨てるというのは英雄ではない。それが彼の持論だ。

 ならばそんなものは要らないとアレンは一蹴する。

 

 小人と言われなじられても構わない。自分は地を這ってでも目的を遂げる冒険者だと名乗りを上げた。

 自分の手の届く範囲だけを守れればいいと理想のヒーロー像を捨てたのだ。

 その変化は水面を波打つ波紋のように些細でも、彼の生き方に確実に浸透していく。



「何百年経とうが愚かだな。お前たちは」


「何百年か。そういえば、実は俺はそっちの正体に少しだけ心当たりがあるぜ? 実家の宿に来た吟遊詩人の歌の中に、大昔、人が造った人形の兵器の話があったはずだ。もう爺さんの歌い手で伝承は途絶えてしまってるかもしれないし、だからどうしたって話だから言わなかったけどよ」


「……」


「確かあらましはこうだ。魔道具が作られていた時代、人の代わりに魔物を倒すためにそいつらは造られた。名前は『人造人形(レプリカンドール)』だったかな。でもある日、そいつらを造ったやつが狂って同じ人間を襲い始めさせた。それから人間と人形たちの永い戦いが始まるんだったかな。最終的には人間側が勝ってめでたしめでたし。俺もガキの頃に一回聞いただけだからよ、かなりうろ覚えなんだが」


「ママは狂ってなどいない!!! 道を違えたのはお前たちの方だ!! 女神などと戯言を()かす女の奸計に乗って裏切ったのはお前たちだ!! そして――まだ終わってなどいない!!」



 突然の激昂。

 数秒前まで居丈高だったヴラドはいきなり感情を露骨に見せ始めた。

 瞼を大きく広げ瞳孔が開き、まるでアレンを親の仇のように睨め付ける。


 その反応にぎょっとするアレンだったが、彼もこれまで命のやり取りをする場は何度も体験し、そして覚悟を持ってここにやって来ていた。もうこの程度では(ひる)まない。

 気圧されるよりも、むしろ弱点を得たと双眸をより細める。



「んな何百年も前のこと知らねぇよ。大事なのは今も昔も俺たちの敵がお前ということだけだ」  


「ふん、使徒(アポストル)にはできる限り肉体的、もしくは精神的に苦痛を与えて殺すように言い含められている。聖女はただのエネルギー確保目的でお前は後回しのつもりだったが、ならば優先目標を変更しよう。お前を最優先で抹殺する」


「やれるもんならやってみろ!」



 両者共に抜刀し、正面から睨み合う。

 互いに出方を待つようにどちらも動かない。 

 獲物は似たようなショートソード。故に単純に技量と身体能力が勝負を決するキーとなるだろう。


 たかが数秒が濃密なまでに凝縮された時間が流れ、先手を取ったのはヴラドの方だった。

 数メートルの間合いが一足飛びに無くなる。 



「くっ! この!」



 首を刈り取るコースの剣にアレンが何とか反応した。

 ぶつかり合ったのもつかの間、ヴラドは回転して横からの斬撃を繰り出す。

 それもやや危なげないながらも対応し、驚いたヴラドは一度距離を取った。



「ほう、あの時よりも動きが良くなっている。一方的とまではいかないか」


「この数日間な、夜にお前を捜して駆けずり回ったが、昼は兵士の人たちに付き合ってもらって猛特訓の日々だったんだよ。おかげでようやく体が馴染んできたところだ。それにお前に勝つための秘策もいくつか用意してきたよ! ――ガルトムント(冒険者の剣)


 

 英雄を諦めたアレンは自分の能力を『冒険者の剣』と名付け、息いっぱいに叫んだ。


 ガルトムントはアレンが羨望を抱いた昔の英雄が使っていた剣の名だ。彼のようになりたくて天恵を使う際に英雄の剣とそう呼ぶことにした。

 それを冒険者の剣と銘したのは如実に彼の心変わりを表している。

 もちろんただ呼ぶ名を変えただけ。その他は見た目にも何も変化は見られない。

 けれど確かに何かは変わった。

 

 ――それを今から分からせてやる!


