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そのニ



「いつもながらお見事ね、アルフィナ」


 夫人の後ろ姿を消えるまで見つめていたアルフィナに、そう声がかかった。

 振り返ったアルフィナは、そこに侍女頭フェッゼの姿を認める。いつからいたのだろうか。本来ならフェッゼこそが、率先して行動を起こし事態を収束しなければならないというのに。アルフィナの咎めるような視線に気づいてか、彼女は自分こそが下っ端であるような態度で軽く頭を下げた。

 夫人よりも年上の彼女は、今年で三十六になる。早くに旦那を事故で亡くし、親戚のツテで奉公にあがったらしいが、それなりに裕福な家柄だったせいか身のこなしは優雅だ。顔つきは、ややえらが張っているが、鼻筋はすっと通っており、唇も厚みがあるせいか年を重ねた貫禄と色香がある。

 侍女頭を務めるだけあって、十六人いる侍女の中で一番の年長者で、体つきも大柄なフェッゼ。夫人とは長いつき合いのせいか、彼女の一筋縄ではいかない性格をよくわかっているらしい。

 フェッゼもだいぶ手を焼かされてきたらしく、今では、扱いを心得ているアルフィナに夫人の世話を任せきりであった。


「奥様に言うことを聞かせることが出来るのは、あなたぐらいのものよ」


 フェッゼの感嘆とした物言いにも、アルフィナは肩を竦めるだけで、得意な顔はしなかった。

 そんな素っ気ない態度をどう思ったのか、アルフィナとは倍以上も年齢差のあるフェッゼは、おもねるように視線を投げたが、好ましい応えがないのを知ると、夫人が消えた回廊を睨みつけ、ため息混じりに呟いた。


「……困ったものね、奥様にも。見張りをつけておかないと駄目かしら」


 苦々しい口調に、アルフィナが素早く反応した。


「何を馬鹿なことを!」

「け、けれどこの城に仕える者ならみんな知っているわ。奥様が普通の方とは違うってこと。そのせいで何人の使用人が辞めていったか……」


 アルフィナの口調の強さに、フェッゼが驚いたように目を見開き、おどおどと視線をさまよわせた。


「それは違う」


 アルフィナは、美しい双眸に腹立たしげな色をのせた。罪を犯した者を裁く聖職者のように清らかで、凛然とした面持ちで否定の言葉をきっぱりと口にすると、悲しげにほんの少しだけ睫を落とした。


「頭がおかしいってみんな言うけど、奥様はただ感受性が豊かなだけ。とっても繊細な心をお持ちだから、人の善意にも悪意にもとっても敏感なの。だから怖くなってしまうのよ……。あたしが奥様の側にいることを許されてるのは、奥様に対して偽ることなくありのままの自分でいるからよ」


 フェッゼは、小難しい本を読んだかのようなしかめっ面で、眉を寄せた後、首を振った。


「わかったようなわからないような……あなたの言葉はいつだって難解ね」

「それはわかろうとしないからよ。奥様の心をわかってあげない。光の裏には闇があるように、奥様のあの無邪気さの裏には、孤独と闇が広がってる。奥様はずっと独りぼっちだった。寂しいのよ。みんなから敬遠されていることを知って、ますます心を閉ざされるんだわ。おかわいそうな奥様……」

「あなたの言うことは理解できないわ」

「しようとしないだけでしょ」


 ばっさりと切り捨てたアルフィナは、ハッとしたように動きを止めたフェッゼを置いて、装飾品もない簡素な回廊を進んでいった。


(どうしてみんなわからないの? 奥様がかわいそう。あんまりだわ)


 奇行な行動を取るだけで、やれ頭がおかしいだの、貴婦人にはあるまじき行為と眉をひそめるけれど、彼女はただ怖いだけなのだ。

 何ごとにも荒らされることなく、純真な心を持ったまま成長してしまったから向けられる悪意には敏感で、それゆえに人に対して臆病になる。


「……せめて旦那様がお戻りになれば」


 無意識の呟きが落ちていく。

 奥様がアルフィナのほかに怖がらないのは夫であるプリシラ男爵だけだ。

 けれども彼は今、国王に呼ばれ王宮を訪れている最中。

 男爵は、人柄がよく、快活で、領主というには威厳がなく親しみやすい人ではあるが、だれに対しても公平で民からの信頼は厚い。新しい物、新しい事が大好きで、子供みたいに突っ走るところがあるのは頭が痛いところだが、プリシラ夫人のことをだれよりも大切にしているからそこは目を瞑っている。


「何ごともなければいいけど……」


 貴族の中でもとりたて身分は高くなく、プリシラ家といえば、平々凡々を絵に描いたような一族だ。武芸で名をあげたことはないから、国王の覚えもめでたいなんてことはまずないはず。

