第六章 孤高の黒騎士の約束
「……ん、…」
目を開けたとき、最初どこにいるのかわからなかった。
けれど天蓋付きの豪奢な寝台に寝ていることを知ると、それがあてがわれていた寝室だと気づいた。
「アルフィナ───ッ! よかった……」
「フェゼル……」
アルフィナはゆっくりと瞬いた。
フェゼルは、歓喜に顔を輝かし、壊れ物に触れるかのようにそっとアルフィナの頬に触れた。
「オレのお姫様……頼むからオレの心臓を止まらせないで。倒れたって聞いてどんなに驚いたか」
「心配かけたわね……」
「アルフィナ。危険は去ったんだろ? カシュターってガキの病状もよくなったし、だったらもうアルフィナはここに必要ない。帰ろう? ハーバラスへ」
「くすっ、前は戻りたくないって言ってたのに」
「どこに行ってもアルフィナは引っ張りだこだって気づいたからな。だったらオレとしては、安全なハーバラスに身を置くほうがいいってわけ」
「そう、ね……そろそろ戻りましょうか。奥様のことも気にかかるし」
アルフィナは目を閉じた。
それから───。
アルフィナの意識が戻ったということを聞いた老医師がやって来て、アルフィナはそこで戻ることを伝えた。
老医師はもう少し残るそうだ。
「お前さんがいなければ、カシュター様もラザス様も今頃死の床についていただろう。お前さんを連れてきて本当によかった」
「お医者様にとって二人は本当に大切な人なのね。……そのまま居着いたりしないでね。ちゃんとハーバラスに帰ってきてよ。ハーバラス一のお医者様」
「ふぁっふぁっふぁっ、嬉しいことを言ってくれるわい! あぁ、むろん、残ったりせん。わしの家はハーバラスにあるからな。……っと、忘れておった。料理長から手紙を預かったぞ。なんでも、雪の衣についての調理法が書かれてるとか」
「料理長が……? あぁ、あの子が言ってくれてたのね。ありがたいわ。これで奥様たちにも食べさせてあげられる。料理長は元気? まさか監禁とかされてないわよね」
封がしっかりとされた封筒を受け取ったアルフィナは、眉を潜めた。
「まさか! 今回はラザス様も温情を与えられ、それに感謝した料理長は図書室で毒草と薬草について毎夜調べとるらしい。今回の件がよい教訓になったんだろうなぁ。まぁ、今でこそ笑い話になるがのぅ」
「そう…よかったわ。彼が罰せられないで。───ところで、お医者様。孤高の黒騎士がどこにいるか知ってる?」
「孤高の黒騎士……? はて、だれのことかな」
「アスランって言ったかしら、その人はどこにいる?」
「あぁ、アスラン殿か……そういえば見かけぬな。あの方は、移り気だからのぉ。お前さんが倒れたっていうに、ラザスに押しつけて一人姿をくらましたというじゃないか……。まったく、アスラン殿にも困ったもんだ」
いない。
その答えを聞いた瞬間、アルフィナは顔を曇らせた。
「アルフィナ……オレが捜してくるから」
「え……?」
ふいに聞こえたフェゼルの声。
けれど、顔を上げたとき、すでにフェゼルの姿はなかった。
「そろそろわしもおいとましよう。カシュター様が気になるでな。……そうそう、アルフィナ。いったいカシュター様にどんな秘技を使った?」
老医師は、フェゼルがいなくなったことに頓着していないのか、それとも気づいていないのか、瞳を輝かしながら問うた。
「なんのこと?」
「とぼけなさって! 神嫌いのカシュター様がこのところ朝夕の礼拝は欠かさないぞ。聖書まで読み始めるなんて…信じられん! アルフィナ、なにを吹き込んだ」
「さあ…たいしてあの子としゃべった記憶はないけど……いいことじゃない。神を賛美すれば、病も早く癒えるでしょうよ。この屋敷の空気もずいぶんとよくなったわ。来たときは、よどんでる感じがしたけどね。それにしてもあの子供はよほど大切に育てられているみたいね。真綿にくるむみたいに、大事にされてるわ。けど、それは命を狙われてるから?」
「アルフィナ……」
