16 葵の罠
夜風が薄い温泉の匂いを運び私の鼻腔をくすぐりながら通り抜けていき、髪が少し揺れた。
少し温く湿っていてお世辞にも気持ち良いとは言えない。
温泉町であるカッシーラはどうしても町全体の気温が高めで少し蒸し暑い。冬は良くても夏はうだりそうだ。まぁここに住んでいる人からすれば流れた汗は温泉に浸かって流せばいいじゃんと言うかもしれない。
私は今、とある場所の適当に見つけた背の高い建物の屋根にいた。
さすがにここから目を皿のようにして犯人を探す、というのは無理ゲー過ぎるので、あるアクション待ちだ。
上から見たカッシーラはたまに煌く町明かりが儚げで綺麗に映った。
魔道具が多少は普及しているとはいえ、無駄に掛かる経費を夜中まで消費する民家は少なく田舎のように真っ暗。所々で酒場のような場所や、詰め所などにはそれなりの人気があって光以外にもガヤガヤとした喧騒がもれてくる。
耳を澄ますと、中年のおやじが合唱する歌声、楽しそうに酒を片手に笑い合う歓声、喧嘩の啖呵を切る罵声、様々な音が届いてきた。
それは生々しい人々の息遣いが心臓の鼓動のように見え、町として夜も生きていることを伝えてくるようだった。
隠されてはいるとはいえ、町が水面下で存亡の危機に直面しているのにいつもと変わらない日常。
それはどこか危うく同時に尊いものに私の目には映った。
しばしそんな風景を腰を下ろして堪能する。
「豆太郎、お鼻大丈夫?」
『うーん、まだむずむずするけど、ちょっとだけなれてきた。でもついせきはむりかも。ごめんね』
前足で鼻を掻く仕草をする豆太郎。
町全体を覆う温泉の匂いのせいで彼の追跡能力はガクンと落ちていた。
もしいつも通りなら犯人が現れた場所から辿ることもできそうだったんだけど、別に無理は言うまい。
「いいよ全然。出くわしたときにとっ捕まえればいいだけだし」
『がんばるよー』
ぴょこぴょこと小さな耳と尻尾が活発に動く。
その可愛らしさに思わず両手で持ち上げてさわさわとした毛並みのお腹に顔を埋めた。
頬や鼻で擦るとくすぐったそうに笑う。
「ほれほれほれほれーーー」
『わひゃー、あーちゃんくすぐったいよー』
そのまま後ろに倒れこみ寝転がった姿勢のまま顔面に豆太郎を貼り付けて体温を感じる。
ちょっと暑いが私にとっては蒸しタオルと同じぐらいの癒しの時間だ。
もうこれこのまま寝てもいいかもしれない。豆太郎で窒息死しても別に構わないわ。
「死因が豆太郎でも私は本望よ」
『しんじゃだめー』
しかし私を気遣ってか豆太郎は顔面から離れ、私の顔と肩の間にぴとっと背中を付けて丸くなる。
こういう収まるスペースが好きらしい。耳に背中の体温が感じられ、これはこれで良いね。
豆太郎が分身の術とか使えてモコモコにされたらそれだけで私はノックダウンだよ。
なんてお馬鹿なことを考えていると、突然、豆太郎ががばっと起き上がり耳をピクピクさせる。
「合図?」
『うん。おとがきこえたよ』
「どんなの?」
『ぴっぴっぴっ、ぴーぴー』
それを聞いて予めガルシア商会から用意された町の地図を広げ確認した。
「ぴっぴっぴ、ぴーぴーだと……あー、分かったわ。北西の地区ね。じゃあ行きますか」
『あいさー!』
建物の屋根を足場にしてすぐさま移動を開始する。
補修もされておらず足場は悪いが私たちにとっては障害物足りえない。直線上に進めるので地上よりも進むのに都合が良いぐらいだ。
月夜すらも私たちを捉えきれない速度でいくつもの高さの建物を苦も無く駆け抜ける。
たまたま音がしている箇所の近くを通ると、私たちみたいに屋根の上に獣人がいた。
「あっちだ」
彼に目線を送ると次の地点へ指を指してくれる。そこからまたそっちへと向かう。
音は連鎖していた。
実はこれは私がガルシアに提案した方法だ。
