その四
ギシギシと鳴る階段を上がると、フェゼル一家が住まう部屋が広がった。
吹き抜けの二階は、個別に部屋が分かれることなく一つにまとまっていた。窓際の日当たりのよいところに、大きな影を見つけたアルフィナは口元を綻ばせた。
「遅くなったわね」
「アルフィナさま……────」
どこか憔悴した感じの彼に、笑みを深めて勇気づけるように頷く。
寝台の上で呼吸も荒く眠っている少女に視線を落とす。
「可哀相に……」
熱を持った額に手を乗せると、苦しげな顔が少し緩んだ。閉じられていた瞼がゆっくりと持ち上がり、さまよう視線が、アルフィナをとらえた。
「マリアンナ、大丈夫よ。神が側にいらっしゃる。感じない? 神の……聖なる息吹を」
やせ細った幼子の顔はやつれ、汗が玉のように浮かんでいた。
病的で、体の弱いマリアンナ。
ハーバラス一の医師でさえ、病を癒せなかった。
病魔がどこに巣くっているのかだれにも見つけられず、か弱い少女はほんの少し回復の兆しを見せたとしても次の日には高熱を出して寝込んでしまう。
「アルフィナさま……娘は……わしの娘はもう………」
苦悶に顔を歪めるギルにかける言葉が見つからず、アルフィナは下唇を悔しげに噛んだ。
どうしてこんな小さな子が逝ってしまわなければならないのだろう。
この幼子がいったい何をした?
この世に生を受けてから七年も経っていないマリアンナ。
生まれてからずっとベッドの上で過ごし、外に出たこともない憐れな子。
最初はただギルに頼まれて聖書を彼女に読み聞かせていたアルフィナも、不憫な生活に文句一つ言わない健気な姿に胸を打たれ、妹のように愛おしく思っていた。
マリアンナの汗を拭っていたアルフィナは、そこにはっきりと死の影を見いだしていた。
(確かに助かりそうもないわね……)
「てん…し、さま……」
「! マリアンナ!」
荒い息の隙間を縫うように押し出された声は吐息のように小さかったけれど、アルフィナの耳にはしっかりと届いた。
「これはまたなんという奇跡! ここ数日夢と現実の狭間をさまよっていたマリアンナが口をきいたぞ」
なんたること、と酷く驚いた様子で興奮気味に言うのは、部屋の隅でマリアンナを見守っていた老医師だった。
医師の証である首飾りを胸に下げた彼は、近づいてマリアンナをじろじろと見やると、そこに死の気配が去った様子はないことを見て取ると気落ちしたように肩を落とし、それからギルの肩をぽんと叩いた。
「今のうちに言いたいことがあるなら伝えるがよろしいだろう。これが最期かもしれん」
「……っ」
息をのんだギルは、その言葉を反芻するかのように繰り返すと、身を翻して階段を下りていった。
アルフィナもまた医師の言葉に動揺を隠せなかった。
「違う……あんたは生きるのよ、マリアンナ……」
それは語りかけるというより自身に言い聞かせるようだった。
老医師は、その呟きを耳にして、呆れたように首を振ったが、アルフィナは熱で潤んだマリアンナの顔を覗き込み、力を失った手をぎゅっと握った。
「死なせない……死なせたくない……っ」
可愛い可愛いマリアンナ。
元気になったら外に連れて行ってあげると約束したのはいつだっただろう。
アルフィナを天使様と呼び懐いてくるマリアンナが本当に可愛くて……。
片手で足りるほどしか会っていないというのに、マリアンナはしっかりとアルフィナの心に入ってきていた。
(禁断の箱を開けるのは簡単……そう、簡単)
しかし難題がある。
少女を救う力を持ちながら、それを使うことに躊躇を覚える。
(異端と呼ばれ、蔑まれ……)
己の辿る道筋などわかっている。
だが────。
天に旅立とうとしている少女を、どうして見過ごすことができよう。
(困った事態が起きるのは目に見えてるのに、ね……)
それでも、アルフィナにはわかっていた。
この死に絶えようとしているかわいそうな子羊を見捨てることができないことは。
これまでに顔を背け、目を瞑り、耳を塞ぐことで神の御許へ送られる御魂を何回見ただろう。
その頃のアルフィナは自分の存在がほかにばれるのを恐れ、自己保身ために、自分かわいさに──助けられたはずの命を見捨てた。
そう、幾人も非情な心で切り捨ててきた。
なのに、マリアンナは駄目、なのだ……。
どうしても死なせたくないと思ってしまう。
この憐れで悲しい運命の子に、生きる楽しみを教えてあげたくて。
(マリアンナ……あんたこそあたしの天使。だからあたしはあんたを助けたいの)
第二の人生を与えてくれたのが奥様なら、マリアンナはアルフィナの心の支えだった。
幼子の無垢な視線にあふれんばかりの敬愛と憧憬の色を宿してアルフィナを見つめてきたマリアンナ。
その純粋な想いがどれほどアルフィナを救ったか知らないだろう。
復讐という鎖に縛られ、暗闇に囚われていたアルフィナに、一条の光をもたらしてくれた。
だからアルフィナは救いたいと切望する。
危険とは承知でそれを望む。
(あたしは間違ってない。たぶん…、ここでマリアンナの命を神の御手にゆだねたらあたしは一生後悔する。あいつに復讐しようとすべてを切り捨てて、ずっとその日まで温めてきた計画が泡となって消えても、あたしは今日というこの日の決意を悔いたり嘆いたりしないわ。それは絶対。計画が失敗してもまた練り直せばいい。あたしの存在があいつに知れたら……)
