21 現れたのは――
よくよく考えると、そもそもがサミュの足で逃げ切れたことがおかしい。なぜキマイラが彼に狙いを定めたのに追って来なかったのか?
テッドがキマイラの注意を引くために大声を出し、時間を稼ぐために松明を拾い上げたとしか考えられなかった。
窮地を脱し回り始めたサミュの思考がそれに気付く。
「このクソガキ、自分を助けるためにテッドを囮にしたのか!?」
「そ、そんなことは……」
ペッゾに糾弾されて言葉を濁すもサミュはきっぱりと否定できなかった。
もちろん声を大にして「そんなつもりはなかった!」と抗言したい。けれど声が聞こえたのに無視したのは事実で結果的にそうなっているのも現実。
半ば認めてしまっている自分がいた。
なぜあの時、足を止めて振り返ろうとしなかったのか? そう自分を苛めるが、僅か十歳ほどの少年に命の危機が懸かった場面でそこまで求めるのは酷なことだろう。
ペッゾはサミュを放って松明を取ろうとし、マイクロフトがそれを止める。
「何を? まさか助けに行くつもりですかい? 殺されるのがオチですよ!」
「黙ってろ腰抜け! 俺みたいなどうしようもないやつでもテッドは良くしてくれた。その礼を返さないまま死なれてたまるか!」
ペッゾという男はその外見や性格もあって社会に馴染めない男だった。そのせいで悪目立ちをし、素行の悪い連中からは目の敵にされたのだが、それを放っていたのが良くなかった。
自分から因縁を吹っ掛けるようなことは少なかったが、降り掛かる火の粉を払ううちにあれよあれよという間に恨みを買い、殺人の濡れ衣を着せられるまでになり奴隷堕ちしてきた。
さらに心が荒みこの鉱山でも喧嘩が絶えず懲罰も何度も経験する。
厳しい労働と相まって死に掛けた彼を助けたのはテッドだった。自分の食事を分け与え怖がらずに話し掛けて孤独に苛まれた心を癒した。
口には出さないがペッゾはテッドに多大な感謝をしていたのだった。
「余は……テッドを見殺しにしたのか……」
サミュが愕然とする。
こんな想像を絶するような熾烈な環境に押し込められ、家畜のごとく扱いを受けた場所で唯一味方してくれた恩人。
自分もあぁなりたいと憧れ、こんな兄がいたらと思えた尊敬する人物。
その命を糧に生き延びたことに放心するしかなかった。
『まったくラッキーだよなぁ? なぁ王子様。あいつの弟と髪の色が似てて助かったな』
それは夢の中でしか見なかったサミュをいつも蝕む漆黒の自分の声。
その悪意ある意思が頭の中に流れ込んでくる。
「ち、違っ……」
『何が違うんだ? お前らはそうやって国民の命を犠牲にしてぬくぬくと暖かい城で生きてきたんだろ? お前らの空っぽの頭で下した気まぐれな命令一つでどこかで知らない誰かが雪で凍えていようが、腹を空かせて子供が死のうが、戦争で家族を失い全てを失いどんな悲劇が起ころうが、知ったこっちゃない。いや知ろうともしなかった。そうだろう?』
サミュが生まれた時にはもう戦争は終わっていた。だからそれを訴えるのは筋違いではある。
されどだからと言って、それで大切な人を亡くした恨みつらみが無くなるのかと言えばそんなことはない。
加害者は覚えていなくても、被害者は決してそのことを忘れないのだ。
そしてサミュもまた自分の地位に甘え庶民には味わえない贅沢をしていた覚えがある。
金貨一枚を稼ぐのにどれだけの労働をしなければいけないのか考えたこともなかった。
「余は……クズだ……」
キマイラに殺された男たちのことを内心でクズだと思っていた。
けれど自身もまたテッドを犠牲にしている。そこに何の違いがあるのだろうか。