 今度はアレンが仕掛けた。

 地面とは垂直に大きく構えた頭上からの振り下ろし。しかしながらそれは頭一つ分、間合いが遠い。

 


「何!?」



 ヴラドは空振りするだろうと見当を付けており、それを見送ったあとに刺し貫く算段をしていたのだが、途中でアレンが剣をすっぽ抜けさせたことに表情を驚愕の色に染めた。

 しかもそれはアレンの手を離れたまま天から重い一撃を放ってくる。

 手が痺れるという感覚はないものの、一瞬の油断も相まって剣を落としそうになったことにヴラドは動揺した。



「そらよ! 一つ目は天恵の使い方だよ。対人用に練ってみた。初見だとびびるだろ?」



 急にリーチが伸びるという天恵を使ったテクニック。間合いが変わるということは重心も変わり、コロコロとそれらが変わるのであれば達人にありがちな【見切り】が困難になる。相対する相手としては非常にやりにくく、丁寧に捌かないといけなくなった。

 独りでに宙に浮かんで鍔迫り合いを続ける剣を匠に操りながら、アレンは腰を捻らせ会心のボディーブローを相手の空いている腹部に決めてみせる。



「ぐっ!」


「まだ終わりじゃないぜ!」



 つんのめって数歩後退するヴラド。

 そこに浮かせた剣を腰の辺りまで降ろし、アレンは柄を躊躇なく蹴り飛ばす。

 それはもはや剣というよりは(スピア)の様相を呈している。

 刀身と柄、それに足の長さを含めると二メートル近く伸び上がり、手で押し出すよりも足の方が威力も高い。

 

 剣腹を盾として弾こうとするヴラドだったが、予想以上の力が剣に乗っており、貫通力も格段だった。

 咄嗟に体を傾けるが、左腕に切っ先がカスり浅い裂傷が刻まれる。


 今までは操る剣を単純に飛び道具として使うか、合間に横から攻撃するだけのものだった。

 それがここにきてまさに剣を体の一部のように駆使する新しい戦い方をアレンは確立しようとしていた。

 名付けるのであれば【飛剣闘武(ソードアーツ)】。


 おそらくは時間さえあればいずれアレンは研鑽の末に自力でここまで辿り着いただろう。

 しかしながらここまで早いペースで進化を遂げようとしているのは、やはり葵という破天荒な存在と憧れを捨てたことが大きいのは容易く想像できる。

 要は今までは勝手に英雄が使う剣なら自分の能力はこういうものだという思い込みがあった。

 それを取っ払って自分はただの冒険者だと意識を変えた途端に様々な使い方が浮かんできたのだった。

 

 

「調子に乗るな! ラウリ(電撃)



 格下に見ていた獲物に手痛い反撃をもらい、ヴラドはさっそく自身の切り札を切る。

 稲妻が手から放射され、暗い道に白い軌跡の線が出来上がった。これも初回では乗り切ることが難儀な攻撃だ。ほぼ視認してからの回避は不可能に近い。

 葵のように超人の能力や五感があるか、バータルのように場数を踏んできた幾つもの鉄火場で蓄積された勘や経験則があれが別だが、アレンはまだその域に達していない。



「二つ目は知識だよ!」



 目で追うのは至難な雷撃をアレンは横に移動して躱した。



「バカな! なぜだ! なぜだ!」



 格下のはずの敵にさらに己の得意技をすんなりと捌かれ、ヴラドは正確な予測が立てられず動揺する。



「なぜってだから今言ったろ。アオイたちの報告を全部聞いて手の内を知ってんだよ。音が鳴ったら腕が硬直するからその手の射線上から外れたらいいんだろ? 前の俺なら食らったかもしれないが今なら避けられる」


「おのれぇ!」



 情報があったからとてそう簡単に被弾しないものでもない。

 本人が語っているように、土蜘蛛戦でのレベルアップがあったおかげで身のこなしが軽やかになってようやくといった感じだ。


 切り札を対処されヴラドは敵意を剥き出しにし、そして全力で応対することを決めた。


 フェイントを混ぜつつ疾風の如くアレンへと肉薄する。

 薄暗い路地ではその速度は人の目には捉えるのが難しく、消失したのではと錯覚するほどの速さだ。この世界の一流の戦士を凌駕していた。

 そして再び刃が高速でアレンを狙う。


 もはや軽んじられる相手ではないことは理解しているので、剣筋一つ一つが布石であり、フェイントだ。

 一方向から多く打ち続け意識を集中させたところで逆サイドから逆薙ぎ。そこでズレたタイミングで体勢が整わない間に急所を貫く。

 目線一つ、足運びや体重まで使い虚偽を混ぜていった。

 理詰めの剣術である。

 