携帯電話が無いこの世界で犯人や被害者を発見してからこちらにその情報が来るまで時間が掛かる。だから人員を等間隔に配して笛で知らせてもらえるようにした。
ただしその笛は‘犬笛’だ。一般的な笛であれば犯人にも聴こえて逃げられてしまうが、人間には可聴できない周波数でそれを伝える。確認したところ獣人も人間より可聴範囲が広いらしいので、遮るものが無い屋根から遠くまで届くように突貫で作らせた犬笛で獣人による連絡隊を作ってもらった。
町の区画を地図上で番号に別けて、モールス信号みたいにリズムの種類も創作し該当する拍子で鳴らす。
もちろん、普通なら人を置いても数百人規模じゃ町を全てカバーできる訳じゃない。人間より五感が強化されている獣人たちと豆太郎たちの力技である。
どれだけ早く豆太郎の耳がそれを拾い、どれだけ私が速く到達できるかが鍵。
この構築したネットワークなら犯人にも異変が気付かれず、町の人にも聴こえないから不審に思われないし、ダルフォールさんたち兵士側も出し抜ける。
十分足らずで音で示されている区画で笛を吹いている人物の元へと到着した。
「葵よ、聞いてるわね?」
突然、空から落ちてきた私たちに呆然と目を見開いて固まる若い男に話し掛ける。
彼は硬直したポーズのまま器用に顔だけ縦に動かす。
もうちょっと驚かさない登場の仕方した方が良かったかもね。
「き、聞いてる。そ、その全身黒ずくめ、間違いなさそうだな」
「ええそうよ。それで‘どっち?’」
「被害者だけだ」
「――!」
私の質問は、見つけたのは‘犯人’か‘被害者’か、というものだった。
すでに遅かったらしい。
「こっちだ」
先導され案内されたのは死角のある路地裏。
そこには首筋の傷跡から微かに血を流し、倒れているシスター服の女性がいた。
その現場を見て思わず下唇を噛んでしまう。可哀想に死んではいないけど顔は恐怖に張り付いていたからだ。
「豆太郎、匂い分かる?」
『うーん、あーちゃんごめん。わからない』
一応、周囲の匂いから手掛かりが得られないかと探ってもらったが何も発見できなかった。
しゅんとなる彼の背筋を慰める。
「ごめん、遅かったみたいね」
「いや俺が見つけたときはもうこの状態だったから仕方ねぇ」
「じゃあ兵士に連絡だけしてもらえる?」
「あぁ分かった」
やり取りは簡素なもので、それだけで終わった。
なにせもう‘六回目’だ。ガルシア商会襲撃からすでに『四日』が経っていた。
「戻ったよ」
「おかえりなさい」
詰め所に顔を出すとオリビアさんがにっこりと微笑み出迎えてくれた。
元食堂かなんかのスペースを改築したらしくそこそこ広さのある建物に、オリビアさんとミーシャ、そして幾人かの兵士が詰めている。
一向に吸血鬼が見つからず被害者ばかり増え続ける現状に、漂う空気は正直緊迫感があってあまりここにはいたくないというのが本音でたいてい私は外に出ていた。
それに兵士たちからするとやっぱり私たちは部外者でよそ者だ。扱いに困るお客さん、という感じでしか見られていない。
彼女たちも兵士と一緒に昼も夜も関係なく見回っていて疲れの色は濃い。特にミーシャは思うところがあるのか人一倍の熱心さがあった。
「北西の方でまた襲われてたらしいよ」
「……そう」
「難しいもんだね。ここまで足取りを終えないとなると隠れ家か協力者がいるとしか思えないけど……まさか吸血鬼の仲間なんているとも思いたくないし」
さすがに四度目ともなると二人のリアクションもやや薄い。
協力者という意味ではバータルさんたちの顔が浮かぶが、状況的にも彼らではないと思う。
もしそうならお嬢様を襲われてまだ庇う理由が見つからないし。
「アレンの方は大丈夫かな」
心配そうに呟くのはミーシャだ。