『そうだよ、お前は何の取り柄も無い矮小な子供に過ぎない。王になるだと? そんな資格も力もお前には無い。血筋で運良くなれたとしても歴史に愚王として名を刻み人々に不幸を生むだけの生きているだけで迷惑な存在にきっとなるだろうよ』
「そう……だな……お前の言う通りだ。愚かなのは余だ。大それた夢を見てしまった」
『そうだよ、やっと理解してくれたか』
闇はサミュがどんどんと自暴自棄になっていっていることに哄笑し、その体は融けてサミュを闇の沼に引きずり込み始める。
もう少しで夢の中だけではなく、現実でも窒息することだろう。
「こんな穴蔵でできた余に初めて期待してくれた民を死なせてしまう。それはどれほどの罪だろうか」
『そのまま目を瞑れ。出来損ないのお前にできるのはそれだけだ』
いつの間にかサミュの形をしていた影は彼の父親の形をして彼の前に立っていた。
しかしマイクロフトたちには見えていないらしい。
自分を毛嫌いして突き放した非道な父。だというのに子として憎めず、いつか気が変わって許してくれるのではないかとずっと慕い続けた。
死して尚、いやむしろ死んだからこそその想いは強固なものとなってサミュをがんじがらめに縛っている。
「余は何者でもない。自分一人ではガレキも満足に運べないちっぽけな子供に過ぎない」
『テッドにずいぶん助けてもらったよな? 食事も足りないからと分けてもらったこともあった。あの男たちから庇ってもらった。あぁでも駄目だ駄目だ。お前は仇しか返せない! こんなに愚かな生きる価値の無い人間がいるんだろうか!』
おそらくテッドがいなければ過酷な労働と虐めに苦しみサミュはとっくに死んでいたかもしれない。
まさに命の恩人である。
「余に生きている価値などない」
『そうだ。生まれてきたのが間違いなんだ。お前のせいで母親も幽閉され閉じ込められたまま命を落とした。親不孝者め! お前なんか生まれてくるべきじゃなかったんだ!』
「母……」
サミュは最後に会った母を脳裏に思い起こした。
腰まで伸びたダークブラウンの長い髪をした凛とした女性で、花の香料が付いたその髪の匂いを嗅ぐのが好きだった。
事件後、彼女はすぐに帝国の最北端に位置する商人すらもロクに訪れないような砦のおよそ貴人には相応しくない部屋に軟禁されていた。まるで汚いものを蓋をして忘れようとしているみたいに。
太陽の光を浴びることが少ないため肌は白く、部屋の中でも足先から凍えるような寒気が充満しやつれていた。
部族連合への出発前にクレアが苦心しなんとか短い接見を許されたのだった。
「(母上は別れ際になんと言った? 思い出せ。たった数年前のことだ。それすら忘れてしまったらあの世で母上に会わす顔すらない……)」
母は自分のせいでそんな境遇になったというのに一度も恨み言をサミュに零さなかった。
王への怒りも見せなかった。
強い女性だった。
ただ最後にサミュを両手で強く抱いた。
『あなたのその力は私には王が言うように悪魔の力には思えません。だってあなたはその力で私を楽しませようとしてくれたんですもの。だから胸を張りなさい。今は自信が持てないかもしれません。でもいつかあなたのそれを必要として認めてくれる友達ができる時が来るかもしれません。そうしたら後悔しないように迷わず使いなさい。私の愛しいサミュ。私はあなたのすべてを受け入れます』
キッカケはそう、自分の力に気付いて母親を楽しませようと使ったことだった。
それで調子に乗ってしまい、自分以外には見せてはいけないと注意されていたのに父にも喜んでもらおうと使ってしまったのだ。
それが父の勘気に触れた。
以来、サミュはその力をずっと封印してきた。不遇な人生を歩むことになった原因であり、もし使用すれば父のように周りの人間から忌み嫌われてしまうのではないかと恐れて。
