そのニ
もう、六年……。
先を行くアスランと男の背を見つめながら、ふと感慨深く思い出した。
幼子だったアルフィナも十六の娘となった。
早いとも遅いとも思う間もなく、それだけの月日が流れた。
(生きることは素敵。柔らかな日差しも、清々しい朝もとっても好き。一日一日が愛おしくて、楽しいわ……。でも、心の内に巣くった怒りと憎しみは──消えない。そう、どうしても消えないの。呪詛の言葉を投げかけたあのときから、あたしの心は闇を宿した)
力が…、欲しい。
アルフィナ一人ではダメなのだ。
立ち向かっていける戦力。
対等に張れるほどの権力。
そして、それを支えることのできる財力。
すべてがそろってこそ初めて戦いを挑める。
無謀な挑みと謗られようと、譲れない想い。
アスランが手に入れば、もう一歩進めるのかもしれない。
(神よ───大いなる主、生きとし生けるものの創世主さま、あたしはもう貴方に頼らない。あたしは自分の力で運命を切り開いてみせる)
地下へと続く階段を下りていったアルフィナは、異様な匂いをかいで鼻を覆った。薄暗闇の螺旋階段を照らすのは、等間隔に置かれたろうそくだけだ。淡い光が、不気味さをともなって揺らめいていた。
アルフィナは、冷たい石造りの壁に手をはわせ、転ばないよう慎重に下りていった。しばらくいったところで視界が開けた。
松明だろうか。
赤々と燃える色がまず目に入った。
最後の段を下り終わったアルフィナは、鉄格子を見てここが地下牢であることを知った。
「こいつに祈りを捧げてくれ」
地下牢についたアルフィナを待っていたのは、ラザスとアシルの使徒と数人の兵士であった。
アルフィナに気づいたラザスは、間髪入れずそう言った。
「なぜあたしが……」
理解できないというように眉を寄せたアルフィナは、事切れる寸前の男を見下ろした。ついさっきまで戦っていた男は、苦しそうにもがいていた。
「アシルの使徒であるこやつに、ガイティア教の司祭をあてがうわけにはいかぬからな」
「でも、あたしは……」
「知っている。お前が宗教者ではないことは。……クロイツから聞いた。だが、聞いたところお前は定まった宗教に身を寄せていないと。私もお前の祈りで…救われた気がした……だからこそ頼みたい」
「敵であった者を…あんたの大切な者を殺そうとしたのに、温情を与えるの?」
「死に行く魂に罪はない」
見事なほどきっぱりとした断言に、アルフィナは虚をつかれた思いだった。
ラザスのことを男尊女卑する嫌な男だとばかり思っていたが、実はそうではないのかもしれない。
毒のせいもあったからかもしれないが、アルフィナから見たラザスという男は、人情という言葉は似合わないように見えた。
しかし今はどうだろう。
兵士が五人も殺されて、本当は憎くて、殺したいほど憎くてたまらないはずなのに、穏やかさと苦渋の入り交じった顔で、白をまとった男を見下ろしていた。
「けど、事を知られたら厄介よ。あんたはガイティア教の教徒じゃないの? 愛を説く血の教皇は、ガイティア教以外の教徒に厳しいはずよ。あんたがアシルの使徒に祈りを与えたと知られたら……」
「ふっ、心配してくれるのか……、だが、それでも私は後悔しないだろう……思い出したのだ。月華の君の言葉を──あの方は慈愛に満ちたお方だった……」
「そう……そこまで覚悟ができてるならいいわ。あたしは聖職者じゃないからちゃんと天の国へ導けるか不安だけどね」
アルフィナは、口から泡を吹いて倒れているアシルの使徒のもとへ膝をついた。
(毒をあおったのね……)
側には水瓶が置いてあった。
彼自身が濡れているところを見ると、毒を飲んだと知ったラザスたちが大量の水を飲ませたのだろう。
しかし毒は完全には抜けきれなかったようで、彼はこんなにも苦しんでいるのだろう。いっそ毒を体内にすべてとどめたままだったらこんなにもがき苦しまなくて死ねたのに……。
仮面はすでに取り外され、白目をむいて、喉をかきむしっていた。
憐憫の気持ちがわいてきたアルフィナは、そっと憂えた双眸を隠すかのように睫毛をおとし、細長い美しい手を彼の額に乗せた。
「天なる主、地なる主、親愛なる我が主よ、貴方の子、神の子であるこの者に安らかな平穏をお与えください。苦痛を退け、天への道をお示しください。──大丈夫よ。怖くないわ」
「……あ…がっ」
「なに? なにか言いたいの?」
使徒の震える手がアルフィナの腕を掴んだ。
アルフィナは彼の口元に耳を寄せた。
「あり……ぅ」
「!」
アルフィナは目を見開いた。
ありがとう。
彼は確かにそう言った。
アルフィナは、唇をきつく引き結ぶと彼の手をぎゅっと握りしめた。
「──神よ、我が主よ、どうかこの者の御魂をお救いください! 水の女神よ、どうかこの者をお導きください。暗黒神のもとではなく、貴女がおられる天上の世界へお連れください」
アルフィナに出来るのはただ神々に願うことだけだった。
どれほどこの者をかわいそうに思っても、マリアンナのようには助けられない。
(お許しください……無慈悲なあたしを許して……)
また一人見捨ててしまった。
アルフィナの罪がまた一つ増えた。
けれどそれに悲しんでいる場合ではないのだ。
いつの間にか身じろぎひとつしなくなったアシルの使徒を見つめ、唇を噛んだ。
「礼を言う……ありがとう。少しは穏やかに旅立てただろう」
ラザスが頭を下げた。
けれどぼんやりとアシルの使徒を見つめていたアルフィナにはその声が届かなかった。
錆びた鉄の色をした髪を持つ男は、まだ若そうだった。ひょっとしたら十代後半くらいかもしれない。そばかすの散った顔は、先ほどまで苦痛に歪んでいたのが嘘のように穏やかだった。
まるで自然死だったかのような安らかな表情に、アルフィナの胸が痛んだ。
神の御力を借りて救えていたらどんなによかっただろう。
それでも、彼が苦痛のまま死んでいってないことが救いであった。
白い服はいたるところに血のついたあとが残っていた。一番ひどいのは、アルフィナが傷つけた足だろう。
けれど、しっかりと老医師によって処置されたはずで、そんなにひどい出血ではなかったはずだ。そのほかの傷はラザスたちによる拷問のあとだろう。
それからのことをアルフィナはあまりよく覚えていなかった。
その場に倒れ込んでしまったからだ。
なぜ気を失ったのかアルフィナはわからない。
けれど血の気が引いていくのだけを感じていた。