彼女はあれからアレンと話をしたそうだけど、結局、アレンが単独行動を取るという意志は変えず、ひとまずはそれで話は落ち着いたらしい。
まぁ単独と言っても私たちからという意味で、あっちは犯人の顔を見ている身だ。囮として隠れて兵士たちに護衛されて行動しているみたいだし、本当に一人でもない。ちなみにあっちにも未だに現れていないみたい。
私もあっちを見張っていたいんだけどアレンには一人でさせろと釘を差されてしまっていて放っておくしかないかな。
「あっちは信じるしかないね。でもだいぶ行動範囲は絞れてきてるとは思う」
総動員されたガルシア商会と兵士たちの決死の捜索と巡回により死角はかなり少なくなってきている。
さすがにまだ全部を埋めることは無理だが、人のいないスペースを見つけるのはそう容易くなくなってきているはずだ。
それに合わせてギルド方面から魔力持ちには夜間の外出を控えるようそれとなく連絡しており、犯人としてもじわりじわりと追い詰められてなかなか大変になってきているのではないだろうか。
反目しあう二つの勢力が力を合わせることによってようやく物事が進んできている気はする。
ダルフォールさんはわざわざ兵士の巡回ルートまで事細かに私に教えてくれる。
そのあたりから、たぶん私がガルシア商会と接触したことに気付いているようだった。要はそこ以外を守らせろってことだろうね。メッセンジャー代わりは癪だけど、私の単独行動も許してくれるし甘んじて受けていた。
こうなってくるとガルシアが言っていたダルフォールさんが私たちをわざと襲わせた、という話も信憑性を増してくる。
やだねぇ信じられる味方がほとんどいないっていうのは。
「でも何なんだろうねペランカランとか女神の呪いって」
ふとした雑談でミーシャが疑問を零す。
ペランカランの方はもう私は知っているんだけど、それを答えるわけにはいかなかった。
数百年、人間に知られることなく生きてきた彼らの努力を無駄にはできないし惚けるしかない。
「ペランカランと女神の呪いってのはよく分からないし、そもそも誰のことについて言ったのか知らないけど、使徒ってのはおそらくはアレンよね」
「え?」
「どうして?」
きょとん、とした目を二人から向けられた。
あれ? そんな変なこと言ったかな。
「どうしてって、アレンから聞いた口ぶりだとそうじゃない?」
『使徒にまで出会えるとはな』という台詞からあのタイミングで言うあたりそう考えたんだけど。
ただまぁ、アレンが使徒って柄じゃないのは分かる。
だからきっと‘天恵’の才能のことを指しているんじゃないかと思うんだよね。
「天恵は文字通り女神様から頂いた恵み、才能ということだから確かに女神の使徒って言えなくもないけど……」
「女神様の使いならもっとこう穏やかで白っぽいイメージあるもんねぇ」
けっこうひどいことを歯に衣着せず言うニ人。
でもアレンに白っぽい服とか似合わないのは同意してしまう。
後光が差して穏やかな表情浮かべながら「さぁ祈りましょう」とか言われたら、何か悪いものでも食べたんだろうかって思っちゃいそうだし。
「そうなると、犯人がなんでそんなことを言うのかってことよね。もちろん適当なことほざいてるだけもあるけどさ」
まだ死人は出ていないものの、なにせすでに何人もの被害者を出している悪人で、この世界の人たちが信奉する女神様を侮辱する狂人だ。自分の捻じ曲がった空想世界の話で表現しているなんてこともありえる。
なので本来なら一考にも値しないはずだったけれど、『ペランカラン』というバータルさんたちしか知らない単語を口にしている以上、ただの妄想癖が著しいイカれた人間とは考えにくかった。
「女神の呪いだなんてリィム様を蔑視する発言はとても許せるものではないわ」
「ちなみにそういう女神様を悪く言う人たちってどれぐらいいるの?」