もちろんこのことはトップシークレットで一部の者しか知らない。クレアですら知っているかどうかも怪しいほどだ。
意識的に忘れようと努めているが、頻繁にうなされる夢のせいで忘れたくても忘れられなかった。
『全てを認めればきっと楽になる。俺はお前の一番の理解者だ。俺のことを信じろ。俺の言うことは正しい』
「――消えろ」
『は?』
突然の拒絶の言葉。
精神が闇に飲まれ溺死し掛かっていたサミュが発したにしてはあまりにも異質で影は困惑する。
「お前の囁きを余は全て認める。余は何もできない愚か者だ。――しかしまだやれることは一つだけある!」
『何を言っている? 何もない! お前には何もないだろう!?』
影は否定しつつも明らかに焦っていた。
やめろ、使うなと。
「お前は余の影だ。それが分かった。お前は余の不安を食い成長した余の力の余剰だ。嫌われるからと無意識的に生み出したこの力の一片だ」
「母親の遺した戯言で気が触れたか? 妄言だ。あの女は何も分かっちゃいない。受け入れられないよ。断言してやる。それを使えばお前は独りになる。もうクレアも誰も助けてくれなくなる。誰にも振り向いてもらえずにお前は悲惨な死を遂げる」
ずっとそう思っていた。だから使わなかった。
この影の正体はサミュの力が暴走し勝手に形を作り上げ自縄自縛に追いやっていたものだった。
そのことに気付いたおかげかサミュを包み縛る闇が少しずつ解けていく。
「それでも構わない。ここで手をこまねいているだけの方がよっぽど悲惨だ。何もできない余はせめてあの世の母に胸を張れる者くらいにはなろう!」
『あんなガキ助けてなんになるよ? ちょっと良心の呵責が痛んでも寝て起きたら綺麗さっぱり忘れてるって! すべてを失うんだぞ!?』
先ほどまで嘲笑っていた影は狼狽し懇願する。
それはサミュの最後まで残っている他人を信じきれない恐怖だ。消えたくないと闇を蠢かせ足掻く。
だが彼はそれを振り切る。
「余はもう――お前には従わない!」
サミュが高らかに宣言した。
言葉を変えるならそれは親離れと言っていいだろう。
こびり付いていた呪いにも等しい父親に愛されたいという願いを払拭し捨て去った。
影響は劇的だった。
今の今まで力ずくではどうしようもなくサミュを拘束していた影は一気に崩れ去る。
そして――
「余の力。――『影操作』。出ろ!」
血が熱く滾る。
血管を通して足のつま先から手の指先、頭の天辺まで言いようのない何かが流動してグロッキー寸前の体にエネルギーが漲ってきた。
力の使い方は知っていた。久し振りだというのに歩くのと一緒で体にもう刻まれている。
サミュの影が平面から飛び出し膨張し再び地面から影が生まれ出た。
ただしそれはもうサミュを傷付けることはない。彼が操り意のままに動かすのだ。
父王が忌み嫌ったサミュの力――それは天恵だった。
教会の一部では天恵使いを女神の使徒と呼び、敵にならない限り手厚く扱う。
その謂れや意味までは理解していなかったが、それを知った教会嫌いのサミュの父はサミュとその母が教会と関係していると思い込み彼らを冷遇した。
奔流する影は一瞬で人の形になり、全身鎧の大型の騎士になる。
腰には剣を携え、手には大型のランスを持っていた。
「あの日以来だな……余の力となってくれるか? 影騎士?」
『……』
影騎士は片膝を突いてその意を表す。
もちろんそれはサミュがそう操作している。ただ精神世界のように主に刃物を向けることもあり得たので確認の意味も込めての儀式のようなものだった。
「は、はぁぁぁぁぁぁ!? な、なんですかいそれ!?」