知れたら……それは厄介だ。
叔父でもあり、絶対権力者でもある王の恐ろしさは理解している。
アルフィナの存在を知ったら、あの執念深い王のことだ。
手の内にある駒をすべて使ってアルフィナの存在をこの世から抹消するべく手を打つだろう。
憎き王のことを考えるだけで、憎悪で体中の血がたぎりそうになる。
きつく握りしめられた拳。
爪が柔らかな皮膚に食い込むほどその力は強かった。
(だからって……あいつのこと恐れてたらなんにもできない! これ以上あたしの人生をメチャクチャになんかさせない。ねぇ、神様。あたしは今日まで生きてきた。あいつに悟られずに生きてきた。世界を呪って生を恨んで……それでもあたしは生きた。あたしは自分で人生を勝ち取ってきたの。だから、あたしは心の従うがままに進むわ。それがあたし。姓をすてたただのアルフィナの生き方だから)
迷いの消えた双眸は、清々しく晴れ渡り、深く色づいていた。
そのとき。
ドタドタと階段を駆け上がってくる音が聞こえた。
「そんな……っ、マリアンナ! あぁ、どうして……っ」
ギルの奥さんは、目に涙をためて医師にすがりついた。
「こんなに小さいのに……、先生、どうか助けて下さいな……! この子が何をしたっていうんだい。まだなんにもしてないのに……っ」
「……」
遅れてやって来たギルが妻の肩にそっと手を置いて、老医師から引き離した。
体を大きく震わせた彼女は、声を上げてギルに泣きついた。しばらく黙って背をさすっていたギルは、
「さあ、わしらの娘に最期の言葉をかけてやろうじゃないか」
「けど、あんた……っ」
「お前が取り乱してたらマリアンナが不安がるだろ」
マリアンナの手を握りながら二人のやりとりを聞いていたアルフィナは、痛ましそうな表情で鍛冶屋の夫婦を見つめている老医師に視線を移した。そうして、ゆっくりと息を吸い込むと切り出した。
「お医者様、マリアンナに残された時間がわずかだというなら、あたしに預けてくれない? 別に悪化させることはしないわ。マリアンナのためにお祈りをしたいだけ。そもそもあたしがここに来た理由はそれだしね」
「……祈り、か。───わしは席を外したほうがいいかね?」
つかの間考え込むように眉を寄せていた老医師は、確認するかのように訊いた。
「そのほうがありがたいわね」
そう老医師に言ってから、視線をずらした。ちらりと目をやる先には、苦しみを分かち合うかのように抱き合う夫婦の姿があった。できれば彼らもいないほうがいいのだけれど、今口を挟むのは無神経に思えた。
どうすれば、と思いあぐねていると老医師が口を開いた。
「あっちは任せなさい。彼らには少し落ち着かせてから話しをさせたほうがよかろう」
アルフィナの意図を正確に読み取った老医師は、二人に優しい言葉をかけ、一階に行くよう促した。
驚いたように目を見開いたギルは反射的に何か物言いたげであったが、アルフィナを見ると渋々ながらも首を縦に振った。そして、泣きじゃくる妻の肩を抱き、老医師とともに階段を下りていった。
気配がなくなるのを待ってから、マリアンナに語りかけた。
「苦しい? あと少しの辛抱だから。あんたはよく耐えたわ。神様だって許して下さる。さぁ、目を瞑って。…そう、いい子ね。楽に深呼吸して。力を抜いて──……」
包み込むような優しい笑みを浮かべたアルフィナは、我が主よ、か弱き魂を救いたまえ、と十字を切り、マリアンナの眉間に指先をそっと乗せた。
「天なる主、地なる主、親愛なる我が主に願います。主の恵みを受けるわたくしの願いを、どうか聞き届けて下さい。貴方の子、神の子であるこの小さな御子に安らかな平穏を。禍を退け、病を払い、健やかな肉体をお与え下さい。精霊の御力と我が主の息吹をわたくしにお貸し下さい。わたくしの体を伝い、この御子────マリアンナ・フェゼルに聖なる気が流れることを願います」
凛と張りのある声は、厳かに響き渡り、静まった室内に満ちた。
清雅な空気が取り巻く中、淡い光をまとったアルフィナは、ゆっくりと指先を外し、顔を近づけた。ほんのりと色づいた可愛らしい唇が、マリアンナの小さな唇と重なる。薄く開かれたそこに、偉大なる力が宿った息を注ぎ込む。
流れ込むエネルギー受けてぴくんっと跳ねる痩せた体。
小さく呻き声を上げたきり、少女は身じろぎもしなくなった。
そっと顔を上げたアルフィナは、先ほどまでと違い、健康そうな顔色を取り戻したマリアンナの小さな顔を愛おしげに撫でた。
「おやすみ、マリアンナ。次に目覚めた時、あんたは幸せになれるわ」
耳元に囁いたアルフィナは、床の上に膝をつき、両手を組んで、叩頭した。
「ありがとう、我が主。あたしの神様。偉大なる主、大いなる主、生きとし生けるものの主、あたしを愛し、慈しんで下さる方。貴方のために祈りを捧げます」
ふわりと風が鼻先を通りすぎていく。
精霊の戯れに、笑みを深くしたアルフィナの口から愛らしい声が漏れる。
「悪戯好きさん。けれどあたしは叱ったりしないわ。だって今、とってもいい気分だから。今日ほど生きる喜び、あたしが存在する意義と価値を感じた日はないわ。世界はなんて明るいのかしら」