オリビアさんが気にするのはそこらしい。いかにも教会側っぽい感想だ。
よくよく考えると彼女のように教会関係者が近くにいるからこの世界の全員がリィム教を信じていると思っていたけど、どれぐらいの普及率なのか確かめておきたい。
「ほとんどいないわ。確かにお姿は見れることもないし、人の世界に干渉もされないけれど、‘魔術’という証拠があるもの。私たちが日々恩恵を頂いているのはリィム様がいるからよ。だからみんな敬っているわ」
うーん、これは困った。
言う通り『魔術が使えるのはリィム様がいるおかげ』なら確かに感謝されるんだろう。けれど、『なぜリィム様がいると魔術が使えるのか』肝心のそこは立証されていない。ファンタジーの世界だからそういうもんだと言われればそれまでだけど、たぶんこれ突っ込むとややこしいことになりそうな気がする。
「これは確認なんだけど、そのリィム様がいるから魔術が使えるっていうのはなぜ?」
「そう言われているからよ。それに使える人と使えない人がいるでしょ? それはこう言うと語弊があるかもしれないけれど素質があるか無いかは選ばれているからよ」
常識がそうなってるからきっと疑問の余地が無いんだろうなぁ。
単に偶然とか血筋とか色々要素はありそうなんだけどここはこれ以上深堀はしない方がいいかも。
「ごめん、あと一つだけ。リィム様を悪い風に言う人はほとんどいない、って今オリビアさん言ったけど極少数はいるのよね? それってどういう人たち?」
「そうね……例えば悲劇的な事件や事故に遭い天を恨む人。それに教会と諍いを起こして憎んでいる人、これは盗賊とか犯罪者も該当するかしら。あとはアオイちゃんみたいな人ね」
「え?」
さすがにここで私の名前が出てくるとは思っておらず上擦った変な声が出た。
「山奥で暮らして常識を教えてもらってない人ってことよ」
「デスヨネー」
びっくりしたわもう。心臓が止まるかと思った。メールのことがあるから神様の存在は信じなくはないけど、尊敬はしていないことがバレたのかと焦ったよ。
あれ、てかメールくれた神様ってリィム様なの? それを質問で送ったら返事くれたりしないかな。暇があったら一応してみるだけしてみるか。
「結局こっちで考えても分からないんだし、捕まえて直接吐かせるしかないんじゃないの?」
正論だが、やや脳筋というよりかは気が短いミーシャにそうまとめられると考えるのが面倒ってだけに見えるなぁ。
「ん?」
そうしていると、外から言い争うような声が聴こえてきた。
一人は女性で激しい怒りを感じる口調だ。他はなだめようとしているっぽい男性たち。
それは荒々しく詰め所のドアを開いて入ってきた。
「責任者を出して!!」
見た目的には三十歳を過ぎたかどうかぐらいの女性だ。
格好からすると普通の町民っぽい。ただその勢いはヒステリーすらも感じさせるほどで、目は血走り頬はこけて追い詰められた人のように思えた。
彼女は詰め所の中を確認すると構わず怒鳴り散らす。
「急に何を言ってるんだ? 落ち着きなさい」
すぐに詰め所にいた数人の兵士から囲まれ取り押さえられようとする。
さすがに女性一人にやり過ぎな気もするけど、何をするか分からない相手だ、慎重にならざるを得ないのは当然だろう。
「なんでこんなに人がいるの! どうしてもっと探してくれないのよ!?」
「何を喚いているんだこのおばさんは……」
「痛い! やめて! 触らないでよ!」
「あんたが暴れるからだろうが!」
あまりに突然の半狂乱と言いがかりっぷりに周りは困惑するばかりだが、暴れている人間を取り押さえるのは慣れているのか、兵士たちの動きはきちんとしていてとりあえず拘束自体は簡単にできた。
「待て。手荒な真似はよすんだ」
そこに近づくのはここの詰め所の一番偉い隊長の人だ。