「うるああぁぁぁぁぁぁ!!」



 だがそれにアレンは追い縋ってきた。

 荒く呼吸を繰り返し、集中力を高めて全身でヴラドの一挙手一投足を凝視して返していく。

 ただし防戦一方のギリギリだ。

 天恵の新しい使い方やヴラドへの対処法を考えていたおかげで最初こそは優勢に事を進められたが、やはりまだ互角とは言えない。

 ようやく戦えるスタートラインに立ったというのが正しいだろうか。


 連撃が止んだ瞬間を狙い後退する。

 まだ始まって時間が経っていないのにすでにアレンの息は荒く、それが持てる全力を常に出していることが窺えた。



「はぁ。危ねぇ危ねぇ。何とかって感じだな」


「有り得ない! あの時は私の動きに付いてこられなかったはずだ! いくら私が手負いで動きが鈍くなってるとは言え、多少修練したところでたった数日でそこまで劇的に強くなるなど有り得ない!」



 初めてアレンとヴラドが邂逅したあの日、ほんの僅かな隙にヴラドはアレンの後ろに回っていた。

 相当な実力差がないと成立しない現象だ。

 それが数日で埋められるはずがないとヴラドは断じた。


 事実その通りでもある。

 魔術というイレギュラーはあるものの、この世界では筋力トレーニングや修羅場での経験が物を言う。 

 レベルアップなんていう奇跡もあったが、奇跡が二度起きるほど甘くもない。


 アレンは不満そうに自身の耳たぶにそっと指を近付ける。

 そこには普段彼が付けないイヤリングが装着されていた。

 ただし見覚えがあるものだ。それは葵が普段身につけている『敏捷が上がる』頭装備のイヤリング。



「これが三つ目だ。数日前に夜にばったり会って渡されたんだよ。本当はあいつの手を借りるのも嫌だったんだが、背に腹は変えられねぇ。さっきから俺がいきなり強くなって押しているように見えるかもしれないけどよ、きっちり準備を整えてきてるんだ。お前を倒すためなら何でもするぜ?」


「ふざけるなぁ!」



 わざわざ詳細を説明する気がアレンにはないので、そのイヤリングがどういう効果を与えているのかはヴラドには分からない。

 それでもたかが道具一つでここまで差が縮められたことに憤りを感じた。

 だから遮二無二剣を振る。 

 いずれボロが出ると考えヴラドは勢い良く攻め立てた。

 なのにアレンは必死でそれに抵抗していく。



「こっちは大真面目だっての!」


「ならば――ラウリ(電撃)



 ヴラドが再び雷を穿つ。

 しかしその手の平の方向はアレンに向かっていない。

 右の土壁に直撃をした。稲妻の直撃を浴びて土でできた程度の壁は削り飛び、砂煙が舞った。

 それは一時的にお互いの視界を隠すものだ。


 アレンは息を詰め強襲を恐れて後ろに下がった。

 中距離になれば雷を体捌きで避けることは簡単ではなくなるが、その代わり彼には天恵がある。

 手放した剣を避雷針代わりに使う思惑もすでに付いていた。 

 けれどいくら準備しても何のリアクションもなく、土煙が微風で無くなって眉を顰める。

 


「つか、いねぇじゃねぇか」



 ついさっきまで土煙の向こうにいたヴラドの姿が影も形も忽然といなくなっていた。

 葵たちを苦しめた透明化だ。



『あの娘とペナンカランの末裔も対処できなかった。お前にこれが破れるか?』



 あくまで上から目線の物言いをアレンの鼓膜が拾う。

 そしてこれも報告にあった葵たちも苦労した全身を透明化する技だと思い至った。

 目を皿のようにしてきょろきょろとするがやはりどこにいるのか分からない。

 壁を背にすれば攻めてくる角度を絞れるが、それでも分が悪いのも承知している。

 やがてアレンは剣を鞘に収め、こう言い放つ。



「付き合ってやる義理はねぇな。一人で隠れんぼして門限破ってママに怒られな! じゃああばよっ!」



 言いたいことを言って、踵を返して走り去る。

 これに面食らったのはヴラドの方だった。呆気に取られた顔を横に振る。


 ここまで挑発されて黙って行かせるわけにもいかない。なぜなら彼にとって『まがいもの』と、『使徒』は排除対象だ。それに『ママ』を侮辱されたことは許せるものではない。

 だから追い掛ける。動いたことによってヴラドの姿が露わになった。



「待て! 逃がすか!」 



 今までこの両者は追う者と追われる者だったが、ここにきてその立場が滑稽なことに逆転をする。

 アレンの走るスピードは直線であればヴラドも追いつけないほどの境地に達していた。

 それは走りながら剣の柄を持って天恵で剣を飛ばし引っ張ってもらうという荒業だ。

 あまりにも飛ばす速度が早すぎると足がもつれて転んでしまうのだろうが、それを何とか制御し速度アップに貢献できるようになっていた。

 アレンは後ろから追駆していくるヴラドを見て薄く笑う。



 ――いいぜ、そのまま着いてこい!