さっきまでサミュがこの影とやり取りしていたのは全て自分の脳内を通して見えていた幻覚に近いものだったが、ここで初めて現実のものとして誕生する。
だからいきなり顕現した影騎士にマイクロフトはあんぐりと大口を開けて仰天し、ペッゾも固まった。
「行くぞ。友を助けに!」
『!!』
影騎士は左手でサミュを持ち上げるとランスを片手に闇の中へと突撃する。
影操作という能力を再び使うことを決心したおかげだろうか、サミュの目は真っ暗なのに視界は良好だった。
数十メートル先にまだテッドは生きて松明でキマイラの動きを統制しているのが見えた。
ただし距離がかなり近くその効果がほとんど効かなくなってきているのはすぐに分った。
次の瞬間にもう松明の火ごとテッドを押し潰す未来があってもおかしくない切迫した状況だ。
「テッド!」
影騎士は主の意思を汲み取って加速する。
その影騎士の身長は二メートル弱の人間サイズとしては大型。すぐに追いつきそれが自身をも超える怪物に挑んだ。
足音が無かったのが功を奏したのだろう、漆黒のランスが伸びキマイラの斜め後方から激突する。
『グルアァ!?』
巨体が揺らぐ。初めてキマイラにダメージらしいダメージが通った。
しかしあまりにも固い剛毛がクッションとなりランスの先が数十センチめり込むだけに終わる。
ただキマイラは自分を脅かす存在が現れたことに天井スレスレを飛び退り一度距離を取った。
それが救いだった。もし構わずにテッドを攻撃されていたらその時点で即死だったに違いない。
サミュは影騎士から降りてテッドに近付く。
「テッド!」
「サミュ!? どうして戻って来た!?」
「お前は兄なのだろう? だったら弟を一人にさせるようなことをするな!」
テッドからするとせっかく自分が救った命を粗末にしやがって、というところだったが不意にキマイラを物怖じさせた影騎士に気付く。
「お、おいなんだよそれ!?」
「これは……余の天恵だ」
テッドのリアクションが怖くてどうしても声音が低くなってしまっていた。
父親のように拒絶されたら……そう思うと目を合わせられない。
「天恵だって!? ――格好ぇじゃん! お前すごいな!!」
けれどテッドの反応はサミュの予想外のものだった。
父親のことがあってどうしても自信が持てないでいたのに、テッドはそれを格好良いと言って受けれてくれたのだ。
これこそがサミュがずっと強く望んでいた言葉だった。
「そ、そうか?」
「そうだよ! めっちゃクールだぜ! そんなのいるんならもっと早く連れて来いよ!」
「はは……そうか……なんだこんな簡単なことだったのか……」
拍子抜けもいいところだった。
杞憂した自分がバカバカしくなるほどテッドは素直に喜びを見せる。
それはお世辞でも怖くて意に反して出た言葉でもない。だからこそダイレクトにサミュの心に沁みていく。
「詳しい話は後だ。この場はあの影騎士に任せる」
『グルルルル、ガアァッ!!』
キマイラは影騎士に攻撃的な威喝をし今度は自分のターンだとばかりに躍り掛かる。
太い四肢で駆けあっという間に戦闘間合いに入った。
迎え撃つ影騎士のランスはその直前、融けて形が変わる。
新しく形成されたのは自身の半分を隠せるような大盾だ。
それを巧みに使い、避け切れない攻撃を足を踏ん張り受け止める。
『!!』
いややはり体格差があるせいで完全には勢いを殺し切れていない。
地面を削りながら後ろに後退させられる。
「今だ!」
影騎士は盾で防ぎつつ腰の剣を鞘から抜き、下からキマイラの腹部を刺し貫く。
『ギアァァ!!』
だがまた浅い。
切っ先が固くしなやかな毛に滑り、本来なら貫通するはずの剣は小さな傷を一直線に付けるだけに留まる。