彼は拘束を解かせると「落ち着かせたいから」と言って他にいた兵士たちを少しの間、近くの見回りに出掛けるように命令した。
当然彼らは一様に納得はいっていないようだったけれど、さすがに上司の命令には逆らえず眉を顰めながら渋々といった様子で外に出て行く。途中、特に一切声を掛けられなかった私たちに疑念の視線も向けられる。それを受けて私たちもなぜ残されたのかと目をその隊長さんに返す。
「ここにいるのは事情を知っている者だけだ」
「この無能共! 息子が死んだらあんたたちのせいよ!」
二人のこの言葉でようやく合点がいった。
おばさんが何を言っているのか、なぜ私たちも外に出されなかったのか。
隊長さんは表情を固くし向き直る。背中からは申し訳なさが滲み出ていた。
「お母さん、魔力欠乏症のことは内密にお願いします。現在、犯人は兵士一丸となって鋭意捜索中です。ですから、お子さんと一緒にお家で吉報をお待ち下さい」
「そんなこと言ってもう三週間以上も経ってるじゃない! 日に日にあの子は目を覚まさなくなっていっているのよ!? もうたぶん猶予は一週間も無いわ! ねぇ早く、早く犯人を捕まえてよ!」
怒気をぶつけられながらも女性の腕を取り何とか落ち着かせようと隊長さんがするんだけど、むしろ逆効果という按配で感情を爆発させていく。
「捜しています! ですが申し訳ありません、結果は出ておりません。どうか、どうかもう少しだけお待ち下さい」
ここまで聞けば誰でも分かるだろう。
この女性は吸血鬼に襲われた被害者の母親だ。
最初に魔力を吸われた人は日数的にもう末期に近い。コリンス少年のように喉元にナイフを突き立てられようとしても気付かないほどに一日の大半を寝て過ごしていることが予想される。
きっと彼女は一日に数時間しか起きれなくなった息子に居た堪れなくなりこうして詰め所まで押し掛けてきたのだ。
私に子供はいないが、もし家族が似たような目に遭えばその苛立ちは想像を絶するものがあるに違いない。
この不満は正当性のある不満だ。だから隊長さんも手荒には扱えないし、未だに解決できていない負い目がある。
そしてそれは私たちも一緒だ。オリビアさんもミーシャも返す言葉が見つからず、悔いるように地面しか見れない。
「そうやって! そうやって! なんでよぉ……なんでうちの子なのよぉ……あの子と遠くまで買い物に行ってその帰りにちょっと目を離しただけだったのよ!? いつものお気に入りの玩具のお店でまだ見ているのかと思ってただけなの! それが、それがあぁぁぁぁぁぁ……」
彼女の溢れた感情はやがて怒りから悲しみと後悔へと変質した。
事情を知ってしまうと隊長さんに縋り付き激しい慟哭する姿は、さっきまでのヒステリックような印象とはがらりと変わって、子供の無事を信じている一方で失われるかもしれないという恐怖に打ち震えている一人の可哀想な母親にしかもう見えなくなっていた。
私の持っている状態異常回復薬を使えば手っ取り早くこの人の息子さんは回復でき、不安を取り除ける。
ただ全員に行き渡るほどの数は持ってはいない。この人たちが助かっても他が助かる見込みがなく、単に混乱を引き起こすだけの恐れもあった。だからこの人だけを助けても意味が無い。
いやこの思考は私のズルさだ。理屈付けて会ったこともない人よりも、自分や知り合いに使いたい、残したい、という浅ましい利己的な私欲がまだ日数があるからと屁理屈を付けて躊躇させているに過ぎない。
なんて嫌な女なんだろうね私は。
回復薬を取り出そうと腕が動くが、ふいにミーシャがつかつかと前に出て止まる。
「なに? あんたなんなのよぉ!」
泣き崩れる母親の傍まで行くとミーシャは無言で平手打ちをした。
乾いた音が響き、私たちは短く息を呑む。
