その五
アルフィナが鍛冶屋を出たのは、それからしばらくの時が経ってからだった。
老医師はめざとくマリアンナの容態回復に気づき、アルフィナをしつこく問い詰めたが、アルフィナは、すべては神の御心の一言で片付けた。
ギル夫婦は感極まり、泣いて喜んでいた。
よかった、よかったと涙を流して歓喜する二人の姿に、アルフィナも自分の行いの正しさを知った。
もちろん、神のご加護であることを強調したけれど、あの浮かれた調子ではほとんど耳に入っていなかっただろう。
願わくば、アルフィナが起こした奇跡の噂が広まらないことを祈るだけだ。
心地よい陶酔感に浸りながら大通りに向かっていたアルフィナは、自分の名を呼ぶ声に足を止めた。
「お医者、様……?」
振り返った先には、先ほどまで一緒にいた老医師の姿があった。
彼は薬草などを入れた鞄を抱えながら駆け寄ってきた。肩で大きく息を整えながらアルフィナの前で止まった老医師は、苦しげに呼吸をした。
アルフィナはくすくすと笑いながら自分よりほんの少しばかり背の高い老医師の顔を覗き込んだ。
「お医者様。元気な姿を見せたいのはわかるけど、もう少し年を考えてね。あんたがいなくなったらハーバラスの民の健康をだれが守ってくれるの?」
「……ふん。医師ならほかにもおるさ。こんな老いぼれ一人いなくなったところでみなが命の危機に瀕したりはしないだろう」
ようやく楽に息がつけるようになったのか、そんな軽口を叩きながらにやりと笑ってみせた。
「ところでアルフィナ───」
顔を引き締めた老医師に、アルフィナも笑顔を引っ込めた。
どこか言いにくそうに言葉を発するのをためらう老医師をせかすことなくじっと見つめていれば、やっと決心がついたらしい老医師が重々しく口を開いた。
「先ほどのことだが……」
だいたいの予想がついていたアルフィナはたいした動揺も見せず頷いた。
「マリアンナのことね。そのことに関しては説明したと思ったけど?」
わかっている。
老医師がアルフィナの言葉を鵜呑みにしていないことは。
神の御心という言葉一つで片付けられるほどマリアンナの容態はよくなかった。
それでもアルフィナは真実を話すわけにはいかず、老医師の探るような視線を真っ向から受け止めてそらさなかった。
「──癒しの民は知っているか?」
「癒しの民……?」
どこかで聞いたことがある気がするけれど思い出せない。
しんなりと形良い眉を寄せたアルフィナに老医師は言った。
「吟遊詩人が語り継ぐ物語の一つに出てくる民の名だ」
「あぁ……! 確か…そう、病に伏した王をその民の娘が救ったのよね?」
鮮やかに脳裏に浮かんでくるのは、幼いアルフィナが美しいドレスに身を包み、花々が咲き乱れた庭園で吟遊詩人が語っている姿だった。
男の人なのに貴婦人のような繊細な指先が優雅に竪琴を操りながら、いろいろな話を聞かせてくれた吟遊詩人。
彼が聞かせてくれた話の中で特に印象的だったのは、奴隷の男が紆余曲折を経て一国の王になる物語や、自由騎士が各国を渡り歩くという話しだったが、その中にも癒しの民という名はいくどか出てきていた気もする。
けれど当時は姫君が好むような胸ときめく恋物語ではなく、わくわくするような冒険譚が好きだったから、どちらかといえば存在の薄い癒しの民のことはあまり覚えていなかった。
「けど、癒しの民がなんだっていうの?」
「いや、なに。吟遊詩人の話しには嘘と真実が紛れこんどるということだけだ。……お前さんが何者であってもわしには関係ない」
老医師の言いたいことが今ひとつ掴めなかったが、どこかすっきりした顔の彼を見てアルフィナも深くは考えなかった。
「これを受け取ってくれるか?」
「これ、は……?」
「ただのお守りだと思えばよい」
それはなんの変哲もない小袋だった。
手のひらにすっぽり収まるほど小さなそれは、色あせてだいぶ傷んではいたが、複雑な模様がすきまなく描かれ、きっと当時は目が覚めるような色彩で、美しい小袋だったのだろう。
