その三
豊かな森を背に、清楚な建物が建っていた。
白亜の建物の壁には絶対神エッセ=リットの紋が彫られていた。入り口の横には、何百年という月日が流れた今もなお吟遊詩人に語り継がれている聖女の像が二体並ぶ。
聖殿と呼ばれる神聖な建物の前で一度足を止めたアルフィナは、祈るように膝をついた。
聖女と絶対神、それに自然界に住まう者たちに感謝の言葉を捧げる。
「いつも守ってくれてありがとう」
聖殿とは呼ばれているものの、礼拝堂に変わりはない。
けれどそう呼ばないのは、この礼拝堂がアルフィナのためだけに存在するからだ。
司祭が礼拝を行う礼拝堂は城の隣接した場所にあり、ちょうど聖殿とは反対の場所に建っている。
なぜ二つも礼拝堂があるかというと、プリシラ男爵夫人が、アルフィナを頼ってくる者たちのためにアルフィナ専用の礼拝堂を造ってしまったからだ。城の一室を開くか、それとも小さな掘っ立て小屋を建てるか。そんなささいな祈りの場でよかったのに、神の恩恵を受けるアルフィナに相応しいものを考えて造られた結果が聖殿である。
もちろん、その当時。
ハーバラスの司祭がそのことを受け入れるはずもなく、愛を説く聖職者が憎悪に顔を歪めた。アルフィナを異教徒として裁判にかけると騒いだり、衝突が度重なったが、紆余曲折を経て、現在は穏やかな関係を続けている。
とある事件がきっかけで、アルフィナを神の加護を受けると認めてしまったらしい司祭は、アルフィナに敬意を持ってしまったようで、表だって擁護はしないものの、陰ながら守ってくれている。
資格を持たないアルフィナが司祭のまねごとをしているだけでも大罪だというのに、こうして教皇の耳にも入らず、静かに暮らしていけるのもハーバラスの司祭のおかげだろう。
ハーバラスの司祭とはそう顔を合わす機会はないが、アルフィナは彼に感謝をしていた。
「おぉ──アルフィナ様!」
中へ入ると、エッセ=リットをかたどった像の前で祈っていた男が、気配に気づいたのかパッと振り返った。大きな顔の中で、鼻だけがやけに大きく、雄々しい顔立ちの男は、至る所に小さな傷のついた顔をくしゃりと歪めて、笑った。
頷く代わりに軽く手を上げたアルフィナは、真っ赤な絨毯の敷かれた中央を静かに歩いた。
鮮やかなステンドグラスを戴いた窓からこぼれ落ちるのは、青・赤・黄と華やかに着色された光の花びら。
美しく彩られた中、男の前に立ったアルフィナは、無邪気な笑みを浮かべて目線を合わせるためにしゃがんだ。
「もうあたしが恋しくなった?」
そんな軽口を叩けば、男は破顔した。
けれどもすぐに笑いが強ばって、暗く陰気なものへとかわる。
「……わかっとるんです。こうなんべんも来ちゃいかんと。わしなんかのような奴が、来るとこじゃねぇって………けど、」
「馬鹿ね。自分を卑下しないで。あんたがやってることがあたしの耳に届かないと思ってる? 兵士のために無償で剣を直してくれてる。それだけで十分」
「わしは…それくれぇしか……」
「一芸でもあれば十分。みんな喜んでるからそれでいいの。貧しくても誇りを忘れたらダメ。あたしもあんたも……そう、みんな神の子なんだから自信を持って。神様の子はみんな特別なのよ。金がないからってなに。そんなのちっとも恥ずかしくない。大事なのは、いかに自分を愛し、人生を愛するかってこと。あぁ、もちろん神様もね」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑ったアルフィナは、ススで汚れている男の頬を白く繊細な手で触れた。
慌てて離れようとするのを許さず両手で優しく挟み込む。
「あんたの勲章なんだから何も恥じることない。この傷は生きてきた証。汚れは、頑張って働いた印。だから臆病になることなんてない」
間近から慈愛に満ちた笑みを浮かべれば、抵抗を止めた男の顔が陶然とした色をなし、きらめく双眸に魅入っていた。
「それで、今日はいったい何しに来たの? 見たところ、あんたに祈る言葉はなさそうだけど」
「実は───わしの娘っ子の熱が何日も下がらんで……お医者さまは、今夜が峠だろうって……だから、せめて安らかにいけるよう…アルフィナ様に祈って欲しくて……。おねげぇです……っ。どうかわしの娘のために……」
縋るようにアルフィナを見つめた男の顔はこれ以上なく真剣だった。
それは筋違いだった。
本来、そういった役目は司祭のものである。
御魂が父なる主の元へ還れるよう送り出すのは。
けれどアルフィナには否と言えなかった。
司祭の不興をかうだろうなと思っていても、今それを口に出すのははばかられた。
なんといっても彼の娘に情を持っているのはアルフィナも同じだからだ。
危篤状態にある娘のことを思ってアルフィナの胸が痛んだ。
同じく表情を引き締めて見返したアルフィナは、力強く頷いた。
「奥様に事情をお話しして、行くわ」
それからは少し慌ただしかった。
鍛冶屋のギル・フェゼルを先に帰し、すぐさま城に戻った。
アルフィナと一時でも離れるのを嫌がった男爵夫人をなだめ、説得すると、後に控えていた仕事も約束もすべてキャンセルして、夫人が用意してくれた二頭立て馬車に乗って町で唯一の鍛冶屋に向かった。
同じような家が並ぶ奥。
大通り裏の小道を挟んだ場所に、鍛冶屋はあった。
壁に掲げられた看板は、錆び付いていて強風が吹いたらぽっきりと折れそうなほど頼りなかったが、腕は確かと評判で、そこそこ儲かっている店だった。
大通りに馬車を置いて身一つでやって来たアルフィナは、ギィィィと音を立てて戸を開けた。
拍子に、カランと鳴ったのは、戸にくくりつけられたベル。
来客を知らせるベルに反応して、いつもは明るく声をかけてくるギルの女房が、木製のカウンターに虚ろな表情で頬杖をついていた。
そんな彼女の様子が店の雰囲気を暗くしているのか、大きな窓から陽は流れ込むものの、今はひっそりとしていた。
それに少し眉を潜めたアルフィナは、ぴくりとも動かない女を揺すり起こしに行った。
「ほら、しゃきっとして。こういう時だからこそ気をしっかり持つの」
ハッと瞳に光を取り戻した女が、夢から覚めたような顔でアルフィナを見た。
「あれま、いつ来さったね」
「つい今し方、よ。まったく、こんな調子じゃお客さんが来ても気づかなかったでしょうね。盗まれた物がないかちゃんとチェックしとくのよ」
ハーバラスに悪人などいないと思いたかったが、貧富の差がある限り、善と悪はどこにでも潜んでいることをアルフィナは知っていた。
アルフィナ自身盗みもしたことがあるし、それよりもっと大罪を犯したこともある。
(なのに、神の寵愛は薄れないんだから不思議なことよ)
汝、穢れることなかれ。
汝、他を愛し、真を愛せ。
汝、誠実であれ。
聖書にはそんな句があったけれど、アルフィナは守ったことがない。
嘘だってつくし、嫌いな人間だっている。
アルフィナはいつだって神のために身を捧げたことはない。
神を敬うことはあっても、神の望む色に染まろうとはしない。
(神に愛されようと頑張る修道女が可哀相だけど)
慌てたように店の隅々まで点検を始めた女に二階へ行くことを告げて、さっさとその場を離れた。