「ふざけるな! あんただけは信じなきゃいけない! あんただけは諦めちゃいけないんだ! たとえほとんど目が開かなくなって物も食べられなくなっても、最後の瞬間まであんただけは子供の回復を信じなきゃいけないんだよ!」
「なっ! ……っ!」
叩かれたおばさんの激高がミーシャへ跳ね返ろうとしたが、それは困惑し行き場が無くなり霧散する。
なぜならミーシャの目から流れる涙を、そしてその奥に映る彼女の‘過去’を垣間見たからだ。
当然、魔力欠乏症はこの世界では治療方法のない不治の病。ミーシャの家族がどうなったかは察せられる。
だから母親は反発する言葉を失った。
「日ごとに会話できる時間が無くなって、食べる量も減って、元気も無くなっていってさ、自分たちは何も悪くないのに『ごめんねごめんね』って何度も謝られて、何でもしてあげたいのに何にもできなくってまるでひどい拷問を受けているみたいだった」
この独白はあの偽聖女騒動の折りにミーシャが逃げ出しついに吐き出せず、私も向き合えなかった彼女の過去と想いだ。
私より一つ年上なはずなのに、なぜかまるで迷子になって涙を流して彷徨っている少女のように見えた。
手の平を広げ彼女の悲しみは続く。
「手から砂が零れ落ちるように希望も何もかもが抜けていく。その気持ちは分かるよ。私もそうだった」
「だから何? あなたにそういう経験があるから私は黙れっていうの!? 大人しくしろっていうの!?」
「違うっ!! 私の時はどうしようもなかった。誰も助けてくれないどころか穢れてるって街中の人たちから追い払われた。でも今回のは可能性がある! 兵士は犯人を捜して不眠不休で働いているし、薬師はどうにか回復させられないかとずっと調合を試している。あなたが騒いで噂が流れて町が混乱すれば、そっちに手が割かれてそれだけ解決するのが難しくなる。私の場合とは違うの! だから挫けず堪えて欲しい」
「そんなのっ……」
おばさんだって理屈では分かっているんだ。それでも焦れて焦れて煮えたぎった感情が半ばヒステリックな直談判を強行させこの場にいる。
ここにいる誰も悪くない。私たちが揉めている時点でおかしいんだ。
「もし私の時に助けることができる人がいたらって思ったこともある。なんでもっと早く現れてくれなかったのって」
その言葉にドキリとした。明らかに私のことを指している。
アレンから似たようなことは聞かされていた。でも本人の口から告白されると受け取る重みがまるで違う。
あの時は言いがかりでしかないと思ったけれど、ミーシャの想いが伝播してきてそうすっぱりと割り切れない。
「もしもの場合、怒りをぶつけるのなら私をどうしてもいいわ。だからもう少しだけ待って、お願い。私のときには誰もいなかった。でも今は色んな人がいる。信じて欲しいの。きっと助かるって!」
「そんなこと言われたら……」
女性は別に狂っていた訳じゃない、ただ不安だっただけ。だからミーシャの実感と重みのこもった言葉に説得されていた。
小さく嗚咽をもらす女性が落ち着くまで少し待って、やがて家に帰って行くのを見送る。
「ミーシャ……」
なんと声を掛けていいのか分からなかった。
慰めも違う、無視をするのも違う。正解が浮かばない。
「過去は戻らない。それに他人を逆恨みすることをパパとママは決して望まない、そう思ったの。それにアレンがいたら同じことを言う。それだけよ。だから私はあんたに思うことは何にもない。あるとすれば――とっとと犯人を捜すわよ。それ以外は全部あと。それでいいわね?」
「ふんっ!」と鼻息荒く腹を括ったような決意の眼差しで、私の肩を叩き黒い瞳を覗き込んでくる。
ふんわりと彼女の柑橘系の香水の匂いが鼻をくすぐった。
それがミーシャの答えなんだね。
なら応えるしかないわ。
――『くノ一葵』としてその任務引き受けた。