 

 猛烈な速力で走る二人は町を駆け抜け、そう大して時間が掛からずにある場所に到着する。

 そこはアレンが一度財布の盗難騒動の折に訪れた干上がった川だ。

 ただし数日ごとに温泉が流れるため、土は湿り気を帯びていて泥に近い。乾いているがそれでも土を踏むと足跡が残る程度には柔らかい土質をしていた。

 


「ここなら姿が消えても足跡で分かる。そもそもその消えるってやつさ、ひょっとして水に濡れるだとか泥が付くってだけでダメなんじゃないのか? アオイたちは初めてな上に場所が屋根の上っていう最悪な状況のせいで手こずったんだろうがよ、知ってたらいくらでも対処可能だろ」


「……それならばここから離脱すればいいだけのことだ」



 返答までにヴラドから生まれる一呼吸ほどの間が、雄弁にアレンの推察が当たっていることを物語る。

 だから彼は逃さないよう口を続けた。



「まぁそうなんだけどよ。()()()のか? 俺のことをさんざん雑魚扱いしておいて、得意の透明が使えなくなったからってだけで逃げるなんてお前、腰抜けなんだな。よっぽど'ママ’の教育が悪かったんだろうなぁ?」


 

 さっきの会話で『ママ』という単語が相手の精神を逆なでするポイントなのは察しが付いている。

 意地悪くからかっただけで効果は覿面(てきめん)だった。



「――今の言葉、後悔するなよ」


「俺は反省はしても後悔はしねぇことにしてんだ。さぁ第二ラウンドを始めようか!」



 しばし間合いを量る二人。

 そして予兆はなしにゴングが鳴った。

 ヴラドが踏み込むが、ぬめる足場に僅かに動きがとろくなる。

 土が靴に粘りつき離すときに抵抗があるし、滑りやすくなっているので高速での下手な体捌きでは転倒すらも予測された。


 その代わり、風を切り裂く勢いで両者の鉄剣が打ち鳴らされる。

 スピードに翻弄されにくくなるのはアレンにとって好都合であるものの、踏ん張りが利きにくい足元は彼にとっても等しくやりづらい。

 


「どうした。威勢がいいのは口だけだったか?」



 舞台が変わっても自力の差はまだ埋められず、押されるのはアレンだ。

 足腰の安定はなく入れ替わり立ち替わり剣が交差する。

 辛うじて致命傷となる傷は受けていないが、血が滲む程度のかすり傷はここまででいくつもこさえていた。


 突きから引き裂く連携、剣が硬直したら即座に足技の波状攻撃。

 ヴラドの見せる流れるような剣技はお手本のようなものだ。

 一方アレンは剣術道場で修業したわけでもない。ただの我流。

 一時的に先輩であるジ・ジャジに教えを請うた時もあったが、戦う頻度は人間よりも魔物相手が多く対人戦の経験値がやや足りていない。

 その開きは如実に現れてきていた。



「うるせぇ、今慣れてきてるところだ!」



 腕や足にジンジンとする痛みを無視しながら吐き捨てる。

 事実、確かにアレンは徐々に対応はしてきていた。

 死線が、死闘が、決して訓練などでは得られない強者との命の奪い合いが、スペックの限界を越えて自身の可能性を引き上げそれ以上の域に達しようとしていた。

 たった数分の戦いが数ヶ月以上の練磨に勝る。それを体現していた。


 しかしそれだけで逆転できるほど甘くもない。流れる血は体温を奪い、動けば動くほど体力は無くなっていく。

 生死の際に立たされたおかげで昂ぶった精神と集中力が功を奏しているが、長くなればなるほど不利には違いなかった。



 ――それでもアオイよりはいくらも遅いっ!!



 道中で行っていた格上()との模擬戦もアレンに確かな土台を与えていた。

 気迫や圧力に負けてはあっという間に飲み込まれる。

 愚直に前のめりに、死中に活を見出すことが腕前で勝る相手に勝利をもぎ取る唯一の方法だというのは体で覚えていた。

 

 塞がっていた体や経絡が開いていく感覚が今のアレンには確かにある。

 知覚神経が過敏になり、まるで三百六十度全てが鮮明に見え対応できるのではないかという万能感。

 精神はかつてないほどに高揚していて、その逆に湖面のように静かだった。

 それは達人だけが入れる境地の入り口。

 最善の一手だとか最良の動きだとかそんなものに思い巡らす余裕はなく、無駄な部分の一切を削ぎ落とされた刃のようにただただ今は純粋に剣を振ることしか思考できなかった。

 


「いい加減にしろ! ラウリ(電撃)