 そんな地方領主の男爵に国王直々に声がかかるなんて裏があるとしか思えないだろう。

 国王の不興を買うようなことを男爵がやらかしたのだろうか。

 こんなにも日差しは熱く、不浄を焼き尽くそうとばかりに目映いのに、その中を歩くアルフィナの心は晴れなかった。


「万人を慈しまれる主よ、どうかあたしたちの領主をお守り下さい。すべては主の御心のままに」


 胸元で小さく十字を切ったアルフィナは、そのまま角を曲がろうとしたが、自分の名を呼ぶ声につと足を止めた。


「アルフィナ! あぁ…よかった。探し回ったのよ! やっと見つけたわ」


 回廊の先からアルフィナより年上の侍女が行儀悪く走ってきた。

 スカートの端をたくし上げ駆けてくる姿をフェッゼあたりが目にしたら卒倒するだろう。フェッゼは、城仕えの任の重さを重々承知しているらしく作法にはかなりうるさかった。


「また鍛冶屋のギルさんが来てるわよ。急いで聖殿の方へ行ってちょうだい」

「わかったわ。ありがとうフィーファ」

「あ…、ねぇ、わたしも仕事が終わったら行っていいかしら? もちろんお邪魔じゃないときに…だけど」


 ほんの少し言いにくそうに話す彼女に、ちらりと一瞥をくれたアルフィナは、鷹揚に頷いた。

 アルフィナより遥かに長くこの屋敷に仕えている彼女は、アルフィナの高慢な態度に何も言わないどころか、よかったと頬を染めて喜んだ。そうして、身分が高い相手にするかのように腰を低くしてお辞儀をし、アルフィナが去っていくまでその姿勢をとり続けるのだった。

 そんな彼女に物言いたげな視線を送ったアルフィナだったが、結局小さな唇は言葉を紡ぐことなく、きゅっと引き結ばれた。何かを振り切るように軽く首を振ると、行儀悪くスカートの裾をつまみ、磨かれた廊下を駆けていった。


「アルフィナ────」


 とたんまた別の声に呼び止められた。


「急いでるところごめんなさいね。けれど、どうしても不安で。あぁ、何が不安かわからないんだけど、お願いよ、いつものアレをやって。そうしたら気分がよくなると思うの」


 一番仲のよい使用人が掃除用具を持ちながら駆け寄ってくる。

 そばかすが散った顔が愛らしい少女は、期待を込めてアルフィナを見つめた。

 アルフィナは、一瞬辛そうに目を瞑り、次の瞬間柔らかく、無邪気そうに微笑んだ。


「あんたがそう望むなら」


 自分とそう年の離れていない少女は、パッと顔を輝かすとすがるように跪いた。手にしていた荷を横に置き、両手を胸の前で組み、信心深く頭を下げた。


「心安らかなれ、穏やかなれ、自然の恵み、神の恵みが頭上に降り注ぎ、いかなる苦難も禍もすべて神の御心の計らいによって取り除かれますように。いついかなるときも主は側におられ、いついかなるときも主の眼差しは注がれる。主──エッセ=リットの御名により、あなたの道に光りあれ」


 透明感のある声が厳かな響きをもって、静まりかえった廊下に広がった。

 か弱げな少女特有の高さがあるのに、空気を震わす軽やかさの中に、逆らいがたい、侵しがたい、そんな年も性別も越えた何かがあった。

 日頃のおてんばぶりもなりを潜め、落ち着き、気品ある佇まいは、それこそ宗教画に出てくる聖女のようで、跪いていた少女は少し顎を上げ、水仕事をしても荒れないすらりと細い指先が額に当たるのをわずかに上気した顔で受け止めた。

 聖水のように少しひんやりとした指が額を滑る。

 少女は吐息を漏らして、眦に雫を滲ませながら目を開けた。


「浄化されていくようだわ……。本当に不思議。あんなにもさざ波立っていた胸の中が、霧のように晴れて今はただ穏やかな水面にかわった……。まるで春の女神に抱かれているようよ。ふわって穏やかな光が胸の内から全身に広がっていって……あぁ、ありがとう……ありがとう、アルフィナ」

「どういたしまして」

「本当に……貴女みたいな人がこの世にいるなんてね。貴女が実は天に住まう人だって言われても驚かないわ。神様に愛された────」

「さあ、もう仕事に戻って。もたもたしてると怒られる。フェッゼの小言が聞きたいなら、急がなくてもいいけど」

「ぁ……ええ、そうね。フェッゼに見つかったら昼食を取り上げられちゃう。それじゃあ、また後でね」


 あわてて立ち上がった少女は、掃除用具を掴んだ。

 たぷんと桶の中に入った水音を聞きながら、少女が行儀悪く走っていくのを黙って見つめていたアルフィナは、小さく嘆息した。

 憂えた眼を(すが)め、何かを振り払うかのように首を振ると、そこには神秘的な雰囲気の消え去った少女の姿があった。


「これでいいのかな……ねぇ、神様、あたし時々不安になる。あたしがしてることって正しい? 祝福を与えるのは簡単。けれど……。それでいいの?」


 不安を覗かせる弱々しい問いかけに応えてくれたのは、柔らかな風だった。どこを通ってきたのか、春の陽気を乗せた風は、確かにアルフィナの頬を撫でていった。

 一瞬目を大きく見開いたアルフィナは、次の瞬間、破顔した。


「ふふ……ありがとう。そうね、くよくよなんかしちゃダメね。明日を見据え、ただ前を向いて歩いていこう。あたしにはそれしかないんだから────」


 ゆっくりと瞬きをした双眸には、強い決意を秘めた光が宿っていた。


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