ピュっとキマイラの皮膚から血が飛ぶがこの巨体からしたら軽傷でしかない。
「ちぃ、やはりブランクが……!」
サミュは自分の影騎士が本調子ではないことに気付いていた。
彼の能力は自分の影を使いどんな形でも自分が想像できるものに変化させられる。
ただしその強さや強度は思い入れやイメージ力によって左右されるのでおかしなものに変化させても大して役に立たない。そういう理由から幼い頃からずっと自分の周りにいた騎士を作って操作しているのは最も理に適っているのだろう。
しかしながら、長年使わずにいた力はやはり衰えている。体だって運動しなければ鈍るのと一緒だ。あの頃のように思い通り動かないことに悔しい思いをしながら苦心していた。
もし封印せずにずっと研鑽してきたのであればランスや剣の鋭さももっと増しており、キマイラなど敵ではなかったかもしれない。
けれど無常なことに、現実はたらればが通じない。
そして戦いの天秤は傾いていく。
『キシャァァァァ!!!』
尻尾の大蛇が横から回り込んで影騎士の腕に噛み付き、その衝撃で盾を落とさせた。
「くっ! 小賢しい!」
痛みが直接フィードバックされるわけではなかったが、騎士が攻撃を受けた個所と同じ部分が重くなるのをサミュが感じる。
またもう一つ問題を指摘するのであればサミュが戦闘のプロではないことも挙げられる。
自分と同じ人型であればその操る剣技は彼のスキルが反映される。されど多少の剣術は学んでいてもそれは必要最低限。しかも獣との戦い方など学んでいなかった。
『グルァァ!!!』
獣の勘はここが趨勢を決めると察知し影騎士に頭から豪快に突進する。
それをどうにか盾と足運びで捌いたところに大爪が振るわれ膝を曲げ潜るように避けると、キマイラは上から圧し掛かった。
まさに絵面は人間の男にライオンが襲い掛かるようなものだ。体重を活かし簡単に背中を地面に付けられマウントを取られる。
そのようなゼロ距離の密着状態になれば剣でできることは少ない。しかもキマイラは抜け目なく腕に前足を置いて動かせないようにした。
そしてそこから一方的な嬲りが始まる。
「かはっ!」
「お、おいサミュ!? 大丈夫か!?」
空いた前足で強烈なプッシングの連打。
騎士の胸を何度も穿ち、影を通してサミュは苦しそうに俯く。
ただ殴られるのであれば後方にダメージを逸らすこともできるが地面との間に挟まれればその衝撃を逃がすことは難しい。
モロに体が軋み急速に疲労感が溜まっていく奇妙な感覚があった。
『ガァッ!』
さらに今度は影騎士の頭部を直接その大きな牙で噛み千切ろうとしてくる。
歯が突き立てられている首が締め付けられ、サミュの首筋に血管が浮いてきた。
「に、逃げろ……テッド……」
「馬鹿野郎! お前を見捨てられるか!」
おそらく影騎士はもうもたないことをサミュは感じ取っていた。
仮に影が壊されても死ぬことはないだろうが、それでもかなりの痛手を負いひょっとすれば気絶ぐらいはしてしまうかもしれない。
そうなれば再び呼び出しチャンスを作ることも絶望的だ。
せめて遠隔操作できたのであれば囮にして逃げていたのだが、元が影だからかその有効射程は十メートルほどが限界。
死中に活を得るにはここで倒すしかなかった。
『ゴァァァァ!!!』
だがついに執拗な攻撃を前に影騎士はその形が崩れサミュの足元へと戻ってしまい、キマイラはそれを見て勝利の雄たけびを上げる。
完全に潰される前にサミュが自ら力を解除したのだ。そのおかげでダメージは少ないものの、全力疾走で元々微量にしか戻っていなかった体力も合わさり彼はふらりと倒れてしまう。