「分かったわ。とりあえず私はまたあっちに戻るね。また何かあったら連絡するから」
「ええ」
「気を付けてね」
見送られ詰め所を出る。
さすがに夜もだいぶ更けて良い時間になってきたから今日はこれ以上は事件が起こらなさそうだったが胸に火が点いた。もう少しだけ粘りたい。私だってもう一週間経ってかなり焦れているんだもの。
月明かりと巡回中の兵士が持つランプの灯りなどを手掛かりに目的地へ向かう。
全身黒ずくめの格好だから人に見つかるとビクっとされやすいのでほとんどは屋根の上を伝っての移動だ。
五感が強化されているこの体では『暗視』のスキルを使わなくてもそれだけで闇を払うことは可能だった。
「さて、今日もここに戻ってきたね」
私が腰を下ろしたのはさっきまで最初に犬笛の音色を聴いた建物の上だった。
ここからだと例の場所がよく見えるんだよね。
『せいじょさまってどんなんなんだろうねー』
前足で顎を掻きながら豆太郎が話を振ってくる。
そう、私たちが陣取っているこの場所は聖女を匿って治療をしているという例の貴族のお屋敷近くに位置していた。
なぜここにいるかと言うと、当然吸血鬼を捕まえるためだ。
相手が魔力を集めているというのなら魔力をいっぱい持ってそうな聖女が狙われないのもおかしい。
というか、そもそもお風呂でミラが言っていた半月前に起きた襲撃事件がすでに襲ったものではないのかと私は睨んでいる。
奇襲したももの返り討ちに遭い、与し易い人にターゲット変更したのではないかと。
ここ数日の警備の締め付けの強さと、狙いやすい魔力持ちもほとんどいなくなってきたとすればもう一度リベンジに来る可能性があると私は踏んでここにいる。
ぶっちゃけここ数日の空振り具合からこっちから捜したり音が鳴ってから向かっても効果は薄く、こうして怪しいところを見張っているのが現状はベストだと私は考えたのだ。
まぁ聖女様がプレイヤーであった場合、SPと魔力が同じものなのかどうかっていうところの不安はあるんだけど。
「うーん、大和伝の人だったらいいんだけどね」
それが私にとってもありがたい。
また土蜘蛛姫みたいな強敵が出てきた場合に備えて仲間を集めるのが目的なのだから。
ここまで来て無駄足でしたじゃちょっとヘコみそうだ。
「ただ、いよいよとなったら忍び込んででも顔合わせするわ」
ここまでかなり遠慮してきた。
本当ならいくら警備があろうとも、【くノ一】の私であればあんな屋敷に潜入するのは楽勝だ。
でももし自分が逆の立場ならいきなり寝床に忍び込んできた人とは信用が築けないと思ったから、ここまで強硬手段は引き伸ばしてきた。
しかしいざとなったらそれはもうやむを得ない。
大和伝の状態異常回復アイテムが効くのであれば、おそらく【巫女】の回復も効くはずで、それをお願いしたい。
正直、被害者たちは会ったこともない人たちのことだから他人事だった。自分の利を優先したいと思っていた。
けれど今はあのお母さんに胸を打たれ、土下座でもアイテム交換でもいいから、もしプレイヤーがいるなら治してあげて欲しいと思っている自分がいる。
月が輝く闇夜の下でしばらくそのままでいた。
もう月も降りようとしている深夜に差し迫り、帰ろうかと思っていたとき、私の耳が小さく窓が割れる音を拾う。
ガラスは一般家庭ではまだまだ普及していない。使われているのは貴族のお屋敷ぐらいのものだった。
だからこれが聴こえたということは――。
「あれだ!」
貴族の屋敷はイメージの通りでかい。
庭付きで市営の図書館ぐらいの広さはあり、部屋もいくつもある。
目を凝らしその中で一番上の階の端にある部屋の窓が、歪に穴が開いているのを見つけた。
庭にいた警戒していた私兵たちもこぞって建物の中へ入って行くのも見えた。
これで侵入する大義名分ができた、やったね!