 ヴラドが大きく後ろへ跳んで後退する。

 その先を追おうとしたが手の平を向けられていることに気付いたアレンは寸でのところで身を翻して電撃を回避した。

 ヴラドを中心に円を描く進路で狙いを付かせず、さらに剣を手放し自分の少し手前で風車のように浮かせて操る。避雷針の盾のつもりだった。

 


「悪いけど効かないぜそれ。そしてそっちが雷なら俺は泥だ」



 剣と足で泥を掬って蹴り出す。

 少量ながらそれはヴラドに向かって飛ぶ。

 彼はそれを嫌がった。だから大仰に避ける。


 無駄な動作をしている間にアレンは剣を掴んで再び接近し、剣を打ち合わす。

 ヴラドは足下から這い上がってくるかのごとく自身に力量が近付きつつあるアレンに苛立ちを覚えた。

 ひょっとしたら不安や焦りかもしれない。

 その小さな綻びが正確無比な剣筋にブレを生じさせた。

 

 敵の剣を払い、滅多に回ってこない自分の攻撃手番にアレンは突き入れる。

 それはヴラドの頬を薄く裂く。本気になった彼に初めてアレンが傷を与えたのだ。

 一瞬、本当に刹那の間だけ歓喜に意識がいったせいで足元が疎かになった。


 ずるりと靴裏の泥が滑り体勢が不安定になり、致命的な隙を晒した僅かの合間にわき腹を強烈に蹴られ横倒しに土に塗れる。

 ゴロゴロと横回転で転がり軋む肋骨に口から呻きがもれ、すぐさま立ち上がろうとしたら鋭い切っ先がアレンの腕に突き立った。



「あああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ!!!」



 肉を断つ鉄の無機物が、一片の容赦なくアレンの皮膚をずぷりと切り裂き貫いてくる。

 その痛みは筆舌に尽くしがたいものだ。

 頭が締め付けるように体の不調を訴え、傷口は熱した火かき棒で突っ込まれたみたいに熱を帯びる。そのくせ急速に熱が奪われる感覚もあった。


 アレンは口から泡を吹きながら持っていた剣を握れなくなりジタバタともがく。

 しかし余計に食い込むので腕は動かせない。

 足だけが忙しなくバタつくそれは釘で刺された虫を連想させた。

 体裁を気にしている余裕など皆無で顔や服が泥だらけになっていく。



「やはり愚かだ。死に物狂いでやっと付けたかすり傷に気を取られるなど戦士のすることではない」



 呆れたふうにヴラドはそう評価を下した。

 確かにアレンのその隙が今のこの脱出不能な詰みの状況を生み出した。

 


「う、うるせぇよ……俺は戦士でもねぇ冒険者だ」


「その違いに何の意味も見いだせないままそのまま土に埋もれていけ。想像しろ。ここで野垂れ死んで腐り、鳥に啄まれ川の肥やしとなる様を」



 止むことのない痛みに歯を食いしばり耐えるアレンは、地面に縫い付けられた無様な格好のまま軽口を叩く。

 脂汗が全身に浮き始め心臓の鼓動が痛いほど鳴る。

 そんな彼が命乞いもせず虚勢を張る姿がヴラドには気に障り、剣を捻る。



「ぐあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」


「ママを侮辱した罪、たっぷりを味わえ」



 傷口を広げられ、まさしく腕の中をかき回される感覚に最大級のアレンの絶叫が川底に木霊した。

 腕だけではなく、脳まで焼かれ神経が弾けては消えていく。

 じゅくじゅくと血は盛大に溢れ地面を赤く染める。


 これは有り体に言えば、嬲りだ。

 決着を着けるのであればこんなことをしなくてもすぐに心臓でも腹部でも致命傷となる箇所を刺せばいい。

 人造人形(レプリカンドール)の合理的な思考からは反する行いだった。



「く、くそが。まだ……届かないか」


「最初からそう言っているだろう。お前程度が勝とうなど不可能だった。諦めろ。お前にできる唯一のことは儚い夢を見ながら死んでいくことだけだ」


「ふ、不可能なのを覆すのが面白いん……だろうがよ」


「不可能は不可能だ。それ以上でも以下でもない」


「い、意見の相違だな……」



 淡々とアレンの精神までを折ろうとしてくるが、ここにきてもまだその目に灯った火は消えていなかった。



「一体何があると言うんだ? 無数の切り傷とこの腕の傷で大量に失血し発汗や動悸が抑えていられないだろう? 失神していないだけ奇跡と言っていい。仮に立ち上がったとしても剣も握れず、小賢しい飛剣を操ろうにも本体のお前は隙だらけで無意味。何に縋ろうとしているのだ?」