それを渡されたアルフィナは彼の意図がまったくわからなかったが、笑顔で礼を言い受け取った。
「ずいぶんと大切にしてたみたいね。肌身離さず持っていたところをみると。そんなのをあたしがもらっちゃって悪い気もするけど……」
「物というのは、相応しい所にあって輝くものだ。知っとるか? 時として人間の道具にすぎない物が意志を持つことがある。物はもちろんしゃべったりはせぬし、動いたりはできん。だがな、人を操るんだ」
「操るなんてずいぶんと物騒な物言いね。操ってどうするというの? あたしたちの体を乗っ取るとか?」
「そうなっとったら、おもしろいが、実際のところは、ただ己を運んでもらうだけだ。最も輝かせてくれる人物の手へ運ばれるような」
「あらつまらない。謙虚なのね。あたしだったら、ただの道具で満足できないけど。体も満足に動かせないより、自由に動き回れる人間の方が楽しそうなのに」
肩をすくめながらそう言えば、老医師は顔色を変えて辺りを怖々と見回した。
「これこれ、アルフィナ。そんな危険な思想を声高に言うでない。司教の耳にでも入ったら大ごとだぞ」
「だって本当のことだわ。何を心配しているの、お医者様。あたしは別に悪魔崇拝なんてしてないわよ」
「それは──わかっているが。神に祝福されたお前さんが闇に墜ちるわけがないと。しかし、神こそ至高の存在と崇める教会の者たちに通じるか? その昔、神に最も愛された聖女を異端者と決めつけ血祭りにあげた輩に……」
「そう、ね。確かにそうだわ。教会の人間は恐ろしい。神の名のもとに、殺戮を繰り返す…そんな非道な行いを平然とやるほどにね。けど、ハーバラスの司祭はいい人よ。こんなあたしを教皇から守ってくださっているしね。それに聖女と呼ばれる存在が教会から煙たがられるのもしかたのない話しだわ。だれだって神に愛されているのは自分と思いたいものよ」
鮮やかな双眸に思慮深い知性をたたえ応えるアルフィナを眩しいものを見るかのように目を細めた老医師は、ゆるりと息を吐いた。
「ときおり、お前さんが怖くなるよ」
「それは光栄ねとお礼を言うべきかしら」
にっこりと無邪気に微笑んだアルフィナは、
「お医者様、あたしは聖女じゃないのよ。アルフィナという一人の人間なの。あたしはちっとも清らかな心なんか持ってないのよ。それを忘れないで」
そう忠告した。
老医師は微かに目を見張り、そして頷いた。
「そうか。お前さんはそれを望むんだな」
「ええ、そう。勝手に偶像化されると迷惑だもの。ところで、あたしに用ってお守りをくれることだったの? あたしそろそろ奥様のところに戻らないと……」
「あぁ、すまない。用件はほかにあってな、一つわしの頼みを聞いてくれんかのぅ」
「あたしに出来ることなら」
「どうか祝福を与えてくれんだろうか」
「それは、いいけど……。あんたに祈る言葉はなさそうよ」
「さすが聡いな。確かに祝福を受けるのはわしじゃない。実は、わしの元患者が体調を崩したと風の頼りできいてな。見舞いがてら診察に行こうと思っておったんだが、お前さんがついてきてくれれば心強い。どうかこの老いぼれの願いをきいてはくれんか?」
わずかに翳った目を見れば、その元患者を酷く気にかけているのがわかる。
「あたしが役に立つ?」
「マリアンナが生を吹き返した奇跡を目の当たりにしたんだ。神のご加護を受けるお前さんが側におれば、あの子もきっと……」
「いいわ。あたしが出来ることといったら祝福くらいしかないけどね」
「では、明日、教会の鐘が七つの音を刻む頃に出発しよう」
「出発……? もしかしてハーバラスの人間じゃないの?」
驚くアルフィナをちらりと見やった老医師は言いにくそうに口ごもった。
領内だと思ったから安請け合いをしたのだが、遠出となると事情が違ってくる、
困ったことになったとため息を吐けば、老医師が微かに肩を揺らした。
それを目の端にとめたアルフィナは、苦笑を口に乗せ、しょうがないといいたげに言葉をつむいだ。
「安心して。一度決めたことはひるがえさないわ。……まぁ、奥様には我慢してもらいましょう」