「豆太郎いくよ!」
『あいさー!』
夜の闇へ建物から垂直落下する。
十数メートル程度の落下ではこの強靭な体にはダメージすら及ばない。
地面に降り立つとしなる筋肉が衝撃を吸収し、曲げた膝をバネのように反発力を蓄え一気に弾かせる。
そのままのスピードで貴族の屋敷の塀を軽くジャンプで飛び越え花の咲く庭の前に着地した。
横を確認すると豆太郎もちゃんと着いてきている。
「一気に行くからね!」
『きょうこうとつにゅ~』
貴族の趣味なのか植木を器用に剪定して、犬の形やイタチのような造詣をした生垣がいくつも立ち並んでいた。
トピアリーってやつだね。庭師の人が大変そうだ。
そこを横断し館の壁まで近づいて豆太郎を左手で抱えながら壁走りで登り、割れた窓から一気に突入した。
「そこまでよ! お縄を頂戴するわ!」
真っ暗な室内で見た光景は、視界の真ん中に映る豪華なベッド、その上に乗りマントを羽織った人物が緑色の髪をしたおそらく聖女の女性の首根っこを持って締め上げているところだった。
あまりの唐突さに瞳孔が開き喉の奥が鳴る。
「その手を離しなさい!」
すかさず一足飛びにベッドまで跳び、首を絞めている手を上から手刀を振り下ろす。
けっこう本気の一撃。当たれば骨が折れるかそのまま腕が引きちぎられるか、ここまでの犯罪者に腕一本そのままもらうくらいの覚悟は辞さない。
だけどその攻撃は空を切る。
簡単な話だ、手を離された。
横を向くと顔面近くに足が迫っていた。
それを咄嗟に腕で受け止める。骨まで響いてきそうななかなかの衝撃だ。
足元のベッドはあまりにも柔らかく不安定で踏ん張りが利かず壁に激突した。
あっちは背中から倒れこみながらもそれで反動を付け地面に手を付き器用にバク転して姿勢を戻しこちらを見据えてくる。
「豆太郎、一旦この聖女らしき人の護衛をお願い!」
『まーにおまかせー』
狭い室内で暴れたら守るべき対象が傷付いた、なんて冗談にもならない。
でも頼れる相棒がいてくれるなら安心だ。私は取り押さえることに専念できる。
出方を窺うように目を細めると奇妙な一瞬の間と静寂が流れた。
そして事態は動く。ベッドの上では不利だと判断して降りようとしたところを横から足で刈られる。
出鼻を挫かれた思いで横倒しになりながらもマットレス部分を破れるほど強引に掴んで相手の首を蹴り上げた。
無茶な体勢だったので威力はたいしてなく、それをガードされつつ足首を持たれる。
「やばっ!」
宙吊り状態での拘束。やってしまった感があった。
恐るべきことに女子一人分とはいえ、数十キロある人間を物でも扱うように軽々と持ち上げてくるその膂力。
この状態では抵抗のしようがなかった。
「ぬあぁぁっ!!」
急に視界が揺れた。逆さの状態が一気に天井スレスレになりそして地面に叩き付けられたからだ。
一気に三百六十度回転した急転直下の遊園地の絶叫マシーンのような強烈な耐Gが掛けられ、内臓が口から出そうな不快感と痛みがやってくる。
さらにもう一発。さらにさらにもう一発。さらにさらにさらにもう一発。
寸でのところで手で衝撃を和らげてはいるが、熱を帯びぐるんぐるんと世界が回り脳が揺れ頭に血が上り、正常な思考能力が低下されていく。
「いつまでっ!」
五発目のあとギリギリベッドのフットボードに指が掛かった。
私の体重にベッドの重さが加わり私を振りまわる手が止まる。
それでもちょっとベッドが浮いているから冷や汗ものだ。
すでに豆太郎と女の子は部屋の端へと避難している。さすが相棒、気が利くね。
即座にこっちも手で相手の足首を掴み空いている片足で顔面をトゥーキック。
硬い感触がして手を離させた。
よし! 心の中だけでガッツポーツを取りながら重力に従い頭から落ちるのを手で支え逆立ちの状態から反動を付けて立ち上がる。
ようやくの反転世界からの脱出だ。
『くっ!』
男はよろめき、何を思ったのかいきなり割れた窓に駆け出し、そこからマントを翻し外に身を投げた。
しまった、これ逃走だ。
「逃がさないわよ! 豆太郎追いかけるわ!」
『あいさー!』
逃げるなら護衛は要らないだろう。なかなか手こずる相手だけど豆太郎と連携すれば容易いはず。
そうして私と豆太郎は聖女の部屋から飛び出した。
一拍とか二拍のリズムより、町を地図上で区画別けしてモールス信号みたいにいくつも種類作ってその拍子の種類で知らせる方が良かったかも…。
※そっちに修正しました。