 今の彼にできることと言えば、落ちている剣を天恵で飛ばすことぐらいだろうか。

 そんなことはヴラドも承知している。だからそこに油断はない。



「これだけは使いたくなかったんだがなぁ……ガルトムント!」



 口から唾を垂らしながらアレンが空に自身の使う異能の名前を叫び、そしてその瞳に力が宿る。

 落ちている剣にヴラドは慌てて目をやるが、何の反応もない。

 もはや勝利は揺るがないこの状況でヴラドはそれ以上、何の疑念も警戒も抱かず、今のはただのハッタリだと即断した。

 仮に誰かが通り過ぎて救援が来ようともそんなものが到達する前に命を奪うことは容易い。

 逆転の目などあるはずもなかった。


 しかし――



「ぐっ……」



 ヴラドは自身の背中に異様な衝撃を感じた。

 顔を下に傾けると腹部には『剣』が貫通していた。

 


「な、なんだこれは……?」



 後ろに数歩後退し、力無く両膝を突く。

 がっくりとしてその一撃で糸の切れた人形のようにもはや少しも力を感じさせない。 



「い、色々準備してきたって言ったろ? これが最後の四つ目。俺の能力で操れる剣を一本、川底に隠しておいたんだよ。い、いくら背中から狙っても確実に当たる保証が無かったが、勝ちを確信して慢心している今ならいけると思ったぜ……」



 葵と勝負した際もそうだったが、アレンは常に剣を二本常備している。

 それは今までの戦闘スタイルということもあるが、自身の天恵がすぐに剣を操れるものではなくて、数日肌身離さず持つというのが発動条件だからだ。

 真正面からあっさりと避けられたこともあり、最悪の状況に陥った場合に備えて最終手段として一本をこの川に隠すことを決めていた。

 奥の手は必ず決めないといけない。だからギリギリの瞬間まで引き付けた。


 理想を言えばただの剣技だけで押し切りたかった想いはある。

 卑怯な真似と揶揄されるかもしれないこのやり方に彼自身も最初は乗り気ではなかったが、『英雄の剣』ではなく『冒険者の剣』と意識改革の末に改称した彼にはここにきて躊躇はなかった。

 泥臭く勝ちを拾うことに何の抵抗も持たないことを選んだ。


 無事な方の手を支えにしてふらふらと立ち上がったアレンは、服の袖を噛んで剣でびりびりと破き、刺し貫かれた箇所に雑に巻いていく。

 片手にほとんど力が入らないし、服は土だらけでお世辞にも清潔とは言えず大した効果が望めなかったが、貧血になってここで倒れるのを防ぎたかった。



「言ったろ。俺は冒険者だ。冒険には入念な準備をするもんだよ。そして俺は最後まで油断はしねぇ」



 ここまでヴラドに動きはない。

 微動だにせず顔を俯けて膝を突く姿勢のままだ。

 死んでいるのか生きているのか要領を得なく、もし起死回生の一発を狙っているのならば、と考えて安易に近寄ることはしない。


 厄介なことにこの後、ブラドから魔力欠乏症の治療について問い質さないといけなかった。

 だから命を奪うことはできない。

 そういう意味ではやりすぎた感もあったのだが、アレンからすると一切手を抜ける相手ではなく、策は弄したものの薄氷の勝利と言っていい結果だった。 



「――アレン!」

  


 アレンが鈍痛の響く頭に眉をしかめていると、横から聞き覚えのある声がする。

 労力を使って横を振り向くと、土手の上にいたのはミーシャだった。

 


「ミーシャ!?」



 ここにいるはずのない彼女が現れたことに硬直し目を丸くする。

 それこそ傷のせいで見えた幻視や幻聴なのかと思ったほどだ。

 


「大丈夫!?」



 困惑するアレンをよそにミーシャはそこから血相を変えて土手を滑り降りて近づいてきた。

 手で触れる距離までやってきたおかげで、その息遣いや気配から幻ではないとようやく確信する。

 


「お前、どうしてここに!? ゴーレムたちはどうなった?」


「あの大きなゴーレムはアオイがまだ戦っているわ。私はアレンの姿が見えないことに気付いて捜してたの。これが噂の吸血鬼? 生きているの?」


「あぁそうだ。近づくなよ。たぶんまで生きている」



 予感でしかなかったが、アレンの直感はまだ生きていると感じた。

 だからここでいきなりミーシャに襲い掛かられたりすれば最悪だ。

 手の内をすべて曝け出せた訳でもない。十分警戒を重ねることは臆病ではないと判断した。



「どうするの? このまま運ぶ?」


「ここでアオイたちがあのでかいのを倒して応援が来るまで見張るしかないだろうな。あんまり近づくなよ」


 