せめて時間稼ぎにと影騎士をもう一度出したかったが、たとえ命を削っても不可能だというのが力の入らない体で痛感する。
唯一の障害を跳ね除けこの洞窟の絶対王者の誕生だった。仮に外のサミュたちを監視していた兵士たちが何十人駆け付けたとしても全てが肉塊に変えられてしまうだろう。
サミュたちが掘り当てた穴はキマイラよりは小さいものではある。けれどきっとこの獣は無理やり自分が通れる大きさまで砕いて広げたあとにその通路を通って奥へ向かう。そうなればこの山にいる大半の人間が虐殺されることになる。
ここからはジェットコースターのごとく急速落下で事態が悪くなることしかサミュには浮かばなかった。
「行くぞ! 絶対に諦めてなんてやるもんか!」
「テッド……すまない……」
突っ伏したサミュに肩を貸して無理やり起き上がらせ、テッドが逃げ出した。
ただしどうしてもその速度は遅い。いくらキマイラが油断していてもどうやっても逃げ切れるものではないだろう。
そこに予期せずサミュの反対側から力が加わる。
二人はその人物を見て声を上げた。
「「ペッゾ!?」」
「モタモタして見ていられないんだよ! 急げ! 出口まで逃げれば少しは時間が稼げる」
ペッゾが入り口からここまで走ってきていたのだ。彼が加わったことでスピードが上がる。
けれどだからと言ってむざむざ逃がすキマイラではなかった。
舌なめずりを一つしてまるで玩具で遊ぶように追い掛ける。
やはり速い。サミュたちは振り返る手間すら惜しんで走るも、自分たちがあと数秒で獣の手によって切り裂かれる光景が瞳に映った。
現実は無常だ。どれだけ想いを紡いでも強く祈ってもそれが影響することはない。
「(あぁ! せめて余がもう少し早く決心を決めていればこの者たちを殺さずに済んだのにっ!)」
サミュは悔しさで奥歯をぎゅっと噛む。
口惜しかった。自分の力の無さ、弱さのせいで守りたい者たちが失われるのが堪らなく苦痛だった。
なぜもっと早くこの能力の封印を解かなかったのかと後悔に苛まれる。
きちんと使いこなせていれば決して引けを取ることはなかっただろうと無念さが胸を締め付けるほど込み上げた。
キマイラはそんなサミュの後悔など構うはずもなく、彼の思考の刹那の間に息遣いが聞こえるほどすぐ傍まで迫ってきた。
もうダメだ。そう思いせめてこの自分を助けてくれた彼らの温もりだけは忘れまいと目を閉じる。
――その時、一陣の風が吹く。
密閉された空間なのにそれはあり得ないことだ。しかしながら確かにサミュは風が自分の頬を撫で髪が揺れるのを感じた。
もしあり得るとすれば――
「―【火遁】爆砕符―【解】!!」
『ギイイイイァァァァァ!!!』
その声と同時に真っ暗な洞窟内が赤い光と爆発で充満し、キマイラの激烈なまでの悲鳴が轟く。
爆風で背中を押され転びそうになる三人は、自分たちの目の前にいるこの場にはそぐわない格好をした十代半ばの少女を双眸に入れる。
変な格好だった。普段、町では見ない奇抜な衣装だし髪も滅多に見ない黒髪。
その少女はあの大の大人でも震えて卒倒しそうな凶獣を見ても怯まない。それどころか自信満々に胸を張り微笑すら浮かべる。
ただの女の子なのにそれが不思議となぜか頼りになるように思えてならなかった。
そしてその子は気負うこともなく彼らに向かってこう告げる。
「あとは私に任せなさい!」
――葵が到着した。
すごい長く引っ張りましたが、今回の場面がこの章で書きたかったことの一つです。
ペッゾの扱いがちょっと中途半端になったのは最初の構想から二転三転したせいです。
最初に考えていたのだとここからさらに2話ぐらいサミュ編が続いてからの葵登場になったんですが、冗長だなと思ってバッサリカットしました。