「そんな困った顔をしないで、お医者様。だれにも言いたくないことはあるものね。あの子供……高貴な身分なんでしょうけど、だれかなんて無粋なことはきかない。お医者様の元患者で十分よ」
「すまないな……巻き込んでしまって。お前さんにはただ祝福を与えてもらうためだけだったのに」
「いいのよ。少しでも役立てたなら本望よ」
アルフィナは微笑んだ。
その笑みに誘われてか、暗くなっていた老医師も笑顔を見せた。
その後、老医師が部屋を出て行くと、アルフィナはため息を吐いた。
「……やっぱ人の死はきついわね」
たとえそれが敵であったとしても。
アルフィナが感傷に浸っていると、扉が叩かれた。
フェゼルではないだろう。
この屋敷の使用人かと思い返事をすると、そこにいたのはラザスだった。
彼は、アルフィナが無事であることを確認するとほっと表情をゆるめた。
「そこに座ったら? あたしを運んでくれたんだってね。ありがとう」
「いや──礼を言うのは私のほうだ。元気そうでなにより。あやつの毒を吸ってしまったのかと思ったぞ。さすがに肝が冷えた」
寝台の側に置かれていた、ずっとフェゼルが座っていた肘掛けつきの椅子に腰掛けたラザスは、苦く笑った。
「ずいぶん手ひどく扱っていたみたいだけど、……なにも聞けなかったでしょうね」
「! なぜそれを……」
「アシルの使徒はね、口が堅いのよ。それでもしゃべりそうになってしまったら…多分、拷問に耐えきれなくなったらでしょうね、毒を飲んで自害するんですって。そのせいでアーバラス教を根絶するのに時間がかかったって言われてるわ。……まさかまだ残ってたなんてね。天声の業火のときにアーバラス教は壊滅したと思ってた。しかも特定のだれかを襲うなんて……ずいぶんと恨まれてるのね。あの子」
「……」
「アシルの使徒はまた来るわよ。死の危険はいつだって満ちあふれている」
「知っているとも……十分すぎるほどな」
「孤高の黒騎士と知り合いなんでしょ? 宝の持ち腐れよ」
笑いながら言うと、ラザスは肩をすくめた。
「あてにならん。あいつを律することができるのは、あいつが主と定めた者だけだろう」
「そうね……確かにそうだわ!」
「ところで、本題に入っていいか?」
ふいに顔を引き締めたラザスに、アルフィナも笑みを消して真剣な顔をした。
「まずは、これまでの非礼をわびたいと思う。……兵士が迷惑をかけたこと、私の無礼な振る舞い…あぁ、あげればきりがないな。それをすべて、心から謝らせていただきたい」
「やだ、どうしたの? 毒で精神がおかしくなってたんでしょ。仕方のないことだわ」
「だが、許されることではない。使徒の侵入も、毒の混入も…なにもかも気づかなかった落ち度は私にある。知らずにどれほどの月日を過ごしていたか……情けない」
「ずいぶんとしおらしいじゃない」
「お前……いや、あなたが私を救ってくれた。私はいつも苛々していた…それは、毒のせいだけじゃなく…そう、前にも言ったが、月華の君に対して絶望したからだ。私は女という女を呪ったよ…おかげで未だに独り身だ。だが、あなたが教えてくれた。私に希望を与えてくれた。私は、月華の君を信じることにした……あなたは不思議な人だ。修道女でも聖職者でも…まして聖女でもないはずなのに、あのとき、あなたが与えてくれた祝福は、温かくて…そう、まるで母親の胎内にいるかのように……神がそこにおられるような神々しい輝きがその場に満ちていた」
「……」
「私はあなたの中に神を見たと思った……いや、あなた自身が神の使徒だったのか。あなたの言葉が私の心の中に深く…深く響いて、驚いたよ。乾いた心に水が染み渡った心地がした。あなたはもしかして月華の君の……いや、やめておこう。これはただの憶測に過ぎない。私はあなたと出会えたことに絶対神に感謝しよう」
そう言ってラザスが笑った。
穏やかな、優しい笑顔であった。
黙って聞いていたアルフィナも笑みを浮かべた。
彼がなにを言いたかったのかわかっていたが、動揺を顔には出さなかった。
(まだ…今はまだあたしの存在を知られるわけにはいかないの……)