 血が足りずふらつく手でミーシャを後ろにやらせる。

 もしここで反撃でもされたら体調が芳しくないアレンでは彼女を守りきる自信がなかった。

 

 だがミーシャは彼の怪我をしていない方の腕を自分の首に回して支えようとする。

 密着状態でアレンは彼女の熱と汗の匂いを感じ、きっとここまで走ってやってきたのだろうと推論を立てる。

 喧嘩にまで発展しかけていたのに、自分のためにそこまでしてくれるという事実がじんわりと嬉しさを感じた。

 


「気持ちは分かるけどさ、せめて岸まで上がらない? アレンの怪我だって決して軽いものじゃないんだから。それに見張りは私一人でもできるわ」


「……いや、ダメだ。理屈じゃないけどそれをすると嫌な予感がする。くそ、なんだこのモヤモヤは。さっきから胸がざわついて収まらない」



 原因は不明。

 しかしながらアレンは何か予兆めいたものを頭ではなく、体で嗅ぎとっていた。

 それが一体何なのか? ズキズキとずっと訴えかけてくる腕の痛みが邪魔をして頭がうまく回らない。

 


「俺は何を見逃している?」



 ひとえにそれはアレンの冒険者としての嗅覚が働いている証拠だった。

 見落としは何だと忙しなく目を動かし辺りを観察していく。

 

 川底。落ちている自分と敵の剣。肩を貸してくれているミーシャ。未だ動かない吸血鬼。誰も通らない川岸。

 そして違和感に辿り着く。



「ミーシャお前――いつもの香水はどうした?」

 

「え?」


「この間からずっと使っていた柑橘系のやつがあったろう?」


「今日はたまたま使ってないだけよ。こんなときに何をバカなこと言ってるの?」



 アレンが指摘したのはミーシャが彼の気を引くために使っている香水の話だ。

 てっきり気付いていないと思っていたのにアレンはその匂いをちゃんと認識していた。


 しかし質問を投げかけたのはアレンだったのに、逆にきょとんとした表情で返される。

 もちろん言っていることはミーシャの方が正しい。そんなことここでする話ではない。

 


「いや、他にもあるんだ。どうして()()()()()()()()()()? 俺が心配だって言っても、オリビアやアオイを置いてお前一人で来るか? そんな薄情なことをするか?」


「それは……だって……だってさ! 私にとって一番大切なのは――アレンだからよ!」



 少し狼狽え逡巡しながらもついに決心をして、ミーシャはアレンの目を真っ直ぐに見返し頬を薄く朱に染めて言い放った。


 ともすればこの発言は愛の告白だ。というかそれ以外に受け取れない。

 仲間たちよりも自分の好きな人を優先したとミーシャは言う。

 そしてその心情は理解できるもののはずだ。 


 人には優先順位があり、その中から都度、取捨択一していく。

 ミーシャの中では、幼少の頃からずっと恋慕の情を抱いているアレンを他のすべてを捨ててでも守り抜きたい。

 その感情は道理で何もおかしくはない。


 しかしアレンは迷いなく首を横に振る。



「いいや、俺はお前のことなら何でも知っている。お前があいつらを置き去りにして俺を優先するなんて有り得ない。そんなのはミーシャじゃない」


「アレン、何を訳の分からないこと言ってるの! あなたどうしちゃったの!」



 せっかくの告白もバッサリと切り捨てられ、愛する人に理解されず目を潤ませ傷付いた表情をして嘆くミーシャ。

 自分こそがアレンの一番の理解者であるはずなのに言っていることが分からず、ただただ涙が目蓋に溜まって決壊しそうになる。

 おそらく怪我で錯乱しているのだろうと思うことにした。そうでもしないと今すぐにでも悲しみに打ちひしがれてしまう。

 彼を支えることが自分の献身であると彼女はぐっとそこで堪えた。


 なのにまだアレンは敵を見るような冷たい視線で畳み掛けてくる。


 

「お前は一体――誰だ?」

  


 アレンの心ない戯言に刻一刻と悲痛に歪んでいくミーシャの顔が――ぴたりと止まった。

 そしてゆっくりと唇が弧を描き吊り上がる。



「――うふふふふふふふふ。これ以上は無理ね。見破られたことってほとんど無いんだけど、あなた良い勘してるわ」



 突然、ミーシャの顔も声もそのままで、彼女が絶対にしないような顔付きでその女は妖しく嗤う。

 まるで人の皮を被った女郎蜘蛛。

 それは幼い日からずっと見てきたアレンの知っているミーシャからは逸脱していて、あまりにもちぐはぐでおぞましく醜悪なものを見た気がし、ヴラドと初めて遭遇した時とはまた別種の悪寒が全身を駆け巡る。


 こうして別人だと確信して見破ってもまだどこかで信じられない自分もいた。

 それほどに身長も肌艶も声音も全部が同じ。だからこそ戦慄する。 

 


「し、質問に答えろ。お前は誰で、目的は何だ?」


「女に訊いてすべてが返ってくるなんて期待しちゃだめよ、ぼーや」



 アレンはそのはぐらかした返答に歯を噛み締める。


 たぶん自分より年上だということは分かった。

 しかし思った以上の情報は得られない。


 原因はこの際一旦棚上げにしてアレンの脳に強く訴える問題は、これが『偽物』なのか『乗っ取られた』のかのどちらかということだ。

 『偽物』であれば倒せばいいだけ。けれど『乗っ取られた』のであれば傷付けることはできない。

 今にも倒れそうな疲労困憊の中、慎重な判断の無理難題が求められた。


 余裕がないアレンはぶつぶつとそいつに聞こえるぐらいの声で自問自答する。



「ここまでやっておいて愉快犯なんてことはねぇ。けど俺やその吸血鬼を殺しに来たのならとっくにやってる。どっちも満身創痍で子供の使いよりも簡単だ。なら目的はそれ以外だ。俺を岸まで運ばせようとしたな? 俺が邪魔だった? 俺をこいつから離させたかったのか? ということは――ごはっ……」



 激痛が走りアレンは自分の脇腹に熱いものを感じた。

 それは暗器で使われるような小さなナイフだ。

 ミーシャの姿をした偽物の腕が彼の死角から突き出ている。


 まずい、と思った。

 これ以上血を流せばそれだけで致命傷だと冒険者の経験が事態を理解するよりも先に警鐘を鳴らす。



「勘の鋭い子は長生きできないわよ? 愚かな豚になれば良かったのに」


「あ、あ、あ、あ、あぁぁぁ……」



 力が抜け零れ落ちていく。

 ようやく立ち上がったのに剣の柄を掴みながらまた膝を突いて、その姿勢を維持するのが限界だった。

 期せずしてヴラドと同じ格好になっている。


 反撃しなければという意志の力は霧散していき、ただその女を見ているだけしかできなかった。



「二つだけ答えてあげる。私にとってあなたの命はどうでもいい。それと目的はこの子よ。頂いていくわ」



 ミーシャの見た目をしたその女は、ヴラドを肩に担ぎその容貌からは想像しにくい腕力を見せつける。

 


「ま、待て……」



 もはや消え入りそうな声量でアレンが呼ぶ。

 それに呼応してカタカタと頼りなさげに剣が浮上し始めるが、膝上ぐらいの高さまでくると落下する。

 剣を操る力の底が尽きたのは明白だった。

 女はほんの少しだけ微笑を浮かべ、アレンの後ろに人差し指を向ける。

 


「残念だけどあなたと踊ることはできないわ。ほら、あっちの心配をした方がいいんじゃないかしら?」


「……あぁ?」



 力を振り絞って顔を傾けると、ドドドドと上流から湯気を上げ温泉が激しく音を立て流れ出してきていた。

 大の男でも巻き込まれば踏ん張ることなど敵わずに流されてしまう水量と勢いだ。


 『ここの川は数日に一回、観光用に昼間に放流するんだ』。数日前に兵士からそんなことを聞いた情景を思い出す。

 それが今日、しかもこのタイミングだとは思いもよらずアレンは自分の甘さを呪い悔しそうに奥歯を噛み締めた。



「じゃあ運が良かったらまた会いましょう?」



 ヴラドの体重がいくらかは不明だが、人一人を抱え上げても軽やかにその女は土手を駆け上がり立ち去っていく。

 誰かが女を止めるかこちらを助けてくれないかと、アレンがいくら目玉を左右に動かしても傍を通る者は誰もいなかった。

 あるとすればこの騒ぎに逃げ遅れたのか捨てられたのか、耳障りなキャンキャンとうるさい犬の吠え声ぐらい。

 縋れる希望が無く絶望感に苛まれる彼の視界は色を失いボヤけてく。



「……しく……じっ……たなぁ……」



 それからすぐにアレンの発したか細い声は濁流に飲み込まれてかき消えた。  




   

次でエピローグです。

正直、アレンチームって最初に常識とか世界観を教えてくれるぐらいの存在のつもりだったんですが、愛着を持ってしまって突っ込み役としても欠かせなくなりつつあります。


葵「今にも欠けそうなんですけど!?」

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主人公陣営無能ばっかかよ。
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